名人伝

 紀元前の中国、戦国の時代。韓の国は新鄭の街頭で、ひとりの商人が武器を売っていた。
「さあお立ち会い。手前取り出しましたるこの盾、そんじょそこらの盾とはちと違う。名人の作ったこの盾は、どんな鋭い矛でも突き破れないという、堅きこと天下無双。早い者勝ちだよ、買った買った」
 ひとしきり景気のいい呼び声を響かせた男、今度はかたわらの矛を取り上げる。
「今度はこの矛だよ、皆の衆。名人の鍛えしこの矛は、どんな盾だろうが紙のように突き破る業物じゃ。さあ買った買った」
 そのとき、ひとりの老人が進み出た。皮肉たっぷりに、ゆっくりと話し出す。
「さっきからあんたの話を聞いておったが、ひとつ腑に落ちんところがある。それはじゃ、あんたのご自慢のその矛で、そちらの見事な盾を突いてみたら、いったいどういうことになるのかな。そのへんのところを教えてくだされ」
 男は言葉に詰まるかと思いきや、微笑って答えた。
「では試してみましょう。お爺さん、手伝ってくだされ」
 男はみずから盾を持ち、老人に矛を持たせて盾を突かせた。盾にはかすり傷すらつかなかった。
「さて、今度は逆にしてみましょう」
 今度は男が矛を持ち、老人に盾を持たせた。あたりに一閃の気合が轟いたかと思うと、その瞬間、矛は老人の胴体もろとも、盾をみごとに貫いていた。男はにこやかにこう述べると、いずことも知れず去っていった。
「今ご覧になったように、名器もそれを持つ者の技量により、光りもすれば、錆び朽ちもするものでございます。くれぐれもそのこと、忘れぬように」
 韓の人はおどろき、男を名人として崇めた。のちに呉王夫差、越王勾銭の愛刀を鍛えた稀代の名工、越国の欧治子がそれだという。いっぽう老人は名も知れぬまま路傍に葬られた。これ以降、「新鄭の老爺」といえば、身の程も知らずいらぬ差し出し口を挟む、見る目のない愚人という意味で用いられるようになった。今でも論争に参加するときなど、「私は新鄭の老爺にて、皆様のご高見に口挟む権利はございませんが……」などと使われることがある。

 これに似た話が日本にもある。
 こちらは千八百年ほど後の話。日本の戦国時代が終わり、江戸時代に入ったばかりの金沢。加賀前田家三代目の前田利常、退屈まぎれに、とんでもないことを思いついた。
「金沢に過ぎたるものがふたつあり、刀正次、鎧の興里。――そう里謡にも歌われているそうじゃ。それほど優れたものか。面白い、正次の刀と興里の鎧、どちらが優れているか試してみよう」
 道楽の過ぎる大名とはまことに困ったもので、さっそく両工にそれぞれの自慢の作を持参させ、試し斬りをやらせることになった。
 殿様や家臣の見守る中、興里は白木の台上に自作の兜を据える。つぎに正次が台前にすすみ、すらりと一刀を抜く。しばらく瞑目し、身体に気根を充実させ、まさに斬らんとするとき、興里が大声を上げて制止した。
「待った」
 気合を逸らされ、不機嫌な正次をよそに、興里はつかつかと進み出、
「兜の位置が気に食わぬ」
 とやや直し、また自席に戻った。正次はふたたび集中しようとしたが、腹立ちや焦燥でどうにも意のままにならず、一喝とともに刀を振り下ろしたが、兜の飾りの部分にわずか一寸ばかり斬り込んだだけだった。
「勝負あった。まさに興里の兜こそ、古今稀に見る名器」
 と殿様からお言葉を賜り、褒美の数々を手にして屋敷に戻った興里だったが、終始浮かぬ顔をするのみだった。
「今では里謡も、金沢に過ぎたるものがひとつあり。虎次郎興里、名代の兜。――そう歌うようになりました」
「これで師匠の名も、加賀はおろか、六十余州に響きわたること必定」
 などと弟子がお祝いの言葉を述べても、渋面を崩さない。
「あの勝負、わしの負けじゃ。あのとき待ったをかけねば、気合充実した正次の一刀のもと、わしの兜は真っ二つにされていたに相違ない。思えば卑怯な振る舞いじゃ。いずれ斬られる甲冑など、思えばつまらん。それよりは斬る刀を作ろう」
 と、五十にならんとする年齢になって刀鍛冶に商売変えした。
 転向した理由はそれだけでなく、平和な時代が来て鎧兜の需要が少なくなったこともあるらしい。それにしても孫が生まれようかという歳での商売変えは例がなく、周囲も頻りに止めたが、興里は頑固に刀を打ち続けた。古釘などの古鉄を混ぜるなどの工夫を重ね、石灯籠をも両断する切れ味をもった刀を造り上げた。やがて江戸に出、数年ならずして天下に名を轟かせた。新選組近藤勇の「今宵の虎徹は血に飢えておる」で有名な、長曽祢興里虎徹入道こそ、この人である。

 もっとも近藤の刀は虎徹ではなかったという説が有力である。実際の虎徹は名高くなりすぎた。実用品として使うには、値段が高すぎた。すべて大名や豪商の宝物として珍蔵されるのみで、ついぞ実戦の場に出て人を斬ることはなかった。名剣ゆえに用いられることなく終わってしまった我が作品を、泉下で興里はどう思っていたのか――。


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