辻参謀!地方人が参りました

 というわけでタイは何回か来ているが、ラオスは初めてである。行こうと思った動機はふたつあまりある。
 第一は先日カンボジアとベトナムに行ったこと。カンボジア、ベトナム、そしてラオスのインドシナ社会主義国三国。内乱と激動を重ねたカンボジア、よかれあしかれアジアの一方の雄となったベトナム、この二国に比べ、静謐といってもいいほど波乱の少ないラオス。その国のかたちに、興味がわいた。
 もうひとつは、辻政信の伝記を読んだこと。辻政信は元陸軍参謀。ノモンハン事変で兵士と隊長をやたらに殺すヘッポコ采配をふるったのち日本に逃亡。ガダルカナルで兵隊と将軍をやたらに殺すヘッポコ采配をふるったのち中国に逃亡。敗戦を迎えると戦犯指名されて中国からベトナムへと逃亡し、アジアを転々としたあげくほとぼりが冷めたころ帰国。参議院議員選に立候補してどういうわけか当選。ベトナム和平をはかるためホーチミンと談判すると称して、ラオスのビエンチャンを出発、消息を絶つ。おそらくはヘッポコ采配をふるわれることを恐れたベトナムかラオスの軍により、処刑されたものとみられている。
 あと、これは些細な理由というか、理由と言うほどのものでもないんだが、Gダイアリーに「ラオス娘はみんなちび」と書いてあった。いや、これは別に気になったとかそういうんじゃなく、単にそういう話を読んだというだけで、ぜんぜん動機とは関係ない。

 ラオスに行くのに何を用意しようかと迷った。蚊取り線香は必需品のようだが、日本から持ちこむのも面倒くさいなあ。でも虫除けスプレーくらいは必要か。田舎で電池とか手にはいるだろうか。エネループを買い足したほうがよくはないか。トレッキングシューズは必要だろうか。金属探知機はどうか。
 熟考のあげく、とりあえず折りたたみ式の捕虫網を購入した。ラオスなら昆虫が多いのではないかと考えただけのこと。奇麗な蝶やごっついカブトムシやうまいカメムシがラオスには存在すると聞く。
 さらに熟考して、ビニール風船とプロペラ風船を購入。北杜夫「南太平洋ひるね旅」に影響され、子供と遊ぶ道具があればいいなと思っただけ。お札デザインの飴玉と寿司デザインの飴玉も購入。日本・ラオスの友好のため。別に小娘を手なずけるとかそういう目的ではない。
 金は日本円とタイバーツ、ちょうどドル安だったので500ドルを日本で両替して持参。

 ちなみに同行者はハラ君という。私の後輩に当たるわけだが、彼は大学入学前にプロのバンドミュージシャン時代があるので、年齢は同等かそれ以上。二十年来のつきあいだが、正確な経歴を聞いても言葉を濁して答えてくれたことがない。
 たしか高校卒業後、バンドを組んでライブハウスで活躍、同時にバックバンドミュージシャンとしても活動していたが、あるときライブで演奏する曲目にクリーミィマミの主題歌「デリケートに好きして」を主張したところ他のメンバーから非難囂々。そのままバンドを放逐され、そこから一念発起、受験勉強してみごと東京大学に合格したという。嘘のような本当の話である。
 その後は某大手会社で損保マンとして働いていたが、このほど退職し、タイのゴーゴーバーに沈没していたらしい。
 なにしろ根っからのタイ好き。ゴーゴーバーのお姉ちゃんと会話したくてタイ語を習得し、タイの日本人向け風俗情報誌「Gダイアリー」を愛読する男である。どのくらい愛読しているかについては、この旅行記の中でも何回か触れる機会があると思う。
 本人としては一年くらいゴーゴーバーに入り浸って退職金を溶かしてしまう予定だったが、再就職先が早く出社しろと責めたてるので、休みを夏一杯に切り上げ、最後を飾るつもりで私のラオス旅行プランに乗った、という次第らしい。
 しかし、ラオスの前後はバンコクに滞在してゴーゴーバーに通うという条件つき。べつに私は通わなくてもいいそうなので、その条件で了承した。

 さて、この稿をどこから始めるべきか迷ったが、やはり、ラオスを目指してバンコクを発ったときから書くのが妥当ではないかと思う。それ以前の話は、ふたたびバンコクに戻ってからの話と一緒にまとめ、「Gダイアリーでゴーゴー!」とでも題するのがよろしからんと思う。こちらでは下ネタ禁止。

8月8日(日)

 朝8時、バンコクで泊まっていたパトゥムアン・プリンセスをチェックアウト。
 このホテルは一流半というのだろうか。BTSの駅から歩いて5分、巨大ショッピングモールのマーブンクロンセンターに隣接し、交通の便は超一流。フィットネス、プール、ビジネスセンターと設備もぜんぶ揃っている。客室も広く設備は万全。テレビでNHKの放送も入る。ただしかし、間取りや備品にちょっとしたポカがあったり、ドアのたてつけが悪かったり、ちょっとしたところに不備があって、一流にはなりきれない、という感じ。
 ま、だから私ごときでも泊まれる値段なんだけど。

パトゥムアン・プリンセス

 ホテルからタクシーに乗り、バンコク北のバスターミナルへ。ここはウィークエンドマーケットに近い。バンコク中心部から30〜40分かかる。
 同行のハラ君がタイ語を話すことを知ると、タクシーの運転手はがぜん機嫌がよくなり、「なんだったらバスなんか乗らず、おいらのこの車でイサーンまで行かないか?」などと誘ってくるのを丁重にご辞退する。
 北バスターミナルは、ちょっとした空港くらい広大な敷地を誇る。そこに書かれている標識や文字版は、すべてタイ語のみ。事前にネットで調べた時、バスのチケットも旅行代理店が扱っているのを見て、「なんでバスチケットごとき、わざわざ代理店で買わなあかんねん」と思ったが、こらタイ語が読めない人には代理店が必要だわ。ハラ君がいなかったら、路頭に迷うところでした。
 とりあえずタイ東北部、イサーン地方の玄関口、コラートまでのバスチケットを購入。VIPバスで198バーツ。
 VIPバスとはいっても、まあ普通の観光バス。トイレは一応付属しているが、ドアのたてつけが悪くて閉じこめられそうになった。

バンコク北バスターミナル コラート行きVIPバス

 バスは9時半に出発。出発してすぐ、コーラとカップケーキのサービスがあった。コーラはコーラートとの駄洒落……ではないと思う。 数時間後に水とウエットティッシュのサービス。
 12時半にコラート着。バスターミナルのあちこちに軍人さんを見かけると思ったら、近くにタイ陸軍基地があるらしい。
 バスターミナルからトゥクトゥクに乗って町の中心部にあるコラートホテルへ。60バーツ。ハラ君と私のトランクを積むとトゥクトゥクの座席がほぼ占領され、私は半分はみだした危なっかしい体勢で高速移動。転げ落ちたら間違いなく死ねる。
 コラートの町は、むかし要害のために掘られた堀に囲まれた旧市街と、そこからちょっと東にはみ出た新市街がある。両方合わせても南北500メートル、東西1キロの小さな町。正式にはナコーン・ラチャシーマーというらしいが、誰もそう呼ぶ人はいない。
 旧市街の中心には、侵略してきたラオス軍からこの街を守りぬき、詭計を弄してラオスの将軍を暗殺した領主の妻、モー夫人の銅像が立っている。
 コラートホテルは、旧市街を横断する大通りからちょっと奥まったところにある。ロビーがだだっ広い。一泊朝食付きで750バーツ。
 ホテルのランドリーサービスに「軍服60バーツ、士官服60バーツ、戦闘服80バーツ」などというメニューがあるのが、陸軍基地の町らしい。

コラートバスターミナル コラートホテル

 ホテルを出て大通りを東に5分ほど歩いたところにあるタラート市場へ。生鮮食料品、乾物、なんでもあるが、やはりフルーツが目立つところに多い。マンゴー、マンゴスチン、パパイヤ、バナナ、ドリアン、ランブータンなどなど。
 市場のなかにある食堂でクイッティヤオ・ナムトック(血入り麺)を食う。ハラ君のタイ語教室によれば、ナムトックとは血の入ったスープのことを呼ぶそうな。原意は「したたり」ほどの意味で、血がしたたることを指すらしい。
 したたりといっても、麺が血まみれで箸でつまめばスプラッタ、というようなのではなく、豚などの血を煮こごりのように固めて冷やし、豆腐のようにしてから薄切りにして料理に入れるもの。台湾でもよく、これと揚げ腐乳を激辛スープで煮込んだのを売っている。30バーツ。
 市場からさらに東にあるツアーオフィスへ。店は閉まっていたが、貼り紙をハラ君が解読し、隣の喫茶店で休んでいることが判明。店員を発見し、翌日の遺跡ツアーを予約することに成功。ひとり1000バーツ。

コラート市場 クイッティヤオ・ナムトック

 ホテルに戻ってビールを飲んで休憩してから、夕方また町に出る。
 夕食は日本人の経営する地鶏料理屋「黒田」へ。バンコクの同名の店に行ったことがあるが、コラートが本店で、バンコクは支店だそうだ。コラートで育てた地鶏をバンコクに送っている由。
 地鶏刺身、焼き鳥、イカ塩辛などをシンハビールで食う。1500バーツ。
 帰りにナイトバザールをひやかしてみる。コラートのナイトバザールは、西の端にある旧バザールと、南側にある新バザールがあるが、どちらも土産物系はあまりなく、地元住民向けの雑貨・衣料と食品が主。食い物屋台もあまりない。
 いちおうイサーン名物ということで虫屋台があったので買ってみる。コオロギ、コガネムシ、カイコの盛り合わせ20バーツ。コガネムシは初めて食うが、サクサクというかスカスカというか、キチン質以外にはなにもない食感。
 しかし、コガネムシは油で炒めると、黒い身体が茶褐色を帯びて、全身が油でつやつやになり、どことなくゴキブリに似た外観になる。
 ホテルに戻り、ロビーの横にあるカラオケカフェに入ってみる。とりあえずビールと、イサーン名物のソーセージを頼む。
 店の前方にカラオケステージがあり、女性が歌っている。店員なのか、店と契約したコンパニオンなのか。多分後者だと思う。日曜の夜のこととで客は私たち一組のみ。ステージに上げられたりしないか、さっきまで歌っていたお姉さんがマンツーマンディフェンスで張りついてこないか、不安になったので早々に出る。

鶏刺しと塩辛 虫盛り合わせ

8月9日(月)

 ホテルの朝食はビュッフェスタイル。イサーン名物のラープ(挽肉ピリ辛野菜和え)みたいなものがあったので、飯にぶっかけて食ったら、さすが本場のイサーン料理、胃にこたえる辛さだった。でも実際はハラ先生によると、鳥のバジル炒め(パッツガパオガイ)だったらしい。それでもとにかく辛かった。
 9時に本日の遺跡ツアーの運転手が来た。無口な女性運転手。出発前に銀行に寄ってもらい、3万円を11,022バーツに両替。
 コラート近辺の道はどこも広く、きれいに舗装されている。軍事施設が近くにあるからなのだろうか。

ラープ飯 コラート市街

 10時にバン・プラサット到着。紀元前1000年頃の人骨、土器が、クメール式の高床式住居の遺構から出土したらしい。日本なら縄文時代の後期くらいか。
 発掘地点にピットと人骨・土器の模型が置かれ、近くの博物館では貝や翡翠で作った装身具が展示されている。
 博物館の入り口に絵はがきのようなものが売っているので、近くで居眠りしていた老婆を起こしたが、ポストカードはないという。展示されていたのはただの写真だった。もう最近はみんなメールで送れるから、絵はがきを買う人なんていないのかな。
 しかし私たち以外に観光客はまったくいない。博物館の敷地でシャモっぽい地鶏が駆け回ったりヒヨコを集めたり卵を産んだりという農村風景。

バン・プラサット 博物館のニワトリ

 10時半にピマーイ遺跡公園に到着。ここもあんまり人いねえ。近くの高校生ぽい社会見学と、タイ人の見学者が数人、白人旅行者が一組いるだけ。
 しかしここはまさに公園。敷地内はきれいに刈られた芝生が拡がり、そこここに樹木があって休める場所になっている。そんな中に、アンコールワットをふたまわりくらい小さくしたような、ほんとにアンコールワットそっくりの遺跡がある。
 伝説によるとアンコール王朝のスールヤヴァルマン2世は、アンコールワットを建設する前に、ピマーイで予行演習をしたのだという。まさにそっくり。アンコールのユネスコ村というべきか。<埼玉県民にしかわからないネタですいません。
 アンコールワットは全部見て回ろうとしたら一日がかりで、へとへとに疲れはてるのだが、ここは1時間もあればぐるっと一周できるし、あちこちの木陰で休めるし、気楽に見て回ることができる。観光客いないし。
 このピマーイ遺跡から発掘された出土品の多くは近くにある博物館に展示されているのだが、あいにくと休館日なので見ることはできなかった。
 場外にある土産物屋でようやく絵はがきを購入。ついでにTシャツも購入。あんまり客が来ないのか、絵はがきも種類が少なかったし、Tシャツは白地にパソコンでプリントしたような絵柄だったし。

ピマーイ遺跡公園 ナーガと女子校生

 昼食は遺跡公園の近くの半露天食堂。ガイヤーンとピマーイ風パッタイ。ガイヤーンは皮がぱりぱりしていて美味。パッタイはでろーんとした麺が大量にある。味付けが甘ったるくてこってりしていて、さすがに残してしまった。まあ、ビールを一本に控えていた、という理由もある。
 昼食後、食堂のすぐ向かいにあるバンヤン公園をうろつく。ここはたった一本の菩提樹(バンヤン)が、うねうねうねと枝分かれして、数百メートル四方にわたってまるで藤棚のような木陰をつくりだしている。

ガイヤーン ピマーイ風パッタイ

 ピマーイを出発してコラート方面に戻り、パノムワン遺跡へ。こちらは農村の中に突如遺跡が出現するといった感じ。むろん、観光客は私たちの他に家族連れ2組しかいない。
 パノムワン遺跡はピマーイ遺跡とほぼ同時代のものらしい。ピマーイの遺跡はラテライトと砂岩で構成されていたが、こちらは赤煉瓦も併用しているため、全体が赤っぽい。アンコールワット近辺では赤煉瓦使用遺跡はラテライト&砂岩オンリー遺跡より古かったと記憶しているが、辺境なので古い赤煉瓦があとまで残ったのか、それともやはりパノムワンの方がピマーイよりはやや古いのか、そのへんはなんともわからない。
 壁のところどころにクメールっぽい文字が彫りつけられている。

パノムワン遺跡 クメール文字?

 3時にホテルに戻り、これにて本日の観光は終了。シャワーを浴び、ビールを飲んで夕方までまどろむ。
 暗くなってきたころ町に出る。旧市街のはずれをうろうろ歩き、健全そうな店でマッサージ。1時間で600バーツ。さすがに、基本的にタイ語しか通じないなあ。
 夕食は日本風居酒屋「みちづれ」。なんで日本食ばかりやねんとお怒りのかたもおられるでしょうが、なにしろ私が持参した「地球の歩き方」に記載しているコラートのレストランは「黒田」のみ。ハラ君が持参した「Gダイアリー」は、妙に日本食レストランや和式居酒屋やカラオケバーやマッサージパーラーやソープランドにのみ詳しいのですよ。
 ビアシンやらビアチャンやらを織り交ぜながらいろいろ頼んで2000バーツ。けっこう高かったが、たしか山芋の千切りだけで200バーツくらいしていた。あれは日本からの空輸だったのかもしれない。

8月10日(火)

 朝イチで郵便局に行き、絵はがきを姪っ子と親に送る。エアメールは15バーツ。
 朝食後チェックアウトし、北バスターミナルへ。
 9時半発のノーンカイ行き長距離バスに乗りこむ。210バーツ。
 こちらもいちおうVIPバスなんだが、先日のコラート行きよりはひとまわり小さく、トイレもついていない。ドリンクサービスもない。それはいいとして、どうもこの内装は気になる。

コラートバスターミナル ノーンカイ行きバス内装

 おまけにこのバス、座席指定もないので、コンケーンの昼食休憩で外に出ている間に途中で乗ってきた現地人に席を奪われてしまった。タイ人は座席前に飲みかけのペットボトルがあるくらいのことは意にも介さないらしい。やむなく後ろの席に移る。
 さらに、実はこのバスはノーンカイまで行かず、途中のウドン・ターニー止まりだということが明らかになった。2時半にウドン・ターニーで降り、3時のノーンカイ行きバスに乗り換える。運賃は30バーツだそうだが、これはコラートで買ったチケットに含まれているとのこと。
 乗り換えのほうがちょっといいバスだった。座席もゆったりしてるし、ディズニーもどきの内装はないし、さすがにウドン・ターニーから先は乗客も少ないし。
 窓の外は見わたすかぎり田園風景。青空に白い雲がひろがる。

入道雲ほどの起伏は地にはなし
     虎玉

 4時に国境とメコン川の町、ノーンカイに到着。タクシーで市街地のファン・ライホテルへ移動。
 どうやら華僑系らしいこのホテル、2階建てのこぢんまりした建物で、エレベーターもない。部屋に入って冷蔵庫がばかでかいのに仰天した。もっとも中には水しか入っていない。

ウドン・ターニーバスターミナル ファン・ライホテル

 ビールを飲んでひと休みしてから、外に出かける。
 まずはメコン川沿いに散歩。タイとラオスを隔てるメコン川ぞいに遊歩道ができていて、人々はそこで散歩したり遊んだりビールを飲んだりしている。ノーンカイの町で、ここだけ観光地っぽい。土産物屋もあるし。
 その土産物屋でTシャツを購入。150バーツ。
 川っぺりにテーブルと椅子が並んでいるレストランがある。こういうところでビールを飲むのもいいかなと思い、席につく。
 ところが見る見るうちに空が黒くなっていく。やがてボーイが現れ、店の中に移動するようわれわれに命じる。やむなく屋根の下に移動したちょうどそのとき、暴風とともに、ものすごい勢いで雨が降りだした。
 結局、普通の屋根の下で飯を食うことになってしまったのだが、頑強に川にとどまっていたら、いまごろは暴風雨で吹っ飛ばされていたかもしれない。
 頼んだ料理はごく普通のイサーン料理。コームヤーンは、軟骨部分を多量に含んでいてこりこりしていい。甘いソースはつけずに、塩胡椒味のまま食う方が好きかな。ソムタムはほどほどの辛さで頼んだ。雷魚のラープは、味付けはいいが小骨が多くて、ちょっと手こずった。小さな竹皮のバスケットに入ったモチ飯を手のひらの上で丸め、少しくぼみをつけて、そこにラープやソムタムを載せて食うのがイサーン流らしい。
 シンハも含めて2人で390バーツ。川沿いなのでちょっと観光地価格だろうか。
 そのあと街道に戻り、屋台を眺めて回ったり、ドイツバーに寄ってサッカーを見ながらカクテルを飲んだりしてホテルに戻ったら、まだ10時前なのに眠くなってきた。体を動かしたわけではないのだが、400キロ近くの移動が神経にこたえるのだろうか。おとなしく寝る。

メコン川沿いレストラン コームヤーン、ソムタム、雷魚のラープ

8月11日(水)

 寝るのが早かったせいで7時には目が覚めた。
 ノーンカイの表通りに出てみる。まだ早いせいか人も車もほとんど通らない。
 ノーンカイの電線は、バンコクやホーチミンほど大量ではないが、やたらにまばらで、しかもやたらに低い位置に垂れさがっていることを特徴とする。人の背丈より低い。だれか首を引っかけて感電死とかしないのだろうか。まあ、タイじゃそれでも社会問題にはならず、えげつない新聞に黒こげ死体の写真が掲載されておしまいなんだろうなあ。
 開いている定食屋があったので、そこで朝食。ご飯に茹で豚肉とイサーンソーセージをのっけてもらう。スープ付きで30バーツ。
 朝から曇り空だったが、宿に戻って荷造りしていたら雨が降り出した。やはりこのへんはメコン川の影響で、雨が多いのだろうか。

ノーンカイ表通り 朝飯

 雨が小やみになってきたようなので、宿をチェックアウト。バスターミナルへ向かう。
 国境を越えてラオスに行くといっても、別に特別なターミナルがあるわけでもなく、別に立派なバスというわけでもない。チケットを買う時にパスポートの提示を求められるだけが違う点か。55バーツ。
 バスは9時半に出発。ふたたび雨がはげしく降りだし、でも冷房はガンガンに効いていて、ひじょうに寒い。
 タイ・ラオス友好橋の途中でバスを降り、入国審査所へ。このとき、バスの色とナンバーを覚えておいたほうがいい。同じようなバスが何台も止まっているから。私はあやうく難民になるところだった。
 わりと呆気なく国境越え。バスの中から国境を確かめようとしたが、あいにくの雨で、窓ガラスから外を窺うことはできない。

ラオス行きバス乗り場 陸路の入国審査所

 10時にラオスの首都、ビエンチャンのタラート・サオバスターミナルへ到着。ここから稿をあらためて、
「ラオス編」
 とする。
 とはいってもビエンチャンは、ノーンカイとさほど違うわけではない。まあ、一国の首都が隣国の田舎町と同じ、というのは問題があるのかもしれないが。
 しいてタイとの違いを探すとしたら、看板にバラエティが乏しいことか。どこへ行ってもビアラオの看板しかない。
 バスターミナルにたむろしているトゥクトゥクと交渉し、市内のホテルまで運んでもらう。10ドル。荷物が多いとはいえ、ちょっとボラれたかな。
 ホテルはメコン川に面したインターシティホテル。一泊55ドル。部屋も広く、ビエンチャンではまずまずのホテルか。南に面した部屋で、窓から見える海……いや川が美しい。なにしろメコン川は流域面積がどえらいので、つい海かと思ってしまうのだ。
 ロビーの脇にインターネットコーナーというか、パソコン2台が並んでいるのだが、なぜか日本語キーボードのくせに日本語がインストールされていない。ラオス航空のサイトに繋いでみたが、えらく時間がかかる。日本でいうと10年前のISDNでテレホーダイの時間にネットしている感じ。

ビエンチャン・メコン川沿いの通り(ビアラオ看板) インターシティホテル

 杉森久英「参謀・辻政信」によると、辻は昭和36年4月14日、バンコクから飛行機でビエンチャンに到着した。そこで日本大使館を訪問し、別府大使、吉川参議官にラオス潜入の希望を告げたという。21日にビエンチャンを発った辻は、その後の消息を絶っている。
 三木公平「参謀辻政信 ラオスの切りに消ゆ」は、ビエンチャンでの辻の行動について、もう少し詳しい。
 辻の目的は、ラオス経由で北ベトナムに入国し、ホー・チ・ミンと会談してインドシナ紛争を解決することだったという。日本大使館は辻の潜入に反対したが、辻は押し切った。しかし4月16日、背広姿でビエンチャンを発った辻は、すぐさまラオス政府軍の検問に追いかえされ、ふたたびビエンチャンに戻った。そこで、ロップ赤坂の愛称で知られ、ラオス独立戦争の歴戦の勇士である赤坂勝美と会って今後のことを相談した。4月18日のことと言われる。
 赤坂のアドバイスで現地の僧衣に身を包んだ辻は、4月21日、セタ・パレスホテルを出発し、道案内のラオス人少年僧とともに国道13号を北上した。
 本当は私もセタ・パレスホテルに宿泊したかったのだが、なにしろ1泊150ドルの高級ホテルである。涙ながらにあきらめた。

 昼飯を食いに外に出てみる。
 ビエンチャンの街中はきれいだ。整備されているからきれいなのかというと、そうではなく、何もないからきれいだ。なにしろ、路駐している自動車もバイクもほとんどない。たぶん絶対量が少ないのだろう。
 街並みに生活感が少ない。地元民のための店というものがほとんどない。あるのは、欧米人向けのペーパーバック古本屋、カフェ、レストラン、ホテルとゲストハウス、マッサージ店、洗濯屋、両替所。あとは博物館や官公庁、電話局くらいか。要するに観光客とオフィス勤めの人間しか存在していないように見える。
 などといってぼおっと街並みを見ながら歩いていると、側溝の割れ目に足をつっこんで骨折する危険がある。いや、危ないところだった。
 そういえば10年前は、バンコクでも「マンホールや側溝の上を歩くな。いつ割れて落ちるかわからんぞ」などと言われていたなあ。
 ビエンチャンの中心部、ナンブ広場の横手にある屋台でフーを頼む。ベトナムのフォーとほぼ同じものらしい。フーとビアラオで2人前3万キップ。おおまかに1万キップ=100円という感じか。牛肉がやわらかく煮込まれていておいしい。

穴ぼこ フー屋の猫

 ラオス国立博物館に行く。ハラ君情報だと、敷地内に戦車があるとのことだったが、見あたらなかった。
 ラオスから発掘された恐竜や古人骨の標本、ラオス古代遺跡、ラオス王国の栄光などの展示のあと、植民地時代の悲惨と抵抗、アメリカ帝国主義との英雄的な闘争の後にカイソーン首相の感動的なラオス人民共和国設立宣言という式次第になる。このパターンはベトナムの博物館でもよく見たな。
 本屋を探しまわり、ビエンチャンの地図を購入。なにしろビエンチャンの情報としては、私が持っているロンリープラネットのごく簡略な地図、ハラ君の持っているGダイアリーの風俗店と日本料理屋のみ詳細な地図しかなく、いろいろと支障をきたすことがわかったからだ。HOBO Mapというのが1万5千キップだったかな。
 ついでに同じ会社の、次に行く予定のバンビエンの地図も購入。なにしろここはロンリープラネットの地図がやはり簡略なうえ、Gダイアリーに地図が掲載されていないので、ハラ君がひじょうに不安がっていたからだ。
 ついでに絵はがきを買う。あとで知ったのだが、ラオスの絵はがきはひじょうにバリエーションが少ない。バンビエンでもポンサワンでも、ビエンチャンで売っているのと同じ絵はがきを見た。
 そうこうしているうちに日が暮れてきた。さて、世界有数とも言われるメコン川の夕陽を見にいくか。
 ところがビエンチャンのメコン川沿いは、護岸工事なのか再開発なのか、地図ではあったはずのレストランなどすべて取り壊され、土砂が盛られているだけ。午前中の雨でそれがぬかるみ、非常に歩きづらい。
 それでもなんとか川岸に近づいてみたが、夕陽は雲に隠れて見えなかった。
 ふたたびナンブ広場に戻り、その奥のSoukvwmarn Lao foodという店で夕食。隣がゲストハウスなので、若い客が多い。大学生っぽい日本女性の二人組もいた。
 牛グリル、牛肉のラープ、魚スープ、茹で野菜を注文。ビアラオゴールドというのがあったので、それも頼む。合計13万キップ。
 牛のグリルは、やっぱり硬かった。ラープは牛肉の薄切りにスパイスをすりこみ、軽く熱して半生状態のまま香草とあえているので、柔らかくおいしい。
 この店のラオス料理は、スープもそうだが、唐辛子をほとんど使わず、マイルドな味つけ。ただし、茹で野菜についてきた、辛子味噌のようなジェオが辛い。インゲン、未熟なナスなどの野菜のほか、菜の花の葉、スカンポの葉などがついてくるのが目新しい。
 いったんホテルに戻ってから、ホテルの隣にあるバーで飲む。いわゆるファラン、欧米観光客向けの、完全に西欧風の店。バーカウンターではビールを注ぎ、隣にビリヤード台とダーツ、モニターで流れているのはMTVという、おきまりの店。
 バドガールがバドワイザーのビールを薦めてきたので、ビアラオをやめてこれに従うが、別にアメニティグッズをくれるわけではない。
 ビエンチャンのどの店も、ビアラオの大瓶は1万〜1万5千キップ、それ以外のビールは1万5千〜2万キップといったところ。ビールを注文すると、「大瓶でいいか?」と聞いてくるのが面白い。店内の欧米人はほとんど、小瓶をラッパ飲みしている。欧米人はこういうの好きだねえ。そのためにビエンチャン市内ではビールの小瓶が払底し、ファラン以外には大瓶をおすすめするようにしているのだろう。

メコンの夕陽 ビアラオゴールド

8月12日(木)

 ホテルの番組表によるとラオスの番組は、Lao1とLao Star channelの2局あるらしい、少なくとも。
 なにしろ番組表とテレビチャンネルが微妙に食い違っているのではっきりとは言えないのだが、Lao Star channelは電波状況が悪くて見えない。Lao1は国営放送のようなものかと思ったら、ビアラオのCMに多くを頼った放送局だった。ニューススタジオも後ろに企業広告のロゴをべたべたと貼りつけて、F1の優勝会見場のようだ。
 アニメの放送はなかったので、タイのように日本アニメが番組を席捲しているかどうかはわからなかった。ただ昨日行った本屋では、ドラえもんのラオス語版が売っていたから、ある程度の人気はあるのだろう。

オシシ仮面
たぶんラオス語で「わははオシシ仮面」「もはやのがれることはできんぞ」「グエーッ!」と言っている

 朝食はホテルで。お粥やパンのビュッフェの横で麺を作る係の人がいたので、細麺のフーを作ってもらったが、麺をゆでるのに5分くらいかかっていた。細麺とはいえ、柔らかくなるのに、けっこう時間がかかるんだなあ。
 8時にホテルを出て、トゥクトゥクを拾いタラート・サオのバスターミナルへ。きょうは2万キップだった。
 係員にあれこれ聞いて、ようやくブッダ・パークへ行くバスを見つけ乗りこむ。14番の市バスであるらしい。小型のワゴンバス。
 ビエンチャンの市街地からタイ・ラオス友好橋までは、座れない客がいるほどの満員だったが、ほとんどの客は橋のところで降りてしまい、そのあとはガラガラになる。
 バスの通る道は、橋のあたりまではアスファルト舗装されているが、橋を越えて10分も走ると裸道。轍でできた水たまりに豪快につっこみながら、ちっちゃなバスはのたりのたりと走る。おまけにこのバス、たてつけが悪いのか、きっちりと扉が閉まらない。バスが揺れるたびにがちゃがちゃと扉が開閉する。
 アスファルトが尽きて裸道になると同時に、ビエンチャンの観光・オフィス用の街から、地元民の生活する村になる。
 ビエンチャンからちょうど1時間くらい、友好橋からは30分くらいで、シェンクワンのブッダ・パークに到着。入場料5万キップ、写真撮影許可3万キップを払って入場。
 その内容はヘンよー、としか言いようがない。いきなり入り口付近に、真実の口のような入り口のある、ゲドンの十面鬼のようなオブジェがある。その内部に進入し、危ないことこのうえない階段を上っていくと、地獄から極楽への(制作者が考えた)光景が繰り広げられている。
 さらに外には、無数の塑像が立っている。そのどれもが、微妙にデザインが狂っているか、デッサンが狂っているか、あるいはそのどちらも狂っているか、もしくはものすごく狂っているか、のいずれかである。どうやら仏教の摂理を塑像でわかりやすく伝えようとしているらしいのだが、やはり狂っている。

真実の口風十面鬼 十面鬼からの眺め

バッタ? 涅槃で待ってる

 帰りのバスも同じ14番のワゴンバス。途中、運転手が勝手にバスを止めてマンゴを購入していた。乗客は文句も言わず待っている。のんびりしたものである。
 帰途ビアラオ工場に寄ろうと思ったのだが、バスはアナウンスもなしで、工場の前を無視して通り過ぎてしまった。どうやらこのバス、事前にどこで降りるか申告しておかないと、友好橋以外は通過してしまうようだ。
 タラート・サオのバスターミナルに戻り、隣にあるタラート・サオ市場へ。いやタラートというのはラオス語で「市場」の意味だから、単にタラート・サオでいいのか。
 場外が生鮮食料品の市場、建物の中が衣類や雑貨、DVDや化粧品などの店が並ぶショッピングモールとなっている。ここのショッピングモールは、バンコクのMBKをもっとひなびさせた感じだ。おそらくビエンチャン唯一であろうエスカレーターは壊れ、みんな歩いて上っているのがいい味出している。
 ここでTシャツを購入。1枚2万5千キップで、タイよりもやや割高。ラオス商人はあんまり商売っ気がなく、タイならあれも買えこれも買えとやいやい言うところを、客が選ぶのをのんびりと見ているだけ。そのぶん値幅の変動も少ない。いちおう値切ってはみたが、私の交渉術では、6枚15万キップを14万キップにするのがやっとだった。
 タラート・サオのさらに隣にある郵便局から、姪っ子と親に絵はがきを投函。エアメールは18000キップ。しかしタイの郵便局に比べると、ラオスの郵便局は社会主義国のせいか、お役所っぽくてサービスの香りがしない。切手も1種類だけだったし。まあ、南国の花のデザインのきれいな切手だったからよかったけど。
 あ、お役所っぽいといっても、タラート・サオの売り子も郵便局の局員も、不親切ではない。聞けばにっこり笑って親切に答えてくれる。ただ、積極的に「いかがですか?」と売る姿勢じゃないというだけ。まあ、タイやベトナムの激烈に売りこむ店員に疲れたら、ラオスの市場でまったりするのもいいと思う。

マンゴ売りの娘と運転手 タラート・サオ市場

 いったんホテルに戻り、近所のゲストハウスで自転車を借りる。パスポートを預けて1日1万キップ。
 タートルアン寺院や凱旋門まで、3キロほどの道のりを自転車でめぐってみようというのだ。
 しかし暑い。直射日光が肌をじりじりと焼く。ラオスにはもちろん自転車道などというものはなく、歩道もほとんどないので、自転車は当然自動車と並んで走る。日本と逆で右側通行なので、うっかりしていると轢かれそうになる。
 吉例により道に迷ってしまい、あちこちうろついた末にようやく第一の目的地、平壌レストランにたどりついた。黒い遮光ガラスに隠され、外から店内は見えない。すこし不安になるが中に入ってみる。
 ここは北朝鮮政府直営の店で、従業員も北朝鮮から派遣しているらしい。ときどき、タンクトップと短パン姿の朝鮮風美人女性が階段を上り下りしているが、2階に幹部用慰安所でもあるのだろうか。あやしげな雰囲気である。
 外からは黒ガラスに見えた窓は、中からだと透明で外の景色が見えるマジックミラーになっている。ますますもって怪しげである。
 店のあやしげな雰囲気は気にはなるが、まずは飯。チョゴリを着た朝鮮風美人のおねいさんに冷麺とユッケを注文する。もちろん汗で失われた水分を補給するためにビアラオも頼む。
 冷麺(中)が5万キップ。麺の量が200グラムで、(大)だと300グラム6万キップ、(小)だと100グラム3万キップとのこと。きんきんに冷えたスープと、しこしこの麺がうまい。麺は長いまま供し、食べる時に鋏で切りながらというのが本場の冷麺スタイルらしい。ユッケは4万キップ。細切りにした柔らかい生牛肉と香辛料のバランスがよろしい。まあ、値段は現地相場からするとかなりお高いが。
 客席の先に小さなステージがあり、カラオケセットが置いてある。夜はここでチョゴリおねいさんが歌ったりもするらしい。

凱旋門に向かうメインロード 平壌レストラン 冷麺 ユッケ

 店内の冷房とビールとでついまったりしてしまい、店を出たのは3時半。慌てて自転車を走らせるが、慌てすぎてまた道に迷ってしまった。軍事博物館がどうにもこうにも見つからない。バイク屋の店員に聞いてあちこちうろうろしたあげく、ようやく到着したが、もう閉館時間だということ。カイソーン記念館も閉館。ううむ。
 悔しいのでカイソーン記念館敷地にだけ入れてもらい、モニュメントだけ撮影してくる。
 さらに先に進み、タラート・タートルアンへ。ここはタラート・サオよりも生鮮食料品に力点を置いただだっぴろい市場。でかい駐車場のような砂利のうえにテントを立て、そこで営業している。営業形態はバンコクのウィークエンド・マーケットに似ている。
 この市場ではカメムシやカブトムシを食用に売っているというので期待していたが、昆虫はバッタとコオロギくらいしかなかった。あとで調べてみたら、カメムシのシーズンは春、カブトムシのシーズンは冬だそうだ。
 そのかわり精肉、魚介類は充実している。なかでも壮観なのはナマズコーナーで、10センチくらいのちっぽけなのから、2メートルはある巨大なのまで、さまざまなナマズが跳ねたりぶった切られたり焼かれたりしている。

カイソーン記念館 タラート・タートルアン

 タートルアン寺院は敷地がとにかく広い。
 帰途、凱旋門にも寄ったが、こちらも閉館時間になってしまって、中には入れなかった。非常にひなびた、廃墟マニアにはたまらない土産物屋があるというので楽しみにしていたのだが、残念だ。
 6時にホテルにたどりつき、自転車を返却。汗と暑さでへとへとに疲れはてた。しかしシャワーだけ浴びて、とりあえず夕食。
 昨日買った地図によると、ホテルの裏手にラオス料理レストランがあるとのことなので、行ってみる。裏通りの隠れ家的ビストロっぽい雰囲気の、Ban Vilaylac Restaurantという店。ウォーターフォール豚肉というけったいな名称の料理、ルアンパバーン名産川海苔、鶏のラオスカレー、ラオスソーセージと、もちろんビアラオを頼む。
 ウォーターフォール豚肉は普通の豚肉グリルで、どこが滝なのかよくわからなかった。川海苔のフライは、日本の海海苔よりもっときめこまやかで繊細な舌触り。ラオス風カレーはタイよりちょっとマイルドだった。ラオスソーセージはイサーン風ソーセージと同じで、スパイスのきいた豚肉と炭火の香りがよろしい。
(後述。ハラ先生のタイ語講座によると、ウォーターフォールは「したたり」を意味するナムトックを英語に直訳したものだとのこと。前出のしたたりは血のしたたりから転じて血入りのスープを指していたが、今回のしたたりは、炭火で豚肉の脂身の多いところを炙っていると脂がしたたり落ちることから命名されたらしい。タイ語ではムーナムトックであろうとのこと)
 食事中、いきなり真っ暗になった。近辺一帯まっ暗。どうやら停電したらしい。従業員は慣れたもので、すぐに各テーブルに蝋燭をセット。キャンドルライトでムーディーな食事風景となった。どうやら、よくあることらしい。
 停電は30分くらいだったろうか。蝋燭の灯りで気分がよくなったので、ラオラオというラオス風焼酎も頼む。ほのかに甘く、中国の白乾をマイルドにしたような味わい。ラオスの醸造酒、ラオハイは残念ながらなかった。全部で20万キップ。
 食後の散歩がてらに川沿いを歩き、メコンサンシャインというファラン風バーで川海老をつまみにビールとラオラオを飲む。ビールはビアラオブラック。アルコール度数が7.5%と、普通のビアラオより強い。味は……ううん、黒ホッピーに似ている。全部で10万キップ。
 さすがに昼の疲れと夜の酔いでぐったりしてきたので、早々に寝る。

謎のウォーターフォール キャンドルディナー

8月13日(金)

 ホテルの朝食に出ているヨーグルトは明治のヨーグルトだったので、コンビニで買ったラオス産ヨーグルトを食べてみた。やや甘いけれど、ねっとりと濃厚な味。ベトナムのヨーグルトに似ている。
 9時半にホテルをチェックアウトし、タラート・サオのバスターミナルへ。トゥクトゥクは4万キップ。やはり大荷物を抱えているからだろうか。
 ターミナルで例によって係員に聞いたりうろうろ彷徨ったりして、ようやくバンビエン行きのバスを発見。バンビエンまで3万キップ。なんか釈然としない。
 バスはVIPでもなんでもない、ただのオンボロ市バス。座席指定もエアコンもない。荷物置き場もないので、トランクやバッグパックは後部座席に山積み。ううむ、バンコクからコラート、コラートからノーンカイ、ノーンカイからビエンチャン、そしてビエンチャンからバンビエンと、北上するごとにだんだん長距離バスがボロっちくなっていく。そのうち妖怪バスになりそうだ。
 ターミナルでバゲッドサンドと水を買って乗りこみ、10時半に出発。ほぼ満員である。ほとんどラオス人で、あとは私たち東洋人と西欧人旅行者が2組。
 ビエンチャンの市街地を30分ほど走ったと思ったら、いきなり山道になって、それからはずっと山道。
 バスにはむろんトイレなどないので、2時間おきにトイレ休憩がある。山道のこととて、トイレなどない。みんな道ばたで立ち小便。男性は谷を見おろしながら谷底に放尿、女性は山側の茂みに隠れて放尿という暗黙の了解があるらしい。
 たまに山を抜け、平地の町に入ると、「カオジー、カオジー」と叫びながらわらわらと物売りが群がってくる。こちらはバスの窓ごしに金を渡して買うという、昔の日本の駅弁方式。
 ためしに鶏臓物の串焼きを買ってみた。30センチくらいの長い串が2000キップ。レバーや玉ひもを甘辛ダレで焼いている。玉ひもが美味だった。
 朝からずっと雨が降ったり止んだりの不安定な天気。山の峰も霧にかすんでいる。

バンビエン行きバス ずっとこんな山道

 2時過ぎにバンビエン着。なんだかだだっ広い駐車場でおろされた。ここがバンビエンのバスターミナルらしい。
 チケット売り場の建物と、水や食い物を売っている屋台、あるのはそれだけ。ビエンチャンだとうるさいくらい寄ってくるトゥクトゥクも、まったく見ない。
 さてこれから、どうやってバンビエンの街まで行けばいいのか。現地人は迎えの車やらバイクやらで三々五々帰っていった。欧米人旅行者はというと、チケット売り場のベンチに座りこみ、悠然としている。ホテルをもう予約していて、送迎車が来るのを待っているのだろうか。しかし我々は行き当たりばったりで、まだ宿も決めていない。さて、どうすればいいのか。
 10分ほど待ってみたが、バスも車も来そうにないので、入り口あたりにたった一台トゥクトゥクを止めて、バスの運転手と雑談していた運転手に話をしてみた。街までトゥクトゥクで送ってやるとのこと。5万キップで話がついた。
 バスターミナルからバンビエンの中心まで10分ほど。トランクをガラガラ引きずりながらうろつき、Tha Bon Souk Resortというバンガローホテルに行ってみる。川沿いのバンガローは43万キップだが、その向かいのコテージなら23万キップとのこと。コテージに決めた。

コテージ バンビエンの街

 バンビエンの街並みは、山中の宿場町に似ている。メコンの支流、ナムソン川に面し、その山岳の風貌から「ラオスの桂林」と呼ばれている。
 ラオスを縦断する国道13号ぞいにあり、もともとは米軍の基地として栄えた。
 杉森久英「参謀 辻政信」によると、辻は昭和36年4月21日、僧衣に身を包んでビエンチャンを旅立った。この国道13号を徒歩で北上した辻は、途中で中国国民党軍の残党に捕らえられたが解放され、ふたたび北上して、このバンビエン近辺で今度はパテト・ラオ軍に捕らえられた。5月12日ごろと推定されている。
 当時のラオスは内乱のまっただ中。首都ビエンチャンを制圧した親米右派のブンウム政府、右派の軍勢に追われ、ビエンチャンからジャール平原に本拠を移した中立派のプーマ亡命政府、プーマ亡命政権と協力して右派に対抗する、スファヌボン殿下率いる左派のパテト・ラオ、この3派が権力争いに明け暮れていた。
 バンビエンは中立地というのか、米軍、右派軍、左派軍、中立軍がそれぞれ駐留し、停戦交渉を行っていた。
 辻は左派のパテト・ラオ軍の兵営に泊まっていたらしい。最初は拘禁でなく、自由行動が許されていた。バンビエンの中華料理屋で飯を食う姿が目撃されている。

 ちなみに、親米右派のブンウム、中立のプーマ、親ソ左派のスファヌボン、3人とも殿下の称号がつく王族である。それだけ王族の勢力が強大だったのか、王族しかまともな教育を受けて政治思想をはぐくむ余裕が持てなかったのか、どっちなのだろう。
 しかも、それだけ強い勢力を誇っていながら、1975年にはあっさりと王政を廃止し、ラオスは共和制になってしまう。まるで徳川慶喜の大政奉還のような、あっさりとした政権交代だった。
 カンボジアのシアヌークのように国を焦土にしても政権を持つんだと燃えるわけでもなく、ベトナムのバオダイのように国民から完全に見捨てられたわけでもないのに、あっさり政権の座から降りたラオス王室。外目から見ると、奥ゆかしさすら感じる。

 Nokeo Restaurantという店で昼食にする。ワイワイと揚げ魚。ワイワイとはインスタントラーメンのことだが、汁なしで野菜とともに甘辛く炒めた焼きそば。
 街のど真ん中にだだっ広い空き地がある。昔は米軍戦闘機の滑走路だったらしいが、それがほとんど再利用もされず、そのまんま空き地になっている。はしっこにテントを立て、市場があるくらい。横で水牛がのそのそ歩いている。
 バンビエンの地図によると、その滑走路跡にタンクがあるというので、探してみた。しかし、それらしいものは見あたらない。
 空き地の横で遊んでいる幼女がいたので、「旅の指さし会話帳 ラオス」を片手に、話しかけてみた。タンクと言ってもわからないようなので、メモ帳に戦車の絵をかいてみせたが、知らないというようにかぶりを振る。やむなく、ポケットにあった飴ちゃんを渡してひきあげた。
 引き上げようとして出口に行くと、草むらの中に米軍のガソリンタンクだったらしい緑色の大きな缶が立っていた。なんだ、タンクってそっちのことかよ。そら幼女もわからんはずだわ。

バンビエンの幼女 滑走路跡のタンク

 バンビエンの名物は川を使った遊び。タイヤのチューブを浮き輪にして川下りをするチュービング、カヤックやボートで数多い鍾乳洞に入るカヤッキングやラフティング、石灰岩の山を登るロッククライミング、などのツアーを掲げている旅行代理店がいくらもある。そういう店で、明日のポンサワン行きのバスを予約した。9万キップ。
 本当はバンビエンに2泊してもよかったのだが、どうもハラ君がそわそわして、早くこの町を出たいような口ぶりだったので、1泊にとどめておいた。どうやらハラ君は、Gダイアリーに地図が載っていない町に来ると不安感をおぼえる性質らしい。
 バンビエンのもうひとつの名物は、あまり公言できないがヤクである。昔はケシの花を売る小娘などが堂々と歩き回っていたそうだが、さすがに最近は規制されておおっぴらではなくなっている。ソフトな大麻はまだお目こぼしされているらしく、バンビエンの街のレストランや酒場では、「ハッピードリンク」「ハッピーピザ」などの大麻使用料理がメニューに堂々と載っていると聞いていた。
 ところがバンビエンの街をしらみつぶしに探しても、そういうメニューを掲げた店は見あたらない。ううむ、やはり私はハッピーには縁がないのか。
 夕食は街の南はずれにあるカンガルーサンセットレストラン。ハッピーならぬレッドカレーと豚レモン炒めを食う。ビアラオとラオラオ。ビアラオがキンキンに冷たい。
 食後はぶらぶらと街中をうろつき、いちばん人が多そうなSanaxay Restaurantでビールを頼む。メニューを一生懸命見ても、そこにハッピーはなかった。
 バンビエン特有なのだろうか、この手の居酒屋は、テーブル席のほかに座敷があって、客はそこででかいクッションに身体を預け、だらだらと酒を飲んでいる。見るからにヤクやってそうな雰囲気だったんだがなあ。

バンビエンの繁華街 居酒屋の座敷

8月14日(土)

 昨夜の雨で川は増水し、勢いを増していた。空き缶がものすごい勢いで下流に流れていく。

塵芥流して早しメコン河
          虎玉
     (バンビエンを流れるのはメコンではないけど)

 8時半にホテルからピックアップしてもらい、バスターミナルへ。
 やがてポンサワン行きミニバスがやって来た。なぜか日本のカラテっぽい少女のイラストがある、可愛いワンボックスカータイプのバン。そういえば、ビエンチャンにも空手協会があったな。
 しかし本当に、バンコクから北上するたびに、長距離バスが小さくなっていく。そのうち消滅するのだろう。
 乗客が乗りこむのがやっとの車内、荷物をどこに置くのかと思っていたら、バンの屋根に網でくくりつけ、防水のビニールシートをかぶせた。
 9時半に出発。乗客は西欧人男2女1のグループ、ラオス人らしき少女二人、正体不明の中年二人。あと、助手席にときどき、地元の人がちょこちょこと乗ったり降りたりする。
 バンビエンから国道13号を抜け、東へ折れると、ただでさえ狭かった山道が、ますます狭くなる。道路は山に沿ってぐねぐねと曲がり、ところどころ穴があいていたり舗装が切れてぬかるみと化していたり土砂崩れがあったりする。津山の林道を走っていると思えばだいたい正解。
 このぐねぐねで、ラオス少女のひとりがついにゲロを吐いた。とはいっても日本人のように大騒ぎはしない。なんか機嫌が悪いなと思っていたら、いきなりビニール袋に静かに吐き、窓から袋を投擲した。
 ラオス人は乗り物に弱く、バスに乗っているとやたらに吐くという話を聞いていたが、ここで実例を見て、なんとなく得した気分。
 しかし、おとなしいと思っていたら、ずっと気分が悪かったんだね。そんなことも知らず、飴ちゃんをすすめたりして、悪いことをした。

ポンサワン行きミニバス 山道沿いの住宅

迷い牛叱る警笛山のバス
参謀の行方かき消す霧の峰
          虎玉

 山道には近所の家から出てきた牛やら犬やら鶏やらがやたらにうろついている。バスがクラクションを鳴らすと、犬はさっと避ける。牛は時間がかかるが、やがて素直にどいてくれる。いちばん厄介なのはガチョウで、まったくクラクションなど聞いていない。あんまり強情だと、運転手が車を降りて、しっしっと追いたてる。
 1時過ぎ、山の中の峠の茶店のようなところで昼食タイム。もっとも注文したのは私たちと西欧人の男だけで、ラオス人と西欧人の女性はどちらも車酔いでグロッキー。まあ西欧人は、狭いバンの車内で手足をちぢこめ、そちらでも苦しかっただろう。私はクイッティヤオを食う。ラオスではどこも麺類は1万キップらしい。

峠の茶屋 ポリバケツ利用の給水器

 4時になろうというころ、ようやく目的地のポンサワンのバス停に到着。今までのバスターミナルはどこも市街地から離れていたが、ここは街のど真ん中、市場の裏らしい。バスターミナルって広さじゃないし、ただの空き地だし。
 バスが到着するや、どこからともなくわらわらと客引きが群れをなして襲来。ホテルのボードを掲げ、こっちに来い、いやこっちの方が安いと、口々に言い集う。
 中心部から離れてはいるが、設備のよいバンサナジャール平原ホテルにしようと思っていたが、話を聞いてみると、坂道を10分ほども登る必要があるらしい。それでは街に出る気にもなれなくなりそうなので断念。客引きの勧める、Dokkhoune Hotelについていってみる。街道沿いの、ゲストハウスとホテルの中間のような宿。まあまあの内装で、値段も1泊15万キップというので、そこに泊まることにする。
 この宿もエレベーターはないが、2階なのでまあいいか。
 受付には、地雷やら爆弾やらの殻がたくさん飾っている。ロビーの灰皿は爆弾を改造したものである。
 この宿は旅行代理店も兼ねているというので、客引きの人に翌日のツアーも頼む。モン族のモーニングマーケット、戦死者が眠るピエウ洞窟、酒造りの村、モン族の村、温泉、ジャール平原のサイト1を回る盛りだくさんなスケジュールでひとり48ドル。マーケットが早朝開催なので、4時半にホテルに迎えが来る。起きられるだろうか。

 ポンサワンは、乾期にはさぞほこりっぽいだろうなと思われる、西部劇のような殺風景な街並み。これでもラオス東部の中心地、シェンクワン州の州都である。
 三木公平「参謀辻政信 ラオスの霧に消ゆ」によると、辻政信はここから車で10分ほどのカンカイという町にあった、プーマ亡命政府の根拠地で処刑され、その地に埋められたという。
 バンビエンでパテト・ラオ軍の宿舎にいた辻は、ソ連製飛行機に乗ってカンカイに移動したと推定されている。そこでパテト・ラオ軍司令官の自宅に監禁され、司令官の尋問を受けたという。
 どうやらラオスで尊敬されている僧侶に変装したのが心証を悪くしたらしい。スパイ容疑で処刑されたとみられている。

ポンサワンの街 ホテルのロビー

 繁華街の裏にある生鮮食料品マーケットで食材を物色する。
 とりあえず探していた水牛の皮の干したのはすぐ見つかった。一束1万キップ。
 虫系はイナゴがあった程度で、アリもゲンゴロウもクモもカメムシもなかった。残念。
 ハチの巣はあったが、いざ直面すると、蜂の子が巨大で気後れしてしまい、結局買わずじまい。
 それよりも哺乳動物系の品揃えが豊富だった。牛豚羊はもちろんのことだが、ネズミを開いて干したもの、オポッサムのような1メートル弱の動物、ヤマネだかモリネズミだかが生きたまま入っている籠、などが並んでいた。さすがに買いはしなかったが。
 ついでに客引きに場所を聞いておいた郵便局に行き、姪っ子と親に絵はがきを投函しようとしたが、郵便局はすでに閉まっていた。ポストもない。やはり盗まれるからだろうか。

 夕食は宿の斜め前にある、客引きの人おすすめのSanga restaurantへ。
 脂ののったウナギのトマト味のスープ、やっとありつけた炭火焼きの豚肉、インドネシアのガドガドに似たラオス風サラダ、香ばしい煎った米粉と半生の牛肉をあえたラープ。糯米を蒸したカオニャオとビアラオ込みで、10万キップ。
 明日が早いので、宿に戻って早々に寝たが、夜中、けたたましい騒ぎで目が覚める。どうやら欧米人がどこかの店で乱痴気騒ぎをしているらしい。
 キチガイ騒ぎは2時過ぎまで続いた。なんてこった。予定通り山中のホテルに泊まればよかった。

ポンサワン市場 ネズミのヒラキ
食用オポッサム? 蜂の巣
夕食

8月15日(日曜日)

 乱痴気騒ぎがようやく終了し、ようやくうとうとしたと思ったら、もう4時。
 身支度をして4時半にホテルのロビーに集合したが、誰もいない。まあラオスだからな、と納得して5時まで待ったが、やはり誰もこない。さすがに不安になり、代理店に連絡しようと思っても、ホテルのフロントには人がいないし、部屋には電話がない。万事休す。
 ようやく5時15分ごろ、ワゴン車がやってくる。おい、「モーニングマーケットは早朝に始まってすぐ終わりますから、遅れると見れませんよ」と言ったのはそっちのほうだぞ。
 今日のツアーは私たちの貸し切りらしい。運転手と、英語を話すガイドがつく。ヤンサンという優男。
 出発して10分もすると、道路の周囲は霧に包まれる。フォッグランプも通らないほど濃い。
 今日はまさに終戦記念日。日本が太平洋戦争の敗戦を決めたこの日、敗戦の原因のひとつである辻政信の足跡を追って彼が死んだ地を走るのは、運命というものであろうか。

霧萌えて人影萎える肌寒さ
参謀の足跡残せ赤き土
          虎玉

 車は北東、モン族のモーニングマーケットを目指す。マーケットは週に日曜日の朝だけで、そのために山岳民族は近隣はもとより遠方から1日がかりでやってきるとのこと。
 さぞかし観光客も多いかと思ったのだが、見たところ観光客らしき人はいない。ラオス語のアルファベットを書いたTシャツを着た私を、逆に奇異なものを見る目で通り過ぎる山岳民族たち。
 山岳民族は私たちなんかよりずっといい民族衣装を着ている。スカーフを頭に巻いているのは中年以上の女性だけのようだが、若い女性もモン族特有の生地のスカート、もしくはジーンズのパンツで、長袖のシャツの上に、さらに上着を羽織っている。中にはコートを着ている女性もいる。山岳民族のみならず、ガイドもジャケットを着ている。Tシャツ一枚の薄着は、私たち外国人と、ほんの小さな子供だけだ。
 確かにシェンクワンの夜と朝は、夏でもTシャツ1枚だと肌寒い。日が射してくると暑くなってくるが、それでも日陰に入れば涼しい。日本の夏の軽井沢くらいかな。
 ポンサワンの近郊は、ジャール平原と、なだらかな山岳地帯が交差しており、なんとなく斑鳩あたりを思わせる。完全な平野ではなく、かといって険しい山もなく、大部隊を展開して作戦を立てるにはちょうどいい地形という感じがする。プーマ亡命政権がこのへんを根城にしたのは、そういう意味もあったのだろうか。

 市場は人でごったがえしている。コミケットの会場のような大きい屋根の下では生鮮食料品、その外では生活雑貨を扱っているらしい。生鮮食料品の中では野菜が多い。ウリのような巨大なキュウリがもっとも多いが、他にトウガラシ、各種薬味、バナナ、蜂の巣、雑貨、豚肉、鶏肉、生きた豚、生きた鶏、ウズラ、などなど。生きた豚や鶏は、魚を捕らえるヤナのようなカゴに入れて売られる。
 トラックで運搬されてきた豚は、市場に出されるため、カゴに入れられるとき、世にも悲痛な声で鳴きわめく。袋に詰められた豚は、同じように哀れっぽい声で鳴きわめきながらもがいてのたうち、ために袋がネズミ花火のようにごろごろとうごめく。
 まあ、これに入れられたらどうなるかを知っているなら、いくらでも鳴きわめくがいい。

モーニングマーケット マーケット場外

 市場でラオスのさまざまな女性を見ていると、年齢によって髪型が変遷していくのが、なんとなくわかってきた。
 赤ん坊から幼女期までは、なにも細工しないざんばら髪のまま。
 少女期になると、髪の毛をゴムないし紐ででまとめだす。まとめる位置はうなじのあたりである。
 少女期からだんだん歳を取ってくるにつれ、髪をまとめる位置がだんだん上がってくる。やがて頭頂近くでまとめ、ポニーテールのような髪型となる。
 娘以上の年齢となると、スカーフで髪を隠すようになる。中がどうなっているのかは不明。

ラオス娘の髪型進化論

 市場からしばらく走り、近郊の村へ。村の広場のようなところでは、男たちが集まって闘牛をしていた。
 黄色のこぶ牛同士、黒い水牛同士を戦わせていると思っていたら、そのうちこぶ牛と水牛の異種格闘技戦も開催。
 やはりというか何というか、体格と角の大きさに勝る水牛が勝利。こぶ牛はあっという間に戦意喪失していた。
 水牛は有り余る戦意を持て余して村人に突進し、村人が逃げまどう一幕もあった。

 この村をしばらく散策。高床式の倉庫と住宅のまわりには、犬や豚や鶏や家鴨や牛がくんずほぐれつしながらじゃれる。猿をペットに飼っている家もあった。
 ラオス全土がそうだが、この村は特に爆弾が豊富らしく、米軍が投下した爆弾の殻で作った柵、爆弾の殻で作ったプランター、爆弾の殻を柱にした小屋、ホント爆弾はなんにでも役に立つ。
 なにしろ、この近辺にプーマ亡命政権が根城をかまえていた時期、ビエンチャンの右派政権を後援していたアメリカは、制圧のために地雷を大量に埋め、爆撃機をわらわらと飛ばして、爆弾の雨をここら一帯に降らせたのである。投下した爆弾の数は同時期のベトナムを上回り、世界史上最多といわれている。
 その量に圧倒され、こんなもん景気よくばらまく軍隊と戦争して、そら日本が勝てるわけなかったな、と痛感する。

闘牛
ラオス風柵 ラオス風小屋

 この村でやっている織物と酒造りを見物する。
 自転車のスポークを回して糸をつむぎ、染めた糸を縦横組み合わせてはラオス風の布を織っていく。スポークを回して糸をつむいでいく様子は、ガンジーが糸をつむいでいる映像そのまんまである。
 酒作りはまず醸造から始まる。甕に炊いた米と麹を投入して蓋をし、3ヶ月ほど放置すると醸造酒ラオハイができるそうだ。
 ラオハイをそのまま飲む場合もあるが、多くは釜に注いで薪で火をたいて暖め、蒸発したアルコールを金属パイプに導き、パイプを川の水で冷やして蒸留酒ラオラオをこしらえる。
 自家製のラオラオとラオハイを、ぜひとも売ってほしかったが、この酒は売り物ではないとのこと。祭りのときに飲むらしい。いいなあ。

酒を蒸す煙沁みるや酒徒の眼に
          虎玉

はたおり 酒造り

 8時半を過ぎたので街道沿いの店でクイッティヤオを食う。やはり1万キップだった。
 こういう店で麺類を頼むとどこでも、プラスチックの箸とアルミのスプーンがついてくる。そのスプーンが年代物というか、デコボコの多いというか磨いてないというか、じつに味わいのある風貌をしているのだが、聞いてみるとこれも米軍由来だそうだ。撃墜された米軍の戦闘機、爆撃機の機体のジュラルミンを溶かしてスプーンに作り替えたのだとのこと。ううむ、ラオス人はなんでも兵器から作るんだなあ。

 朝食後、車はさらに北へ走る。10時ごろ温泉に到着。山道をしばらく歩いて沢を下り、川に到達。温泉はこの川の中で湧いている。コンクリートで作った堤防のような上を歩いて川の中央部に達すると、ボコボコと泡が立っている。腕を入れてみると大変に熱い。ちょっと離れると、川の水で熱湯がうめられて、ちょうどいい湯加減。
 裸になって入ってもいいよと言われたが、タオルも着替えも持参していないので、足を温めるだけで遠慮しておく。
 川から戻ってくると、温泉の管理人がお茶とお菓子でもてなしてくれる。
 お茶菓子は虫。コガネムシ、ゲンゴロウ、トンボ、チョウ、ハチ、バッタ、イナゴ、いろんな虫の詰め合わせを、薄いナンプラー味で煮あげている。
 トンボ、チョウ、ハチはすでに羽をむしってあるので、そのまま食べる。コガネムシとゲンゴロウはそのまま調理しているので、固い羽をむしってから食べる。
 コガネムシはサクサクした食感で香ばしい。ハチとゲンゴロウはむちゅっとした内臓がねっとりと舌にからみつく。バッタやイナゴはほどよい固さの殻の歯ざわりが心地よい。トンボやチョウはあまりに小さくて、軽い塩味しか感じられない。
 タイで売っている虫はれっきとした産業だが、ここの虫盛り合わせは、いかにも近所の草むらから採ってきました的な、家内制手工業の雰囲気がある。

温泉 ハチ

 温泉からさらに東に移動し、タムピウ洞窟へ。
 この洞窟はラオス内戦のとき、戦傷者・病人を収容する医療施設として使用されていた。
 1968年11月24日、そこへ米軍がロケット弾攻撃をしかけた。直撃弾が洞窟の一部を破壊、爆発の衝撃と高温と落盤で、負傷者、看護婦、医者など427名が死亡。
 洞窟近辺には外れた爆弾がこしらえた直径5メートルほどのクレーターが数個ある。洞窟の入り口にはそのときの弾のかけらがころがり、いまだに硝煙と油の匂いがする。洞窟の中はところどころ黒ずんでいる。爆発時に岩が焦げた跡、そして死人の脂と爆弾の油がいりまじったものだという。
 洞窟はひんやりとしているせいか、カラスアゲハに似た大きな蝶が数多く飛び交っていたが、そんな話を聞かされたら、捕虫網をもちだして殺生をするわけにはいかないじゃないですか。
 洞窟の入り口の砂地には直径5センチほどのクレーターがある。これをこしらえたのは米軍ではなくアリジゴク。洞窟のひさしで雨が降らないため、アリジゴクには好都合らしい。ガイドに「アントライオン」と言ってみたが、「ノー、イッツノットアント」と通じなかった。
 しかし、こういう地を歩くハラ君のいでたちは、上がタイ文字のTシャツ、下が迷彩模様のズボン、頭にカーキ色のナチスドイツ夏用軍帽で、軍用っぽいカーキ色の、やたらにポケットのある布バッグを肩からぶらさげている。ううむ、空気読めよというべきか、逆に空気読んでるとほめたたえるべきか。

英霊の舞う翅哀し喪の色にて
蟻地獄巣くう先途に地獄より恐ろしき処在りや無しやと
          虎玉

 洞窟のある山のふもとには、死者を弔う慰霊碑と、虐殺記念館がある。
 記念館には死者の焼けこげた遺品、当時の写真などが展示されている。
 そんな中、わずかに救いとなるのが、Mr.Thidbounkhongというおじさんの写真。ライフルを誇らしげにかまえている。なんでもこのライフル(AK47より銃身が長く見えるので、モシン・ナガンの狙撃銃かもしれない)を用い、わずか3発の銃弾で米帝の誇るF4ファントム戦闘機を撃墜したという。すごいやラオス人。

タムピウ洞窟 F4おじさん

 昼になったので、いったんポンサワンの街に戻る。
 ホテルに戻ってシャワーを浴び、斜め向かいのDokkhoune Guest Houseで昼食。名前からいって、泊まっている宿と同じ経営なのだろう。
 翌日の飛行機のチケットを取りたいと頼むと、まずポンサワンのツーリストオフィスに寄り、フライトの予約状況を調べてくれた。
 ツーリストオフィスの庭先にはソ連製戦車の頭部だとか爆弾の殻だとか手榴弾だとか地雷の見本だとかが雑然と展示されている。オフィスの内部には近郊観光情報がパネル展示されている。兵器製スプーンは、Ban Napiaという村で製造されているそうだ。
 オフィスにこんなパンフレットがあった。古くはバンコクの玉本さん、最近だとカンボジアに少女買春にでかける不届き者がいるという話を聞いたことがあるが、ラオスにも来ているようだ。少女を傷つけるペドフィリアは慙死すべし。それにしても、パンフレットの少女の写真がいまいち可愛くなかったのが残念。

ツーリストオフィス庭先 ラオス少女 買春警告

 午後はポンサワンから車で20分くらいのところにある、サイト1へ。
 ジャール平原は巨大な石壺の遺跡で有名。観光客に開放されている遺跡はサイト1、2、3が有名だが、サイト45まであるとのこと。このほかにも発掘中の遺跡が数百あるらしい。現在、世界遺産の申請中。
 この石は近くのPhonkeng山から切りだし、そこで加工してわざわざここまで持ってきたらしい。ご苦労ですなあ。
 この石壺群はだいたい西暦600年ごろの制作と推定されている。日本でもやはり巨石遺跡である、石舞台が飛鳥に作られていた時代だな。あれは前方後円墳の石造玄道と玄室の部分で、あれに土をかぶせると仁徳天皇陵のような古墳になる。
 はるか南太平洋のイースター島でもこのころから、のちのモアイとなる石の祭壇が制作されていた。巨石文化の時代だったのかもしれない。
 石壺がなぜ作られたかについては諸説ある。祭りのとき飲む酒壺説、穀物を収納する米びつ説、死者を納める骨壺説、なんとなくすごいから作ってみた説などあって、まだ確定していないらしい。
 ガイドのヤンサン氏は酒壺説が気に入っているらしい。サイト1の横にある洞窟に案内してくれた。
 この洞窟では、石壺制作と同時代のものと推定される住居祉、かまどの跡、土器、人骨が発見されたと。おそらく日常は洞窟に居住し、なにかあると丘の上の石壺群のところで儀式をしていたのだろう、とのこと。
 石壺には蓋もいくつか発見されている。しかし、直径1メートル50、重量はたぶん100キロ超。こんなものをかぶせたり取りはずしたりする労力のことは考えたくない。
 やはりというか何というか、この洞窟にもラオス人兵士が立てこもっていたため、米軍の爆撃機が雨あられと爆弾を落とし、そのために洞窟の上部は爆弾で大きくえぐられ、近辺には直径5メートルくらいのすり鉢状クレーターがいくつも残されている。
 壺の中には雨水がたまっている。ずっと降っていたんだろう、すでに藻が生えて水草が繁殖し、ミズスマシが泳ぎ、ちょっとしたバイオトープになっている。メダカを入れたらいい水槽になりそうだ。

サイト1 洞窟

 このへんは地雷も豊富らしい。足元に赤と白の「MAG」と書いた標識がやたらに転がっている。これは「Mine Advisary Group」の略。世界の紛争地で地雷や不発弾の除去を行っている団体である。標識は、この範囲は地雷を除去したので歩いても大丈夫という印。つまり、この標識の外を歩くとふっとばされる可能性があるということだ。
 現に私たちが観光している間にも、くぐもった爆発音が何回か聞こえた。MAGが地雷を発見して爆発させたか、うっかりさんの農夫が未除去地域に入ってふっとばされたかのどっちか。地雷や不発弾による死傷事故は、いまでもだいたい1日1人のペースで発生しているそうだ。

 いままで発見されたサイトはすべて、見晴らしのよさそうな小高い丘の上にあるらしい。石壺からジャール平原を見おろすと、一面緑の、なだらかな起伏の草原が広がっている。遠くにはそれほど険しくない山々の連なり。なんだか巨石つながりというわけではないが、飛鳥の風景に通じるものがある。
 その平原を見おろして、ヤンサン氏は、「あそこに米軍の滑走路があった。このサイト周辺にラオス軍が立てこもっていた。あそこから飛び立った米軍機が、ここら一帯を爆撃するのと同時に、米軍兵士がこのへんに地雷原を施設して、ラオス軍の退路をふさいだ」と説明してくれた。関ヶ原みたいでわかりやすいなあ。
 ラオス人の話っぷりは、ベトナムよりソフトというか、恨み節みたいな感情が少なく、淡々としていて好感がもてる。

クレーター ジャール平原

 これで本日の観光は終了。お別れする前に、翌日の予約もしておく。
 ポンサワンは辻政信終焉の、この旅の目的地であり、あと2〜3日滞在してもよかったのだが、残念なことに、この地はGダイアリーに地図が記載されていない。ハラ君は例によって不安感に襲われ、できるだけ速い航空便でバンコクに帰りたいと切望する。
 ポンサワンはローカル空港で、ビエンチャンへ飛ぶラオス航空の飛行機が週3便、月水金に飛んでいるだけ。明日の便を見送ると、次の便は水曜日になる。
 というわけで明日の午後にポンサワンからビエンチャンへ飛ぶ飛行機と、ビエンチャンからバンコクへ飛ぶ飛行機のチケットが取れたらお願いします、とガイドに頼んでおいた。
 私はアルコールの依存症だが、ハラ君はGダイアリーの依存症であると診断する。

 飛行機に乗るまで、午前中の観光はどうだ、南部のオールドキャピタルと、サイト2と3あわせて2人85ドルでいいよ、というので、そのツアーも頼む。
 できれば辻参謀終焉の地、カンカイにも行ってみたい、と頼むと、なんであんなところ行きたがるんだ、まあポンサワンから10分もかからないので、ついでに行ってもいい、といぶかしがりながらも了解した。本当になんにもないぞ、ただの町だぞ。
 こっちからも頼みがある、とヤンサン氏は切りだしてきた。
 実は日本人向けのツアー案内のパンフレットを作りたいのだが、この英語を日本語に訳してくれないだろうか、と一枚の紙片をさしだす。
 おやすいご用だ、とヤンサン氏について事務所に入る。ワードを開いて、紙片の日本語訳をパソコンに入力しようとしたが、日本語のインストールがどうしてもできない。
 残念ながら現地入力は諦めた。のちほど日本に戻ってから文章を作り、体裁をととのえてPDF化したデータを送るから、といって別れた。
 ちなみにそのとき私が作ったパンフレットの文章は次のようなものだったが、ハラ君に拒否された。

ランサン・トラベルツアー

日帰り旅行等企画請け負い候
シェンクワン県の観光よろず手配承り候

(旅程一覧)

旅路其の壱.じゃある平原遺跡壱、弐、参、旧蘇連邦戦車残骸
      らんぐ滝、たゐだむ村、旧せんくあむ県首府へご案内致し候

旅路其の弐.じゃある平原遺跡壱、紋族の村、なむか滝、川の温泉
      たむぴう洞窟、機織りの村、爆撃地跡へご案内致し候

旅路其の参.じゃある平原遺跡壱、旧蘇連邦戦車残骸、鬼畜米軍航空基地跡
      棺桶の洞窟、仏陀の洞窟、薬師の洞窟へご案内致し候

旅路其の四.じゃある平原遺跡壱より、ふをんけん山への行軍
      (ふをんけん山は、遺跡の石壺の制作地として近年調査が進められておる由)
      その後、越南解放戦線根拠地へご案内致し候

旅路其の五.じゃある平原遺跡壱より、う゛ぁん・ふぁけお村を経由し、遺跡四五までの
      すべてをくまなくご案内致し候(2日を要し候)

 尚、個人的なご要望にも対応いたし候、心づくしのツアーをご案内させて頂く所存にて候。

 夜までしばらくポンサワンの街をうろつく。
 宿の数件隣に、MAGのオフィスがあるというので入ってみる。無料の映画上映は時間がずれていて見られなかったが、地雷被害者や地雷除去作業の写真、地雷被害のグラフなどのパネルが展示されている。
 グロ写真満載という噂のDVDも販売していたが遠慮しておいた。かわりにTシャツを10ドルで購入。
 ついでに市場に寄って、兵器転用のスプーンを探したら、雑貨屋の店先であっさり見つかった。10本束になって1万キップ。
 ポンサワンはシェンクアン1の大都会とはいえ、舗装されているのは街のメインストリートだけで、一方裏にはいると、たちまち赤土の道路を水牛の親子が散歩する農村風景となる。

 夕食は近所のゲストハウスの食堂で、豆腐のスープ、豚肉の香草炒め、牛肉のラープを注文。
 飯を食ってビアラオを飲んだら、さすがに眠気が襲ってきたので、早々に寝る。
 さいわい、今晩は乱痴気騒ぎはなかった。昨夜はサタデーナイトだったからなのか。

ポンサワンの街角 夕食

8月16日(月曜日)

 7時前にホテルをチェックアウトして大荷物を預け、ふたたび同じガイドのヤンサン氏とともに出発。
 通りを黄色い僧衣の行列が通る。鉢のようなものを抱えているところをみると、これから托鉢だろうか。
 昨日はポンサワンから北東部をめぐったが、今日は南東部へ移動。
 オールド・キャピタルは1950年までフランスの総督府があったところ。その後、ベトナム戦争から始まる内戦で米軍の爆撃をくらい、建物は四散したが、戦争集結後、徐々に人間が戻ってきているとのこと。

 やがて車を止め、農村の脇から山道に入る。山道というか登山道というか、草むらをかきわけ小枝を押しのけ蜘蛛の巣を払いながらの強行軍。あえぐように20分ほど登った先に、タ・ティアンがあった。
 昔は階段もある煉瓦造りのモニュメントだったが、インドシナ戦争の爆撃にやられ、今では壊れかけた象の狛犬と仏塔が残っているのみ。
 なんでも17世紀ごろ、この近辺を治めていた武将が建立したらしい。彼はひじょうに戦がうまく、モン族の戦士を率いて、侵略してきたフランス軍と互角に戦ったとのこと。
 しかし、その壮図も空しく、武将の死後はフランスに占領され、さきほどのオールド・キャピタルが建造され、そのオールド・キャピタルも米軍の爆撃で灰燼と帰してしまった。諸行無常。
 タ・ティアンから下を見おろすと、田んぼの横を流れる川が見える。昨日の雨で水量が増し、泥色の水をゆっくりと押し流している。

 

参謀の散華し山河流離いて五月雨去りて誘うさざなみ
   (きちがいじゃが仕方がない)
          虎玉

タ・ティアンからの眺め タ・ティアン

 アッシャー・ストゥーパはポーの小説にでも出てきそうな名前だが、19世紀にこのへんを治めていた首長の妻の墓だという。さきほどのタ・ティアンの武将と血縁関係があるのかどうか知らない。
 もともとは小さなストゥーパだったらしいが、のちに元のストゥーパを覆うような形で新しいストゥーパを拡張し、今のようなばかでかい形になったという。
 その首長の墓は、向かいの山にこぢんまりと立っており、ダイヤモンド・ストゥーパと呼ばれている。
 フレンチ・ホスピタルは仏領印度支那の時代、1953年の建設。のち1969年に米軍の爆撃を受け、医者も看護婦も傷病者もみな殺しにされた。
 ワット・ピア・ワットはかつて壮麗な仏教寺院だったが、1969年に米軍の爆撃をうけ、柱の一部と焼けこげたご本尊を残すのみとなっている。その後、遺跡はそのままにして、隣に新しく壮麗な寺院を新たに建立した。
 焼けこげて相貌もさだかでないご本尊は、昨日の雨なのか、朝露なのか、濡れて黒ずんでいる。

爆撃に仏陀も泣くや夏木立
          虎玉

 心なしかガイドの説明も、フランス植民地時代について語る時は、アメリカと戦争していた時代に比べると、優しいような気がする。
 それはやはり、フランスの植民地経営が、ほんとうに優しかったからではないだろうか。
 岩本千綱「シャム・ラオス・安南 三国探検実記」によると、明治時代のラオスは、苛税にあえぐシャムの人民に比べると、税は安く、政治は効率的で、治安は安定し、むしろシャム人が「一日も早くシャムの羈絆を脱し外国政府の下に属したし」と公言しているくらいだった。
 もっとも当時のシャムのためにも弁護するが、当時のシャムは同時代の日本と同じで、「外国の植民地にはなるまい」と懸命な時期だった。農業と農家の内職に毛が生えた程度の産業のくせに、世界一等国なみの軍備を志しちゃったからさあ大変、国民に重税を課し、国内の締め付けは苛酷で、国民からしたら亡国のほうがなんぼかマシや、とボヤキたくなるような状態だった。
 ついでにフランスを褒めすぎたような気がするので悪口も書いておこう。メコンデルタの穀倉地帯を抱えるベトナムやカンボジアとは異なり、ラオスはもともと儲かるような産業がろくにないので、経営も適当だったんじゃないか。どうせ酷税を課しても、こいつら払えねえから、という扱い。流通も教育もろくに整備せず、治安維持と税の収納だけに専念していたらしい植民地政府を見ると。

アッシャー・ストゥーバ フレンチホスピタル跡

ワット・ピア・ワット 朝食屋のわんこ

 オールド・キャピタルの見物を終え、しばらく車を走らせて、どこの別荘だよという高床式住居に案内された。ここで朝食をとる。
 フーとコーラを頼む。テーブルには、コーラの空き缶を器用に細く切って組んでこしらえた花かごのような形の灰皿が置いてある。むかしは日本でもこういう細工物作る人がいたよね。
 飯の前にトイレに行こうと立ちあがると、ヤンサン氏が、ズボンの後ろが汚れているぞ、と指摘した。
 さっきの山道で泥でもこびりついたのかな、と確認してみると、べったりと赤く濡れている。うわ、血まみれだ。ごわごわしたズボンをたくしあげてふくらはぎを見ると、直径1センチくらいの丸い傷口が開き、そこから血がどくどくと流れ出ている。
 傷口を確認したヤンサン氏は、ヤマビルだな、と呟いた。
 たぶん山道を歩いていたとき、地面に潜んでいたヤマビルが吸いつき、やがて血をたっぷりと吸って逃げ出したのだろう。ヒルは血液凝固をさまたげる物質を傷口から注入するので、離れたあとでも血がなかなか止まらない。そのためズボンの裾が血まみれになってしまったのだ。
 とりあえずティッシュとウエットティッシュを総動員して血を拭き、タオルで傷口を縛ってみたが、それでもタオルがみるみる赤く染まっていく。
 ヒルが寄生虫や病原菌を媒介する可能性はないのか、と聞いてみたら、その可能性はないわけではないが、もし注入されたとしてももう済んだことだし、考えても無駄だ、なるようにしかならないよ、ノープロブレム、とヤンサン氏はクールに呟いた。ラオス語ではボーペンニャン。

 料理屋から田んぼの細いあぜ道を歩いて、サイト3へ移動。
 昨日の川の温泉もそうだが、どうやら私は加齢のせいかアルコールの障害の一環か、平衡感覚が衰え、こういう細い路を歩くとバランスを崩して、田んぼに転落しそうになる。2人に遅れそうになりながら、やっとのことで通りすぎる。
 サイト3は小高い丘の上にある、ちんまりとしたサイト。すぐ下ではこぶ牛がのんびりと草を食っている。

 そこから山道を登り、サイト4へ。山道といっても今度はブルドーザーで切り開いただだっ広い赤土の道だから、ヒルに襲われる危険はない。ところどころにでかい牛糞が落ちていて、踏んづけてしまう危険はあるが。
 サイト4は林の中にある。カシなのか、ガジュマルなのか、南国っぽい照葉樹の林の中に木陰のキノコのように、石壺が点在している。
 もっともどうやら石壺が先で、樹木はそのあとらしい。おそらくはサイト1〜3と同じく、小高い丘の上の見晴らしのいいところに石壺を据えたが、そののち忘れられ、人が来ることもなくなり、樹木が生い茂るにまかせたのだろう。
 その証拠に、石壺の下から生えてきた樹木が石壺をつらぬき、太く成長してついには石壺を内部から割ってしまったものが存在する。タイのアユタヤやカンボジアのタブロムにも似たようなものがあるが、植物って偉大。
 それぞれのサイトは、みな入場料が1万キップだった。

サイト3 サイト4

 ポンサワンに帰る途中、無理を言ってカンカイの街に寄ってもらった。
 カンカイはポンサワンの東5キロほど離れた街。ポンサワンよりひとまわりかふたまわり小さな集落。
 ヤンサン氏はカンカイの湖を指さして、あの湖のほとりにパテト・ラオの総帥、スファヌボン殿下の住居があった、その横に牢獄もあって、外国人の捕虜なんかが収容されていたらしい、と言った。
 はたして、その牢獄に辻政信も収容されていたのだろうか? 三木公平「参謀辻政信 ラオスの霧に消ゆ」によると、辻はパテト・ラオ軍のシンガポー司令官の住宅に監禁されていたということだが。
 もっとも、プーマ亡命政権やパテト・ラオの要人は、米軍の爆撃を避けるためもあって、このカンカイだけでなく、しばしばその本拠を移したらしい。カンカイがラオスの中でもそれほど有名でないのは、数多い逃げ場のひとつに過ぎないということもある。南北朝の吉野のような名所ではないのだ。

 カンカイの町には小さな民家、商店が並んでいるのみで、大きな施設といえば師範学校があるだけだ。
 私は考えるのだが、亡命政権の仮の宿といっても、政府要人やその幕僚、軍隊がいたわけだ。決して少ない人数ではあるまい。カンカイの本拠地には、すくなくとも数千人が集まっていたにちがいない。
 そういう集落の跡地を活用するといったら、学校や工場など、大きな施設に転用するのがもっとも有効だろう。
 もちろん学校の敷地内には入れないけれど、その中にかつて辻政信が収容され、処刑され、埋められている可能性は高い。
 そう思って学校に向かい、黙祷した。

カンカイの町 カンカイ師範学校

カンカイの少女達 教育はカンカイを幸せにする!みたいな看板

 ポンサワンの観光はこれにて終了。辻政信をたずねる旅もこれにて終了となる。
 宿に戻ってチェックアウトし、同じ車、同じ運転手で、ポンサワン空港にむかう。
 ポンサワンの街から20分弱。空港はホントに何もない。窓口でチェックインしたら、あとは隣の食堂でビールでも飲んで時間をつぶすしかない。空港施設でもビアラオは1万キップという良心的価格。
 滑走路をガチョウや鶏の親子が散歩している。こんなひなびた空港も、そうそうないのではないか。

ポンサワン空港 鳥類と飛行機

 飛行機の到着直前にスコールがあったりして先が危ぶまれたが、ビエンチャン行きのプロペラ機はぶじ定時に到着。ラオス航空ATR72−202、60人乗りの小さな飛行機である。
 乗客はざっと18人プラス赤子。すいてるなあ。赤字かなあ。
 こんな飛行機だけどちゃんと離陸直後おしぼりが出て、しばらくしてからミネラルウォーターとフルーツチップが配布された。このフルーツチップの中に入っていたジャックフルーツがおいしくて、バンコクに戻ってから同じ味のを探したのだが、とうとう見つからなかった。
 ポンサワンからビエンチャンまで、プロペラ機で1時間弱だった。

プロペラ機機内 機内サービス

 プロペラ機はちゃんと定時にビエンチャン空港に着陸。空港でジャンボジェットと並ぶと、われらのプロペラ機は相撲取りに抱かれた幼女のようだなあ。
 ここでトランジットの手続きを行う。ビエンチャン空港はさすが一国の首都とはいえ、成田やバンコクと比べるとずっとちっちゃくて田舎っぽい。それでもちゃんと喫茶室や土産物屋、免税店があるのは偉い。
 ビエンチャンの空港でようやく、念願のラオス人向け日本語教科書を購入できた。12ドル。私はこういうのを購入してばかりで日本人向けラオス語教科書を購入しないから、いつまでも外国語が修得できないのだよなあ。
 この本は真面目に日本語を習得したい人向けの本で、特に変なところはない。ところどころ、「たくさんあります」が縮めて「たくさなります」になっていたり、同様に「こんにちは」が「こんいちは」になったり、「こちらこそ」が延びて「こちらこうそ」になっていたりという間違いはあるが、ボーペンニャンである。それより会話例がラオスの国情を表しているようでほほえましい。

「めいそうしてください」そう簡単に瞑想はできません。迷走は得意ですが。
「あじのもとをたべられますか」ひとつまみくらいなら。
「きょうだいいますか」「はい、あにふたり、あねふたり、おとうとさんにんといもうとふたりがいます」ラオスではこのくらい普通なんでしょうね。
「Zさんのうちへいったことがありますか」「はい、いきました」「どんなところですか」「こわいところですよ」こわいんですね。
「Aさんとあったことがありますか」「はい、あいました」「どんなひとですか」「こわいひとですよ」こわいんですよ。
「おばけをうみたいですか」そんなことが可能ですか。

 日本語教材の横に日本語を書いた雑誌があったのでよく見ると、「ゴー!ラオス」の創刊号だった。FREEと書いてあったので、これ、もらってもいいですか、と聞くと、店員はうなずいた。
 中を開いてみると、ビエンチャン市街マップ、ビエンチャン名所案内、ビエンチャンうまいものマップ、ビエンチャンのレストランクーポン券、ラオス国内フライトスケジュール、長距離バスと鉄道の時刻表と、ラオスお役立ち情報が満載だ。
 ちくしょう、この雑誌はラオス出国時ではなく、入国時に入手すべきだった。

 ビエンチャンからタイのスワンナブームまでの飛行機は、またしてもプロペラ機。たぶん同型機だった。こちらはほぼ満席。
 4時半に飛行機は離陸。しばらくしてコーヒーと軽食が配られた。ハムとチーズのクロワッサンサンドと果物。クロワッサンがおいしい。C&Aベイカリーという、ビエンチャンのパン屋さんらしい。
 プロペラ機は6時、無事にバンコクのスワンナブーム空港に到着。所要時間1時間半。
 ポンサワンからバンコクまで、乗り継ぎを加味しても4時間で到着してしまった。バンコクからポンサワンまで1週間かかった往路は、いったい何だったのか。

ビエンチャン空港 機内軽食

 バンコクに到着後、タクシーに乗り込み、我等ははそのままパタヤビーチに移動、ウォーキングストリートに遍在するゴーゴーバーで乱痴気騒ぎを繰り広げるのだが、それはまた別の話である。


雑文でもないのに第十回雑文祭に参加。


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