渋滞の風景
東京方面は25キロの渋滞、3時間程度の遅れが生じているそうだ。
やれやれ、と私は後部座席のシートに凭れて吐息をついた。
前日は清里に泊まった。そこで行われた野球大会に参加したのだ。結果は語るまい。ただ、曲がりなりにも2試合を消化したこと、その結果として参加者全員が今日、激烈な筋肉痛を味わっていること、それだけが真実である。
身動きする度に痛む身体を庇いながら、清里から東京までの帰途につこうとした矢先、中央高速に乗った途端に見たのが、冒頭の情報である。
前日の野球大会後、宴会があった。そこで日本酒4升、ワイン1本、ビール数十本が消費された。反省会と称した宴会は果てしなく続き、明け方5時、最後の数人が部屋に引き上げた時点でようやく終了した。
久しぶりの運動、その後の宴会、そのためいくばくか残る二日酔い、さっき食べたばかりの昼食。そして、果てしなく車の列が続くだけの、単調な景色。
すべてが快い睡眠への誘いである。
もちろん、最も大変なのは、3人の命を背中にしょって、睡気と戦いながら車を駆る運転手である。彼は眠れない。ハッカ入りのガムを噛み、外の風を入れ、深呼吸しながら運転を続けている。
しかしながら、残りの3人も大変である。
車の中では何もすることがない。まだ助手席の人間は、地図を見て行き先を支持する等の仕事がある。後部座席の2人は無為である。本を読んでもいいが、すぐ酔ってしまう。前部座席に遮られて、前方の景色は見えない。結局することといえば、カーステレオの音楽を聴くこと、話をすることくらいである。
しかしながら、寝てはいけないのである。
乗客の仕事は、運転手を精神的に支持することである。
具体的には、話しかけたりして運転手が睡気を起こさないようにすること。
運転手をひとり残し惰眠を貪ることは、許されてはいない。
万が一こういう事態が起こった場合は、運転手は即座にハンドルを切って崖下に転落してもかまわない、という規則を、確か教習所で習ったような気がする。
寝てはいけない。
しかし、みな疲れているらしく、話題も途切れ気味である。
こういうときは、音楽に集中して、気でも紛らそう。
しかしながら、その音楽なのだ。
運転手の趣味で、さっきから太田裕美が延々とかかっている。
太田裕美は嫌いではない。むしろ好きだ。ベスト曲集も持っている。「失恋魔術師」だって歌える。
しかし、ずっと太田裕美というのは。
しかも、ずっと同じCDというのは。
脳天気なくらい明るいサウンドに合わせて、裕美が歌う。あの鼻にかかった独特の声で。
「ぴゅんぴゅんぴゅん、ぴゅんぴゅんぴゅん…」
これを聞いたのは、今朝出発してから4回目だよな。いや、5回目だったか、ぴゅんぴゅん、ぴゅんぴゅん、ぴゅんぴゅ……
はっ。
いかん、寝てしまったらしい。
慌てて前を凝視する。バックミラーが目にはいる。そこに、運転手の顔が写っている。
鬼のような顔で、こちらを睨み付けている。
怒っている。
ごめんよお、もう寝ないよお…
気を紛らそうとして、外の景色を眺める。
観光バスが停車している。
そこから降りたらしい男性数名が、一列に並び、放尿している。
我慢できなくなって止めてもらったらしい。
そこを車の列がゆっくりと通り過ぎる。
こんな多くの人に見られてする立ち小便というのも、他に例を見ないのではないか。
男性はまだいい。
女性は立ち小便というわけにはいかない。
パーキングエリアに入ろうとする車が長蛇の列である。
中には待ちきれなくなったらしく、車を出て、小走りで駆け出す女性もいる。
そんな中で、ついに我慢できなかったらしく、路上にしゃがみ込んだ女性もいる。
まだ若いその女性の足元に、水たまりができている。
こんな衆人環境のもとでの失禁というのも、他に例を見ないのではないか。
あの女性の人生は、あの後どうなっただろうか。
さて、彼女の運命は。彼女。かのじょ……
はっ。
また、寝てしまった。
ああ、バックミラーから鬼が覗いている。
また怒っている
すみません。もうしません。寝ません。
こういうときは、体を動かすに限る。
車中だから、あまり大きな運動はできない。
肩を回してみる。
ああ、筋肉が痛い。
肩を抑えてみると、かちかちに堅くなっている。
ゆっくりと揉みほぐす。
痛い。
しかし痛み半分、快感半分。
筋肉がだんだんと弛緩していく快感で、ゆっくりと、ゆっくりと……
はっ。
あまりの気持ちよさに、つい寝入ってしまった。
わあ、鬼だ。鬼だよう。
ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。
もう日暮れである。
外の景色ももう見えない。
ただ、車の紅いライトが、一列に光っているだけだ。
なんだか、北陸のイカ釣り舟でも見ているようだ。
昔から見て知っていたような、不思議な感覚。
見るのは初めてのくせに、妙に懐かしい、そんな光景ってあるんだよな。
懐かしく、そして心地よく、ここちよく……
はっ。
鬼がくるよお。
許してよお。