自称の地平線

 「笑う新聞」(新保信長:メディアファクトリー)を読む。知人の初の単行本なので、ここで宣伝しておこう。ここ二十年間の新聞記事から妙なものを集めたコラム。面白いです。西原理恵子が描いた、このうえもなく凶相の人物が新聞を読んでいる漫画が表紙。

 この本で気づいたのだが、新聞の三面記事に登場する人物の職業でもっとも多いのは「無職」だが、第二位は「自称○○」であるらしい。この本にも、自称音楽家、自称海軍大佐、自称盲人、自称画家、自称サッシ取り付け業など登場している。
 ところがこの「自称」の基準が曖昧なのだ。たとえば「自称音楽家」など、詐欺で手に入れた金でコンサートを開き、日本フィルを指揮して自作の曲を演奏している。自分で作曲し、自分でコンサートを開き、自分で指揮してるんだから、充分音楽家だと思うのだが、新聞は無情にも「自称」の接頭語をつけてしまうのだ。「悪い音楽家」でいいんじゃないかと思うのだが。「自称」の基準をどこに置くかが問われている。
 それで食っているかどうか、つまり、その職業で生計を維持するだけの収入を得ているかどうかが基準、というのは一見明快だが、これは大量の「自称職業人」を輩出してしまうおそろしい落とし穴である。あまり儲からない商売、例えば詩人だとか研究者だとかは、ほとんど「自称」の蔑称に貶められる。伊藤比呂美は自称詩人の育児エッセイストだし、鈴木志朗康は自称詩人のNHKマンだ。大先輩の萩原朔太郎だって、自称詩人の親の臑囓りだ。
 では一回でもそれで報酬をもらったら「自称」を外そう、となるとここにも問題が生じる。たとえば私は学生時代にバイトで野球四コマをスポーツ新聞に書いて一本五千円貰っていたが、それで「漫画家」の肩書きがつくものでもないだろう。基準が甘すぎる。それにこの基準にしたって、アマチュアはやはり救われない。あのヤワラちゃんも野村君も、たとえ金メダルを貰っても「自称柔道家」では浮かばれないだろう。

 権威が認めればその職業人として認めよう、というのももっともらしいが、権威をどこに置くかで大問題となることは間違いない。そもそもそこまでの権威が、かつて日本に存在したろうか。
 例えば菊池寛という小説家は「文壇の大御所」などと言われていた。彼に睨まれた作家は本が出せない、と言われたほどの権威だった。彼は葛西善蔵という作家が嫌いで、常々、「あんなものは小説じゃないよ。酔漢のクダだ」などと吐き捨てるように言っていたのだが、それでも葛西善蔵の職業を「自称小説家。本業酔漢」と改めさせることは出来なかった。
 それに時代とともに変わる価値観がある。菊池寛の時代から七十年ほどが過ぎ、菊池寛は「父帰る」など一部の作品を除いては読まれることが少ない。それに比べ、葛西善蔵は「私小説の元祖」などと言われてますます読まれている。いまや菊池より葛西が権威となっているのだ。

 そういえば、これらのどの基準からしても「自称」をつけるしかない画家が起こした三面記事的事件があった。当時は新聞が発達していなかったが、もしあれば次のような記事が朝刊を飾ったことだろう。

「1888年12月23日、狂乱の発作で自分の耳を切り落とした自称画家が、精神病院に収容された。警察の調べによると、同日アルル公娼館を訪れた男が、馴染みの娼婦に紙包みを手渡した。開けてみたら血塗れの耳だったので、仰天した娼婦は警察に届け出た。娼婦の証言などから男を自称画家のゴッホ(三十五歳)と断定した警察は、捜査の結果、アトリエの二階で出血多量のため昏睡状態となった同氏を保護した。同氏は前日、自称画家の元株のブローカー、ゴーギャン氏(三十七歳)と絵画理論を闘わせた後、寝についたが、急に厭世的になり、発作的に耳を切り落としたものとみられる。アルル県警は同氏を精神病院に収容、ゴーギャン氏からも事情聴取するとともに、自称絵画数点を参考資料として押収した」

 なんせあいつら、生前は絵が一枚も売れてないもんな。


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