肉鍋を食う女

 というタイトルの文章が、松本清張のノンフィクションにあった。
 なかなかインパクトのあるタイトルだが、ご存じない方のためにあらすじをご紹介しよう。

 群馬県の下仁田は、今でこそ葱の名産で知られ、近くでは蒟蒻の栽培もされ、また山地のことゆえ牛の放牧も盛んで、居ながらにしてスキヤキを食える地方だが、時は終戦直後。スキヤキどころか、米いや麦飯すら食えぬ有様だった。
 そんな部落に夫婦がいた。可哀想に夫婦そろって知恵足らずだった。生まれた長女も知恵足らずだった。その下の子供達はまだ幼かった。一家揃って食うものもなかった。
 ある日、やっとのことで近所からもらってきた大根で大根汁を作ったが、亭主は馬鹿なもので、後先も考えず全部食ってしまった。もう食い物はない。子供達はひもじいと泣き出す。長女も大きななりをして、一番大きな声で泣き出す。女房はかっとなって、長女を絞め殺し、鋸と包丁でバラバラにして鍋に入れた。その日は久しぶりに、一家揃って腹のくちくなるまで肉鍋を食った。めでたしめでたし。

 という事件なのだ。陰惨な事件なのだが、読後感はそうでもなかったのだ。なぜか、「まんが日本むかし話」を読んでいるような牧歌的な暖かいものを感じてしまったのだ。
 たぶん、主犯のこの女房が、頭が足りないもんで反応がぼんやりしているところから来るのだろう。このニュアンスは粗筋では伝えられない。ぜひ、「ミステリーの系譜」(中公文庫)を読んでください。だって、普通、殺人犯が警官に「娘をどうして殺したんだ!」と尋問されて、
「……食っちゃった」
 などとは答えないものだ。こういうぼんやりしたところが、ノホホンとした「まんが日本むかし話」の主人公と通じ合うのだな。

 と思ったのだが、実は今の事件でも、語り口によっては「まんが日本むかし話」になるのではないか、という気がしてきたのだ。最近の事件など、特にそれらしい。試しにやってみよう。方言指導はなし。適当。

 昔むかし、といってもつい最近のこと、肥前の国にお礼ちゅうおなごがおった。
 たいそうな長者だったが、お礼はえらい派手好きで、博打に明け暮れ、男に貢ぎよったせいで、先祖代々の家屋敷も売り払い、無一文になって、途方に暮れて玄界灘を眺めとっただ。
「ああ、もうどっこにも金はねえ。いっそ死んだ方がええべ」
 お礼はそう思って、まさに身投げしようとしたときだ。海の方から、ぼっけえ尊いお方が現れ、こう言っただ。
「女よ。わしは海の神じゃ。おまえに福を授けてやる」
「ほんまですけえ。海の神様。福をいただけるんでしたら何でもするべ」
「よし、それならば、お前がもっとも大切にしているものを、我に寄越せ」
 お礼はそれを聞いてとっくりと考えた。
「おら、もうなにも残ってねえ。神様にお供えするような大切なもん……そうじゃ、わしの亭主じゃ」
 お礼はさっそく、亭主を海辺に連れてきた。
「海の神様。おらに残された、いちばん大切なものですけえ」
 その声と共に、お礼は亭主を力いっぱい海に投げ捨てただ。
 それからというもの、お礼にはどこからともなくお金が集まって、また元の長者になったと。
 ところがお礼はまた男に貢ぐわ、博打するわで、あっという間に財産を使い切ってしもうた。
 またもや無一文になり、身投げをしようと玄界灘にやって来たお礼の前に、海の神様がまた現れたと。
「女よ。今度はお前が二番目に大切なものを、我に与えよ」
 お礼には一粒種の息子がおった。それはそれは、目の中に入れても痛くないくらい可愛がっとった息子で、息子もすくすくと育っとった。
「大事な息子じゃが、福には代えられねえべ」
 お礼は息子を海に投げ捨てただ。
 またもやどこからともなくお金が集まり、お礼は前よりもぼっけえな長者になっただ。
 ところが肥前のお殿様は、自分よりもぼっけえな長者が領内におると聞いて、ご機嫌斜めじゃ。侍をつかわして、お礼を捕まえたと。
「そこな女、この財産妖しげな手管でこしらえたに相違あるまい。ええい、さっさと白状せよ!」
 つうわけでお礼は叩くの蹴るの、えらい目に遭うたあげく家屋敷を奪われ、牢屋に入れられただ。
 お礼は嘆くの嘆かまいの、牢の中で足ずりして泣きながら海の神様に祈っただ。
「どうか神様、おらをこんな目からお救いください」と。
 しかし海の神様は、こう言った。
「女よ。そこからではわしに貢ぎ物を投げられまい。福はなしじゃ」
 つーわけでお礼は、寂しく牢の中で死んだと。どっとはらい。

 うーむ。心なごむお話でした。なごまないか。


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