フィールド・オブ・ドリームス

 彼は空港からあわただしく降りると、すぐにハイヤーを拾って都心方面に向かった。
 運転手は一瞬目を見開いたが、なにも言わず、客の言うがままに高速で車を走らせた。
 深夜の東京。
 平日と言うこともあって車は順調に流れ、水道橋に着いたのは思ったより早かった。

 東京ドームに入ろうとする彼の肩を、叩く人がいた。
「……来ていたのか」
「僕も来ると思いましたよ。ここにね」
 彼の後輩はちょっとおどけたしぐさでドームを指さした。
「高知じゃなかったのか」
「お互い様でしょ」
 ふたりは連れだってドームに入っていった。

 グラウンドには既に人がいた。
「…やっぱり」
 ふたりはマウンドに立つ人影に向かっていった。人影は長身を折るようにしてお辞儀をした。
「…お忙しいところを、僕なんかのために…」
「いやいや」
 彼は手をひらひらと振った。
「とんでもない。君が来てると思ったから、ワンちゃんとふたり、こうして来たんだから」
「私が監督だよ」
 一塁側のダッグアウトから、もうひとりの人影が現れた。
「君も運が悪かったよ」人影はひとりごちた。「私のチームに来た途端、怪我で退団だものな。それにしても巨人では惜しいことをした」じろりとバックネットを睨んで、
「私が監督だったら、君を多摩川で朽ちさせたりはしなかったのに…」
「いや、もう済んだことですから」
 大きな人影は照れたように、長身をますます折り曲げた。

「僕はサードを守る」
「もちろん、僕はファーストだ」
 ふたりは使い慣れたグラブを持って、ベースに向かおうとした。そのとき、三塁側のダッグアウトからひときわ小さな姿が現れた。
「ムッシュー!」
「来てくれたんですか」
「あ、いやいや」小さな男は身長に似合わぬ大きな手を振ってにこにこと笑った。
「今日は、あなたが打つんですか」
「いやいや」小男はかぶりを振った。「昔は私も彼と対戦さしてもらいましたが、もうそんな元気は」
 そのとき、小男の後ろから、のっそりと金髪の大男が姿を現した。
「ランディ!」
「今日は」小男が言った。「私の心づくしですわ。私が見たかぎりでは、最強のバッターを打席におくります」
「僕がキャッチャーをやります」それまで無口で立っていた男がふいに口を開いた。
「猪木君!」
「それが」男は静かに言った。「わずかでも僕の恩返しになるなら」

 マウンドの大きな影と、バッターボックスの大男は睨み合った。
 マウンドでは大きな影が一直線となり、腕を天に伸ばし、大きく振りかぶった。
 プロレス界の後輩の構えるミットをしっかりと見据える。
 バッターボックスの巨漢は柔らかな構えで待つ。
 これまでどんなボールもスタンドに放り込んできた、その自信を、柔らかく穏やかな碧い瞳に秘めて。
 サードにはプロ野球界の先輩が、大きなアクションで動きながら、ピッチャーに声を掛ける。
 ファーストにはそれと対照的に、静かな後輩がベース上に立つ。

 もう、恨みはない。
 このドームの元にあった、後楽園球場に、数えるほどしか立てなかったことも。
 どんなに勝っても一軍に上げてくれない監督を恨んだことも。
 これからというときに二度の怪我で挫折したことも。

 なぜなら、とキャッチャーに語りかける。
 君と一緒に生きたリングがあったから。
 リングが、血も、汗も、恨みも、すべてを拭い去ってくれた。

 長身がいっそう伸び、大きくしなった。
 そして試合が始まった。


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