晴眼剣

 その老人と正対して構えていた壮年の男の顔には、やがて脂汗がにじみだしてきた。
 じりじりと動いても、老人の構える刀の切っ先もじりじりと動き、男の双眸にぴたりと据えられたままなのだ。
 晴眼の構え。正眼とも書くが、相手の眼の位置に切っ先を据えた剣の構えである。
 老人の剣に見据えられ、蛇に睨まれた蛙のごとく、男の顔からは汗がとめどなく分泌されている。

 近江国大津の宿は東海道五十三次の五十三番目の宿である。
 大津から真西に進めば三里ほどで東海道の終着、京の三条大橋へゆく。
 京を迂回し、逢坂山のふもと山科盆地を南西に進めば、伏見へ続く伏見街道。
 大津からの交通路はもうひとつある。大津港から琵琶湖を渡って坂本、彦根、長浜など湖岸の街、さらには淀川を下って大阪までゆく水路である。
 大津はそんな場。七口あるという京には及ばぬが、防御や籠城には向いていない土地である。

 そのかわり流通には向いている。
 京へのぼる旅客、関東へくだる飛脚、琵琶湖の物資を京大阪まで運ぶ船荷、京大阪から運び出される物資などで、いつもごったがえしている。
 その大津宿のはずれの木賃宿に、堀川国安と安之進はいる。
 金のかからない一行である。
 安之進は飯を食って満腹するとそそくさと寝入り、国安は濁酒の徳利を抱えて独酌している。
 隣の屋敷はこの木賃宿よりはましな宿らしく、女の矯声や楽器の音が聞こえてくる。
 国安は杯を傾けながら、しばらく音曲に耳を傾けていたが、ふと、
「おや」
 と杯を置いた。
 平家物語を語る平家琵琶と思っていたが、音色がすこし違う。
 平家琵琶よりも、音色が勇ましい。
 どうやら薩摩琵琶らしい。

「薩摩か……」
 国安はしばらく考えていたが、こっそりと木賃宿を抜け、隣家へまぎれこんだ。
 さいわい、下女とは昨日から顔なじみである。
「え? 琵琶の人?」
 女はすこし首をかしげていたが、
「あ、あのお盲さんやわ」
「盲?」
「へえ、お坊さんやそうで。いま来はったお客さんが、和尚、和尚言うてはりました。目ェが見えへんのやよって、琵琶を弾いてあちこち回ってはる、いう話どした」
「その客、誰かわかるか」
「へえ、ご家中の黒田はん」
 この大津の黒田というと、京極家の家老、黒田伊予であろう。
(京極家家老が、薩摩琵琶の盲坊主に何の用なのか)

 静かに部屋に戻ると、暗闇の中で、くすりと笑う気配がした。
「おじさん、どこへ行ってきたんです」
「起きていたのか」
 国安は安之進に、女に聞いてきた話をした。
「薩摩琵琶を持つ盲僧は、薩摩の出だろう。おそらくは薩摩からの音信を伝えようとしている」

「薩摩も京極も、豊臣方なのではないのですか?」
 安之進の問いに、国安は答えた。
「治部少どの(石田三成)はそう信じている。しかし左近どの(島左近)は半信半疑じゃ」
 国安は大津京極家の事情を説明した。
「もともと京極は近江半国の守護だ。零落したところを故太閤殿下に引き立てられたところで、感謝はせぬ。貴人とはそうしたものだ」
 京極の当主高次には、秀吉よりはるかに格が上だという頭がある。大名に戻してもらったのは恩義と思わず、下の者からの忠義だと思っている。だから恩を返すほどの律儀さは期待できない。
 しかも京極高次の正室、初の方は、秀吉の側室、淀の方の妹であるが、同時に徳川秀忠の正室、江の方の姉でもある。閨閥で豊臣、徳川両氏と結びついているのだ。

 薩摩の事情はさらに複雑である。
 薩摩の島津家は戦国末期、九州全土を席巻する勢いだった。肥前の龍造寺を撃破し、豊後の大友を圧迫した。そのまま九州だけで戦が行われていたら、島津は九州の主となっていただろう。
 しかし本州では豊臣秀吉が中原を統一し、四国の長曽我部、関東の北条を屈服させ、東北の伊達、九州の薩摩にも手を伸ばしていた。やがて秀吉の九州征伐。本州の精鋭をこぞった軍勢に、当時の当主、島津義久はひとたまりもなく降伏。九州南部のみを所領として認められ、それまでに征服した土地は召し上げられた。秀吉は義久の弟、義弘に家督相続を許した。
 降伏後、島津はふたつの派閥に分裂した。秀吉に家督を奪われ、反豊臣の色濃い義久と、強大な力を持つ秀吉に従い、その腹心石田三成と協調していこうとする義弘。

「つまりその和尚どのは、当主の薩摩宰相どの(島津義弘)ではなく、龍伯斎どの(義久)がつかわした使者だというのですね」
「そうじゃ」
 国安は杯を含みながら頷いた。
「あの和尚が通じていると思わねばならぬ、薩摩に」

 その夜、薩摩琵琶の音色がひとときとぎれた。

 翌朝、武芸者の屍骸が琵琶湖に浮いていた。
 大津で道場を開き、京極家中の侍に吉岡流剣法を教えていた、三田村隠斎だった。
 かつて京で吉岡道場に通っていた国安は、隠斎と顔見知りだった。
 道場の住み込み弟子の話では、夜半にひとり外出したという。

 道場に運びこまれた屍骸を、国安は検分した。
 刀で腹から胸まで突き上げられている。
 その致命傷よりも、両目の傷に国安は驚いた。
 含み針のようなもので、両の瞳がみごとに貫かれている。
(おそらく目を突かれ、盲目になったところを襲われたのだろう。でなければ吉岡流印可の隠斎が、そう簡単に討たれるはずがない)

「そんなの簡単じゃないですか」
 安之進は言った。
「あの和尚さんが、その人を殺したんでしょ」
「そう簡単な話ではない」
 国安は苦りきった。
「どうやらあの和尚は昨晩、琵琶をかかえて外出したらしい。大津城ちかくの湖畔で、隠斎を殺すことはできた。しかし、あの瞳の傷は」
 隠斎の瞳孔の中心を、みごとに貫いた小さな傷を、国安は思い出していた。
「盲のあの和尚に突けるものではない。かといって味方がいた気配もない。黒田どのからの加勢もなかったようだ」
 しかしあの隠斎は、あの盲僧に殺されたとしか思えない。
 あの薩摩琵琶を持った和尚に……
 薩摩琵琶……
「あるいは」
 国安は呻いた。
「龍と蛇と鬼来さず」
 安之進が呪文のように呟いた。
「なんだそれは」
「あれ、あの和尚さんが琵琶を弾きながら歌っていた台詞ですよ。魔を追い払う呪文ですかね。ひょっとしたら”来さす”で、魔を呼ぶのかもしれませんが」

 その夕暮れ。
 国安は琵琶湖畔で、盲僧と相対していた。
 薩摩琵琶を大事そうに抱え、不安げな盲僧に、国安は話しかける。
「隠斎のとどめは、腹から胸を貫いていた。あれは地中に潜った敵に下から突かれるか、あるいは屈みこんだとき、寝ている敵から突かれた傷じゃ」
 盲僧はじりじりと下がろうとしたが、国安が気合いで抑えて身動きを許さない。
「和尚はいかにも密書を抱えているかのように、この大津の城へと向かった。いぶかしく思った隠斎は、ここで和尚を呼び止めた。そこで斬り合いになった」
 盲僧の不安の色はいよいよ濃い。
「和尚はわざと斬られて死んだふりをして倒れた。隠斎はまず琵琶に向かい、密書を探した。この琵琶には、いかにも隠し扉らしい飾りがあるな。隠斎はそこを触り、ばね仕掛けで飛び出た針に目をやられて、もがくところを、寝ていた和尚の下からの突きで絶命」
 国安は飛ぶように走り寄り、盲僧の抱えていた琵琶を叩き落とした。琵琶の胴のところにある、鳳凰の文様を刀のコジリで突いた。かちりという音がして、虚空にふたつの銀色が光った。

「このめくらを殺すというのか」
 盲僧の声は震えていた。
「和尚が龍伯入道の密書を京極どのに渡すだけであれば、殺すつもりはなかった」
 国安の声が低く闇を震わせた。
「しかし密書は別の間者が届けた様子……和尚の仕事は、あたかも密書を届けるがごとき目くらましと、城下を混乱させるための殺人……和尚が殺したのは、わが知音じゃ」
 観念した盲僧は、刀を鞘走らせた。
 ふたたび銀色が光り、老いたる盲人は血煙をふいて倒れた。
「そしてわしは、めくらの老人を殺すことにも躊躇はない」


ターコイズ雑文祭2012
1.題名に「青」を含む。
2.文中に「そんなバナナ(そんなばなな)」「和尚がツー(和尚がつー)」「辰年あとを濁さず(たつとしあとおにこさず)」という語句を入れる。 


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