石田三成と徳川家康が雌雄を決した関ヶ原の合戦。
大谷刑部少輔吉継は、松尾山の麓に陣をかまえていた。
藤堂、京極らの兵と激戦をくりひろげる大谷二千の軍勢を襲ったものがいる。
「殿、やはり小早川が寝返りました!」
「うぬ、やはり裏切ったか」
大谷吉継はぎりぎりと歯を食いしばった、と書きたいところだが、もう歯はなかった。
ぜんぶ抜けてしまっていた。
大谷吉継は、当時の言葉で言えばらい病、今でいうハンセン氏病に冒されていたと伝えられる。
すでに全身は肉芽腫と潰瘍におおわれ、両眼は失明していたという。
顔は白い布で隠し、全身も白い布で覆い、そこに鎧の絵を描いていたという。
もはや鎧をつけられるような体調ではなかった。
「ライラライラライラライラライ……」
「殿、メランコリーになるのは、まだ早うございます」
横腹を突かれた大谷勢は、あやうく崩れかかったものの、なんとか踏みこたえた。
しかし新手の攻撃に、じりじりと押されるばかり。
「もはや、これまでか」
見えぬ目をかっと見開き、虚空を仰いだ拍子に、なにかがぽとりと落ちた。
「殿、鼻が落ちましたでござります」
つねに吉継の側を離れない忠臣、湯浅五助が、そのものを拾いあげた。
「腐れて落ちたのじゃ。もはや用のないもの。捨ておけ」
「いいえ殿、このような戦場で、もしも敵方の兵がこれを拾えば、われこそ大谷刑部少輔吉継を倒し、これを斬りとったと言い触らすことでありましょう。それこそ殿の恥辱。捨ておけませぬ」
石ころだらけの地面をがりがりと小柄で引っかき、なんとか主君の鼻を埋めようとする五助の様子を感じ、吉継は見えぬ目から、はらはらと涙を流すのであった。
半分、膿が混じってはいたが。
劣勢の大谷勢を、さらに背後から襲うものがあった。
「殿、脇坂、赤座、朽木、小川。以上、寝返りにございます」
もはや持ちこたえることは不可能である。
軍勢はチリヂリバラバラになり、あるものは槍で突かれ、あるものは鉄砲で撃たれ、バタバタと倒れていった。
このようになっても逃げるものが少なかったのは、ひとえに主君に心服していたためである。
「勝ちたかったい」
「無念にござります」
「それもこれも小早川のこせがれ、金吾の裏切りが原因ぢゃ」
吉継は呻いた。
「金吾め、人面獣心なり。必ずや三年のうちに祟りをなさん」
そう言い捨てて吉継は、顔をおおっていた白布をむしり取った。
「わしは人心獣面ぢゃ」
たしかに、病みくずれた吉継の顔は、どこか獅子に似ていた。
「殿、そのようなことをされるから」
湯浅五助がまた叫んだ。
「頬が落ちてしまったではござりませぬか」
「ほほう」
「そのようなことを言っている場合ではござりませぬ」
またもがりがりと地面をひっかく五助。
頬を埋めるのに熱中していた五助は、そのとき藤堂の兵が吉継に駆けよってきたのを知るのが、わずか一瞬、遅れた。
その兵士は剣をふるい、吉継に斬りかかった。
気配を感じた吉継だったが、盲目の哀しさ、よけそこねて右腕を斬られた。
ふき飛ぶ右腕。しかし血は飛ばなかった。痛みも感じなかった。
(わしは、ここまで……)
知覚が鈍麻していたのか。
五助はようやく気づき、吉継を守ろうとして槍で突きかかった。
しかし慌てていたためか、手元が狂った。
槍先はずっぷりと、吉継の右太腿を貫いた。
(やはり、痛くない……)
もう大丈夫だ。
「と、殿!」
ようやく兵を突き伏せ、吉継を抱きかかえる五助。
「大丈夫ぢゃ」
吉継は、ゆっくりと語った。
「しかしもう、これまでぢゃな」
「五助、介錯してくれ」
吉継は地面にべったりと座り、ゆっくりと白布をかきわけ、潰瘍で崩れた腹部を露出した。
「頼む、わしのこの首、家康に見られたくはない。どうか、人知れず隠してくれ」
「殿……」
しばらく涙にくれていた五助だったが、やがて腰の剣を抜き、吉継の後ろに立った。
「殿、ご存分に」
脇差を抜いた。
腹を突いた。
それと同時に、五助は剣をふるった。
首が飛んだ。
痛くない。
大丈夫だ。
病者とは思えないほどの勢いで、首は飛んだ。
どこまでも飛ぶ。
(わしは……)
吉継の首は、なくなったはずの頬に、風を感じながら飛ぶ。
(どこまでも飛べる)
痛くはない。
爽快感さえ感じる。
(身体のない首だけが、こんなにも心地よいとは)
首は飛ぶ。
はるか下の景色がよく見える。
どういうわけか、目も見えるようになったらしい。
その鋭い目で、吉継は東軍の、重大な隙を発見した。
京極、藤堂勢を大谷軍が引きつけ、井伊、本多勢が宇喜多軍に襲いかかっていたため、松尾山から藤川を越えて烏頭坂、十九女ヶ池を通り、桃配山の家康本陣へ抜ける方向が、がらあきになっているのだ。
(これは、家康を襲える)
吉継は驚喜した。
(冥土の道連れに、家康も連れていってやろう)
「みなの者、われに続け」
自分でもびっくりするほど、大きな叫び声が自分の首から出た。
「狙うは家康の首ひとつぞ」
と大声で叫びながら東の空へ飛んでいく首ひとつ。