夫婦別姓

 誤って太田蜀山人の作とされることが多い、寛政の改革を風刺した「世の中にカほどうるさきものはなし ぶんぶというて夜も寝られず」という狂歌は、カのぶんぶんという羽音と松平定信が強調した「文武」とをかけているだけの歌だと思っている人が多い。しかし実は、もうひとつの意味がある。
 江戸時代、カはメスとオスとで漢字が違っていた。メスのカは今と同じ、虫へんに文の「蚊」であったが、オスのカは虫へんに武の「虫武」をあてていた。訓読みはどちらも「か」と読むが、音読みでは「蚊」は「ブン」、「虫武」は「ブ」と読んでいた。すなわち、「ぶんぶ」は、それだけでカのメスオスのことを指す言葉だったのである。
 これが明治以降、メスを指す「蚊」で統一されてしまった。カという昆虫は、一般人にとっては刺す虫、血を吸う虫というものでしかない。ご存じの通りカで血を吸うのはメスだけで、オスは野原で草の露など飲んでいるだけだ。したがって、カに対する一般人の興味はメスにしかなかった。そんなわけでだんだんとメスを指す「蚊」がカの総称となり、オスの字は忘れられてしまった。

 蚊の例のように、むかしの人はオスとメスを区別し、別な漢字で表現することが多かった。有名なのはオシドリの「鴛鴦」である。鴛はオスのオシドリ、鴦はメスのオシドリ。
 オシドリという鳥はオスとメスのつがいがつねに一緒に行動するため、夫婦仲むつまじいものの代表とされていた。そのため婚礼などではいまだにこの字が用いられ、カのように忘れられることをまぬがれた。もっとも単に一羽のオシドリだと、「鴛」の字を使う。カとは逆に、オスで種族一般を代表しているわけだ。オスのオシドリは体も大きく、赤や白や青の派手な色をしていて人目に立つのに対し、メスのオシドリは地味な灰色なので、オスが代表となったらしい。
 だいたいこういう夫婦別姓は中国伝来らしい。たとえばうろたえたことを示す「狼狽」という字だが、これももともとはオオカミのオスメスをあらわす漢字だった。オスが狼でメスが狽。なぜか中国人は、メスの狽は短足のため、オスの狼の背中にいつも乗って移動すると考えていた。たまにオスの背中から離れているときに人間や熊に襲われると、あまりに短足のため逃げきれずにあわてふためく。だから「狼狽」というのだと、なんだか落語のような話である。これもいまでは、オスの「狼」が種族を代表してしまっている。
 「翡翠」はヒスイと読み、今では宝石の名前になってしまっているが、もともとはカワセミのことで、「翡」がオス、「翠」がメス。こちらはなぜか、メスの「翠」が代表になってしまった。オスのほうが色鮮やかなのだが。
 中国人はUMAにさえオスメスの区別をつけた。「鳳凰」は鳳がオス、凰がメスである。「麒麟」は麒がオス、麟がメス。リュウは「龍」と「竜」のふたつの漢字があるが、「龍」がオス、「竜」がメスである。どこで区別するかというと、オスの龍は指が五本だが、メスの竜は指が三本ないし四本である。かつて清朝以前の中国では、中国の皇帝だけがオスの龍を旗に描くことができた。皇帝の臣下や属国の朝鮮や日本の皇帝、天皇は、メスの竜を描くことしか許されていなかった。だから朝鮮や日本で描かれているリュウは、五本の指を持つものがない。

 中国では人間の夫婦すらも別の名前になる。毛沢東の最後の正式な夫人は江青であり、結婚したからといって毛青にはならなかった。劉少奇夫人は王光美であり、孫文夫人は宋慶齢である。社会主義で男女平等だからというのではなく、昔からそうだった。どうやら男系相続のため、嫁は他家から来た子供の容器ていどに考えられていたことに関係があるらしい。

 なぜ中国人がこうも男女の差にこだわったのか。陰陽五行説の影響であるという説もある。すなわちオスは陽、メスは陰。たとえば男性のペニスは「陽物」、女性のワギナは「女陰」と呼ぶ。陽は気を発するものであり、陰は気を吸い込むものである。これをはっきり区別しなければ養生も医術もできないので、雌雄を峻別したというのだ。
 しかしこの説は順番が逆ではないだろうか。陰陽五行説のためにオスメスの区別をはっきりしたのではなく、中国人にとってオスメスがはっきり分かれていたから、陰陽五行説というものも生まれてきたのではないだろうか。

 蟹が原因ではないか、と私は考えている。
 中国では古来蟹を愛してきた。いわゆる上海蟹という、淡水生のモクズガニである。姿のまま蒸して食うことが多い。秋になるとこれを食べるのが中国人の楽しみになっている。晋の畢卓という詩人は、「酒を満たしたプールに飛び込み、片手に杯、もう片手に蟹の爪をもって泳ぐことができたら、もう何も望むものはない」と歌った。まわりじゅう酒なんだから、杯なんていらないと思うのだが。ともあれ、古くは唐の李白に蟹で酒を呑む詩があり、「周礼」には蟹の塩辛の作成法があるから、中国の歴史は蟹の歴史といっても過言ではない。
 この蟹、メスとオスとで味わいがまったく違う。メスは腹に詰まった卵を賞味し、オスは爪や脚のところにみっちり詰まった肉を楽しむ。「蟹の身ぞ知る」というやつだ。美味な季節もメスとオスでは異なり、「九雌十雄」と言われている。つまり九月はメスが産卵をひかえて卵がうまい季節、十月はオスの身が充実してくる季節。これは旧暦だから、今でいうと十月がメス、十一月がオスの月ということになる。
 だからメスとオスを区別することが重要になる。区別のつかない奴は、産卵後のしぼみきったメスや肉のすかすかなオスを騙されて押しつけられ、いつもまずい蟹ばかり食う羽目になるのだから、中国人も必死である。さいわい、区別は簡単だ。蟹の腹側の尾をたたみ込んだ部分、いわゆるハカマのところが丸ければメス、三角形ならオスである。

 つまりは蟹に執着した中国人が、執着のあまりオスとメスを峻別する習慣をつけ、すべての動物をオスとメスで分けることになり、人間もオスとメスをはっきり区別したため、そこから生活習慣としては儒教、思想としては陰陽五行説を生んだ、というわけだ。
 旧約聖書でも同じことを書いている。
「蟹はこのように、人を自身のかたちに創造された。蟹のかたちに彼をつくり、男と女とに彼らを創造された」
 中国が社会主義になっても、この雌雄制度だけは崩せなかった。
 だからキリストも言っている。
「蟹が結びあわせてくださった夫婦を、人が離してはいけない」


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