月見る人、月見ぬ人

 満月の夜には、われわれ天文部員はすることがない。月明かりで他のすべての星の光が薄れてしまうからだ。
 ならば月を見ればいいではないか、と人は思うだろうが、月というのは見てもあまり面白くない。なるほど、望遠鏡を覗くと、くっきりとクレーターが見える。それはもう鮮明に、クレーターが月面上に落とす影まで見える。
 しかしあまりに鮮明すぎる。苦労して目を細めて、ようやく土星の輪の隙間が見えたときや、木星の大赤班と縞をスケッチできたときの喜びに比べると、月はあまりに安易に見えすぎるのだ。
 あまりにあからさまに見えてしまうと、人は見る気をなくしてしまう。ビニール本の下着女性の股間のあたりにある印刷のゴミを「おい、これ毛ェちゃうか?」などと胸躍らせて凝視していた人間が、ヘアヌード写真集となると見たくもなくなる、というのと同じ心理である。いや、私は見たいです。だれか貸してください。

 そんな夜に観測と称してなぜ集まっていたのかというと、ただ惰性である。月例の観測会をつぶす必要もあるまい。深夜に学校に集合するという、倒錯めいた満足感もあるかもしれない。
 そんなわけでわれわれは、今晩も天文台にこもって、駄菓子を食いながらトランプなどしている。
「よっしゃ、これで大富豪だ。ツキまくり。凄いツキ。ドツキ漫才」
「そういうくだらない駄洒落やルナよ」
「むーん」
 などとくだらない会話をかわしながら。
 部長と例の女性部員は参加していない。たぶん週末デートにでも行っているのだろう。

 まあ、そもそも月見なんていうものは、月を凝視するものではなく、なんとなく一瞥をくれて、ふーん、などと気のない間投詞を発しながら、積み上げている団子のひとつをとりあげ、やる気なくもぐもぐと咀嚼するという、中途半端というかどっちつかずというか、そんな儀式なのだ。
 中秋というのは陰暦でいうと、秋と冬のちょうど中間。秋でもなく冬でもない中途半端な時季を祝うものなのだ。
 そもそも月も、太陽や地球ほど重要でなく、かといって他の星にくらべると大きすぎる、中途半端な存在だ。
 昔から月の模様を見て、ウサギだカニだインディアンの横顔だ、などと見立ててきたが、これもすべて中途半端の象徴である。
 ウサギは一羽二羽と数え、動物と鳥の中間的存在と考えられてきた。なぜそんな分類にされたかというと、古代インドの仏典で、
「ウサギは飛ぶだろ。だから鳥だ」
「あんさん、それは飛ぶんじゃなくて跳ぶんでっせ」
 という嘘みたいな話が残されている。
 カニは陸の動物と海の動物の中間的存在。インディアンは昔、人間と動物の中間的存在だと考えられてきた。どれも中途半端などっちつかずの存在だ。
 月見にウサギとすすきと団子がつきものだというのも、中途半端の代表として選ばれている。
 すすきの穂は花なのか実なのかよくわからない。
 アンも何も入っていない、ただ粉をこねて蒸しただけの団子は、主食なのかおやつなのかよくわからない。昔は朝飯前に食う茶の子と言っていた。
 中途半端のトライアングルである。

 そのうち副部長が、
「きょうは中秋の名月だろ。いちおう、お団子買ってきたんだ」
 と包みを持ち出してきた。
 食うことにはだれも異存がない。浅ましい手がわらわらと伸び、みるみるうちにその数が減っていく。
「なにこれ、団子じゃなくて大福じゃん」
「何も入ってない団子はおいしくないもん。アンコが入ってたほうがおいしいもん」
 副部長は、首をかしげながら大福をほおばっている。
「うーん、十勝のアズキを使っているといってたけど、それにしてはこのアンコはおいしくないなあ。十勝に及ばないというんで、店の名前が九勝なのかなあ。それとも二桁勝てない阪神の投手を馬鹿にしているのかなあ」
 不思議に思って包みに印刷された店名を確認してみると、やっぱり丸勝だ。

 深夜に階段を昇ってくる足音が聞こえたと思ったら、いきなり部長が顔を出した。
「お、やってるな」
「なんだなんだ、今ごろになって」
「いままで、いったい何してたんだよ」
 われわれの尋問にも答えようとせず、部長は残っていた大福にかじりついている。
 例の女性部員もいた。
 部長の影に隠れ、恥ずかしそうにしている。
 そういうわけか。

 こっそりと、女性部員のお腹のあたりを見ると。
 やっぱり丸かった。


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