剽悍なる茨城県人

 茨城県について知ることが多くなってきたのである。
 さいきん知り合ったひとびとに茨城県人が多いとか、知り合いが茨城県に引っ越してしまったとか、そのひとりのお宅にお邪魔してあまつさえ牛久沼と牛久大仏を見てしまったとか、そういう理由からなのだが。

 茨城県といえば、最近こんな新聞記事もあった。
 なんでも茨城県の海岸にクジラの死体が打ち上げられたそうなのである。別に珍しい話ではない。今年に入っても、静岡県や大分県に打ち上げられている。日本沿岸、全国一律に打ち上げられている。
 そういうときに日本人が思う反応もまた全国一律であって、「食いたい」という、ただそれだけである。大分でも静岡でも、役所に問い合わせの電話が殺到したそうだ。「ちょっと分けてくれ」「市場に出すのか」「グラムなんぼや」「産地偽ってないやろな」などなど。
 これに対する返事も全国一律である。
「死んで打ち上げられたクジラは、なにが原因で死んだかはっきりしていません。体内にウィルスや寄生虫や毒物が残っている可能性があります。食用にはできません」
 まあ考えてみれば道理なことで、そういうわけで静岡でも大分でも、死んだクジラはぜんぶ埋葬してしまったのだが、茨城県だけは違った。
 茨城県人たちは、役所に問い合わせなどしなかった。勝手に押しかけて勝手に包丁でさばいて勝手に肉を持ち帰ってしまったのだ。急報を受けた役所の人が到着したときにはクジラは骨だけになっており、あろうことか海岸で焚き火をしてクジラ鍋をつついている住民もいたそうだ。

 なんというかお上を畏れないというか政府も役所もあったものではないというか、茨城県民のアナーキーな性格をよく現した話だと思う。お上も病気もおそれない。それがイバラキアン。
 そういえばクジラが漂着した茨城県の海岸には、二百年ほど前にもうひとつ変なものも漂着した。
 享和三年(1803)の春のこと、海岸に異様な形の船が漂着した。丸い船で、上部はガラス張りで密閉されていた。その中には奇妙な衣服を着た美女がひとり、大事そうに箱を持っているだけだった。言葉はまったく通じなかった。
 茨城県人たちは相談したあげく、結論に達した。
「あの女は蛮族の王女だろう。国法を破っていやしい身分の男と通じたため、このうつろ船に乗せられて国外追放になったのだ。おそらくあの箱の中には、密通相手の男の首が入っているのだ。こんなものにかかわってはいけない」
 こんなにも乏しい判断材料から驚くべき結論を引きだしてしまったもので、茨城県人たちはこの船をまた海に戻して流してしまった。なんとも残酷なことをしたものである。
 一部では宇宙人だとする意見もあるこの事件だが、とりあえずここでわかったことが二つある。第一に、茨城県の海岸にはいろんなものが流れ着くこと。第二に、茨城県人は食えないものに対してはとても冷淡だということ。

 そんな茨城県の歴史をたどってみると、驚くべきことがわかったのである。茨城県は、かつて戦争に勝ったためしがない。
 茨城県の武将というと佐竹さんである。鎌倉時代から戦国時代まで、長い間茨城県を治めてきた。さぞかしいくさにも強かったのだろうと思いきや、重要な戦争にはことごとくと言っていいほど負けている。
 まず源平合戦。源氏の流れをひく佐竹氏だから、とうぜん平氏に反抗して挙兵した。そこまではいいのだが、源氏の大将源頼朝にも反抗してしまい、討伐されてあっさり降伏。
 やがて南北朝の争乱がはじまる。鎌倉幕府に恨み重なる佐竹氏は、ここで足利尊氏に味方。唯一、勝ち馬に乗ったケースである。しかし南朝方の結城一族や北畠親房にさんざん攻められ、室町幕府に何回も救援を頼むていたらくであった。
 そして戦国時代、どういうわけだか戦国大名として生き残った佐竹氏は、関ヶ原の乱で石田三成に味方。あっさり降伏。ついに茨城から秋田へ左遷されてしまう。このとき怒った佐竹氏が、茨城の美女をのこらず秋田に連れていったため、秋田は日本有数の美人県となり、茨城は日本有数のブサイコ県となった、と秋田県人は語る。
 江戸時代、茨城は徳川御三家の水戸家が治めていた。やがて幕末。水戸藩はせっかく尊皇攘夷運動のさきがけとなりながら、相次ぐ内紛で自滅。ついには徳川家そろって賊軍として降伏する羽目になってしまったのである。

 といってもこれは、兵隊が弱いからではない。茨城県人の戦闘能力はすぐれているのだ。
 かつては平将門と闘った平国香・平貞盛・源護などという板東武者もいた(負けたけど)。もともと佐竹氏だって、源義家の危機を救った弟の豪傑、新羅三郎義光が祖先だ。さらに「日本剣豪列伝」(江崎俊平:現代教養文庫)では代表的剣豪二十人、達人百人をとりあげているが、そのうち茨城県人は、代表的剣豪三人(15%)、達人六人(6%)という高率である。さらに明治以降では、茨城県人で作られた歩兵第二師団はその突進力日本一と剛勇をうたわれた。兵隊は強いのだ。

 ではなぜ負けてばっかりなのか。兵隊はいるが、将がいないのだ。
 これはさきほど書いた、茨城県人のお上を畏れぬメンタリティからきている。要するに、他人の言うことを聞かないのだ。自分勝手に動きすぎるのだ。これでは将の統率力もなにも発揮できるはずもない。軍団として統制できるはずもない。
 幕末の水戸藩などはその典型で、水戸天狗党などに見るように藩内の派閥抗争が激しすぎ、赤軍派の内ゲバのような様相を呈してしまい、はっと気がついたら一兵も残っていない、ということになってしまった。
 水戸の歩兵第二師団は逆の典型で、茨城の兵隊を他県の将軍が率い、きびしい軍律で縛って命令に従わせたら、どんなに強くなるかという実例である。

 ふと思うのだが、強烈な個人主義、頑固なまでにひとり一党を作り、他人に服さないが他人を服させる器量もない、そんな性格は、岡山県人に似ているように思う。ブサイコ県であることも似ている。
 岡山県人は「日本のユダヤ人」と呼ばれているくらい、性格がひねくれていて頭がよいがいくさには弱い。
 茨城県人は同じくひねくれているものの、逆に個人戦闘には強く頭はさほどでもない。同じひねくれ者でも、岡山の文に対し、茨城の武。
 岡山県人を「日本のユダヤ人」と呼ぶのに対応して、茨城県人を「日本のガリア人」と呼んでみたくなるのである。


戻る          次へ