ベトナム語会話入門

 ひょんなきっかけからベトナムに旅行することになった。
 とりあえずあわてて旅行ガイドブックを購入し、勉強をはじめる。ホテルや高級レストランでは英語が通じるとはいうものの、やはりベトナム語が喋れるにこしたことはない。そもそも、英語すら怪しいのだが。
 そういうわけでガイドブック巻末の「旅のベトナム語」を読み始めたのだが、読み進むうち、会話どころではなくなってしまった。これは恐るべき暗号文、ベトナム旅行を企てる安易な旅行者に対する、痛烈なる警告であった。
 その全貌をここで明らかにしていきたい。

 悲劇の始まりがすべからくそうであるように、「旅のベトナム語」も、明朗快活に始まる。
「こんにちは(チャオ アイン)」
「ありがとう(カム オン」
「どういたしまして(ホン ザーム)」
「どうぞ(シン ムーイ)」
 ありったけの挨拶を並べた、旅の始まり。はじめての国を踏んだ、この浮き浮きする気持ち、誰にでも話しかけたくなる気分は、旅行者ならよくわかるだろう。
「あなたはなに人ですか(アイン ラー グォィ ヌォック ナオ)」
「私は日本人です(トイ ラー グォィ ニャット)」
「あなたのお名前は?(アイン テン ジー)」
「私の名前は佐藤です(トイ テン ラー サトウ)」
「あなたは何歳ですか?(アイン バオ ニュゥ トーイ)」
「私は22歳です(トイ ハイ ムォイ ハイ トーイ)」
「何人家族ですか?(ザー ディン アイン コー マイ グォイ)」
「3人です(バー グォイ)」
 ここまでは順調に会話が進んでいる。謎の相手との会話により、日本人で、22歳の佐藤さん、3人家族という、個人情報も明らかになった。しかし、ここから会話は難航をきたす。
「あなたのお仕事は?(アイン ラム ゲー ジー)」
「私はビジネスマンです(トイ ラー ニャーキン ドアン)」
「私は大学生です(トイ ラー シン ビエン)」
「英語が話せますか?(アイン ノイ ドゥック ティエン アイン ホイ)」
「はい、話せます(ヴァン ヤー トイ ノイ ドゥック)」
「いいえ、話せません(ホン トイ ホン ノイ ドゥック)」
 いったい佐藤さんは、ビジネスマンなのか学生なのか。英語は話せるのか話せないのか。故意に韜晦しているのだろうか。なにか隠し事でもあるのだろうか。いや、佐藤さんを責めるのはよそう。だれだって、はじめての外国では混乱するものなのだ。ましてや、不慣れなベトナム語である。
「もう一回言ってください(シン アイン ノイ ライ ラン ヌア)」
「もっとゆっくり話してください(シン アイン ノイ チャム)」
 ついに佐藤さんは、ベトナム語の洪水に悲鳴を上げる。意思伝達が不可能になった会話は、唐突に打ちきられる。
「また会いましょう(セー ガップ ライ)」
「お元気で(シン アイン ジィゥ スック ホエー)」
 佐藤さんはついに会話を断念し、足早にその場を離れる。心に悔恨の情を抱きながら。

 つぎに佐藤さんは、ホテルで奮闘する。
「空き部屋はありますか?(オー ディ コー フォン チョン ホン)」
「一泊いくらですか?(モッ ガイ バオ ニュウ)」
「もっと安い部屋はありませんか?(コー ホン ゼーホン ホン)」
「部屋を見せてください(チョートイ セム フォン)」
 しかし奮闘むなしく、いい部屋はなかなか見つからない。どの部屋も欠陥だらけである。
「部屋を替えてください(シンドーイチョートイ フォン カック)」
「クーラーが故障しています(マイ ラン ホン ラン)」
 ついに佐藤さんは、このホテルを断念し、別なホテルに移ることを決意する。
「チェックアウトしてください(シン ティン ティエン チョートイ)」
「ホテルを紹介してください(シン ゾーイ ティエウ カック サン)」
 ホテルに対してホテルを紹介しろという、この一見無礼な言葉からも、佐藤さんの怒りがうかがえると思う。

 ようやく落ち着いた佐藤さんは、レストランへでかける。ベトナムは食い物の安くておいしいところ。佐藤さんの心も、ようやくなごんでくる。
「4人席を予約したい(トイ ムォン ヘン モッ カイ バン アン チョーボン グォィ)」
 なぜ4人なのだろうか。おそらく先ほどの会話から推測するに、佐藤さんは家族3人でベトナムを訪問したと考えられる。それなら、残りのひとりは誰か。会話の経緯から、ベトナムに佐藤さんの知人がいるとは考えられない。
 とすると、佐藤さんが会話を交わした唯一の人物、冒頭で噛み合わない会話を交わした、謎のベトナム人しかいない。仮に、彼をグェン・カオ・キと命名しよう。グェンはおそらく、観光ガイドかシクロの運転手だ。いきなり親子連れの日本人に話しかけるような馴れ馴れしい人間は、そういう職業としか考えられない。
 おそらく佐藤さんは、さきほどの会話を深く悔やみ、レストランであらためて失地回復しよう、そう考えて、グェンを食事に招待したのではないか。飯を食い、酒を飲み、ゆっくりと話せば、きっとわかりあえる。そう思ったのではないか。
「メニューを見せてください(シン チョートイ セム トゥック ドン)」
「チャーゾーはありますか?(コー チャーゾー ホン)」
「チャーゾーをください(チョー トイ チャーゾー)」
「おいしい!(ラット コン)」
「ビールをもう1本ください(チョートイ テム モッ ルン ビア)」
 チャーゾー(揚げ春巻)に対する不可解な情熱を見せながらも、食事は順調に進行する。きっと、会話もこんどはスムースに進んだことだろう。

 しかし、ベトナムという国では、善意が報われるとはかぎらない。甘い顔を見せることが、ときに命取りとなる。
 レストランで満腹した佐藤さん一家は、おそらくグェン・カオ・キの案内で、ショッピングにでかける。その店が、とんでもないところだった。
「これはいくらですか?(カイ ナイ ラーカイ ジー)」
「高すぎる!(ダット クア)」
「まけてください(アイン ボッディー)」
 おそらくグェンの案内した店は、ぼったくりの悪徳商店だったのだろう。ベトナムに慣れない佐藤さんさえ、目をむくほどに高かったのだから。
 しかし、口のうまいベトナム商人と世慣れぬ日本人では、勝敗は戦う前から明らかである。佐藤さんはあえなく、口車に乗ってつぎつぎと言い値で買い込んでゆく。
「これをください(チョートイ カイ ナイ)」
「お釣りをください(シン トイ ライティエン チョー トイ)」
 どうやら請求しないと、お釣りさえくれないひどい店らしい。ついに佐藤さんは、手持ちの現金を使い果たしてしまい、こう訴えるに至る。
「クレジットカードは使えますか?(トイ チャーティエン バン テー ティン ズン)」
「全部でいくらですか?(タット カー ザー バオ ニュウ)」
 哀れな佐藤さんが相場の数十倍の値段で大量の商品を買い込んだあとでは、グェンと悪徳商人で儲けを山分けにしたものと思われる。

 しかし悪辣なるグェン・カオ・キは、このくらいでは手を緩めない。カモは徹底的に絞れ、これがベトナム人の合い言葉だ。佐藤さん一家の有り金すべてをふんだくるべく、グェンは佐藤さんを銀行に連れてゆく。佐藤さんはもはやグェンの操り人形と化し、唯々諾々とグェンの命令に従う。
「電報を打ちたいのですが(トイ ムォン ダン ディエン)」
「電話を貸してください(シン チョートイ ズン マイ ディエン トァィ)」
「○○さんをお願いします(チョー トイ ガップ アイン ○○)」
「何日くらいで着きますか?(コァン マイ ガイ トゥ トゥィ ニャット)」
 おそらく国際電話か電報で、日本に送金を頼んだのであろう。そして送られてきた日本円は、ドンかドルに両替され、そっくりグェンの手にはいる。
「どこで両替できますか?(オー ダウ ドーイ ティエン ドゥック)」
「トラベラーズチェックを現金化したい(トイ ムォン ティエン マット ヴォイ シェック ズー リッヒ)」

 佐藤さん一家を襲う悲運は、これだけにとどまらない。
 おそらくグェンが手引きしたのだろう、佐藤さんはつぎつぎと犯罪者に襲われ、なにもかも盗まれてしまう。いや、グェン自身が盗んだのかもしれない。
「カメラを盗られました(トイ ビ マット マイ ヒン ローイ)」
「パスポートをなくしました(トイ ラム マット ホ チュウ ローイ)」
「泥棒!(アン クップ)」
「警察を呼んでください(ツン ゴイ コン アン チョー トイ ヴォイ)」
「紛失証明書を書いてください(ツン ヴィエット チョー トイ バーン チュン ニャン ビ マット カップ)」
 たび重なる心労のためだろうか、佐藤さん一家はまず妻が、つぎに幼い娘が、そしてついに佐藤さん自身も、つぎつぎと病魔に冒されてゆく。
「病院へ行きたい(トイ ムォン ディー ベン ビエン)」
「医者を呼んでください(シン ゴイ バック シー ズム トイ)」
「おなかが痛い(トイ ダウ ブン)」
「熱があります(トイ ビ ソット)」
「気分が悪い(トイ ブォン ノン)」
「悪寒がします(トイ ゼット)」
「下痢をしています(トイ ティエゥ チャイ)」
 これは果たして偶然だろうか。いや、偶然にしてはあまりにも不運が続きすぎる。やはり、これはグェン・カオ・キの陰謀ではあるまいか。すっかり金を巻き上げられた佐藤さん一家が、日本大使館にでも駆け込んだら、グェンの悪謀が暴露されてしまう。そうならないように、佐藤さん一家に毒を盛ったのではないだろうか。そして、病院の医師もグェンの片棒を担いでいるのではないだろうか。
 高熱に冒され、激痛や悪寒に耐えながらも、佐藤さんは病床で、グェンの悪だくみに薄々気づいているかのようだ。
「これは何の薬ですか?(カイ トゥック ナイ ラー トゥック ジー)」
 しかし、もう遅すぎる。佐藤さん一家は、もはやなす術がない。どこからもやってくるはずがないと知りながら、あえて救助を求める佐藤さんの最後の叫びは、あまりにも悲痛である。
「助けて!(クゥ トイ ヴォイ)」

 ベトナムに来たばっかりに、財産も家族も国籍も、すべてを失ってしまった佐藤さん。あまりに悲しすぎるこの運命。ベトナムになんか、来なければ良かった。
 しかしそれにしては、最終章での佐藤さんの行動は不可解である。
「今晩いっしょに食事しませんか?(トイ ナイ チュン タ アム コム ホン)」
「いっしょにディスコに行きたい(トイ ムォン ディー ナイ ディスコ ヴォイ チ)」
「結婚していますか?(アイン ラップ ザー ディン チューア)」
「まだです(チューア)」
「美人ですね!(チ デップ クア)」
 なぜ佐藤さんは、妻も娘も失ったのに、このように女遊びにうつつを抜かすのであろうか。もしかしたら、病魔のために記憶のすべてを失ってしまったのであろうか。それとも、あまりの悲運のために、自暴自棄となったのであろうか。
 いずれにせよ佐藤さんは、グェン・カオ・キに操られるまま、ベトナムで結婚詐欺師として第二の人生を送る羽目になった。佐藤さんに幸あれ。そして願わくば、いつの日か佐藤さんに救助の手が伸び、日本に帰国できるようになりますように。それとついでに、私も佐藤さんのようになりませんように。

参考文献:「地球の歩き方93ベトナム」(ダイヤモンド社)
「ユーモア・スケッチ傑作篇(どれかに、会話集ネタの話があった)」(早川書房)


戻る          次へ