架空の城

 五月のとある日だった。
 目が覚めてカーテンを開くと、もう陽は高くのぼっていた。青空が二日酔いの眼に沁みた。青空以外のものも見えた。
 それは、巨大な岩塊だった。
 岩のかたまりが空に浮いていた。確かに、それは浮いていた。そいつの下には空があって、海があった。なぜだか、それは浮いていた。
 岩の頂上には建物らしきものの影が見えた。それは西洋の城のようだった。しかしそれは、岩と同じ暗灰色で、本当に城なのか、よくわからなかった。

 驚きよりもなによりも、私はまず、猛烈な空腹感に襲われた。
 おそらく超自然の現象に、動物の本能が対抗しているのだろう。時計を見ると、もう十時間はなにも食っていないはずだ。
 カーテンを閉めて台所に行き、冷蔵庫を開けた。からっぽの庫内に、ごろんとハムだけが転がっていた。ハムだけだった。私の空腹を埋めるものは、ハムしかなかった。本能の命ずるままに、ハムをわしづかみにした。包装を破るのももどかしく、そいつにかぶりついた。そのままかぶりついた。食いちぎった。咀嚼した。すべての歯にしがみついてくる、みしみしいう食感。圧倒的な肉の質感が、私の動物的本能を慰めてくれた。

 本能的作業に没頭していたので、いつごろから電話が鳴っていたのかわからない。
「あら、あなた、もう起きてたの?」
「電話で起こしておいて、もう起きたかもないもんだ」
 陽子だった。昨晩一緒にかなりの量を飲み、そのあとも動物的本能を発揮しあったはずなのに、もう朝の元気な声だった。
「暇なんでしょ? あれ、もう見た? 海に出てこない?」

 海岸にはもう人だかりができていた。人々はおなじものを見ながら、思い思いの行動に走っていた。
 海岸通りの歩道の手すりにつかまり、父と息子が空を見ていた。
「ねえパパ、あれ、竜王の城?」
「そうかもしれないねぇ」
「そしたらドラゴンが攻めてくるんだ。そしたらぼく、ドラゴンをやっつけちゃうんだ。そしたらぼく、勇者に転職するんだ」
 その隣では母親と娘が、同じものを見上げていた。
「あれ、ラピタよね。ラピタラピタ」
 幼い娘はまだラピュタと発音できないらしく、ラピタラピタと、嬉しそうに繰り返していた。
 その横には一組の男女がいた。痩せぎすの男に髪を撫でられながら、女は空を見上げてはしゃいでいた。
「あれぇ、お城みたいのがあるぅ。お城、お城よねぇ、お城みたいなんだもん」
「そうだねぇ、おしろだねぇ」
「でも、あんな空にお城って、不便よねぇ。王様とか、お姫様とか、買い物に行くのは、どうするのかしら」
「そうだねぇ、ふべんだねぇ」
「もしかしたら、王様もお姫様も、つばさがあって、空を飛べるのかもぅ。そしたら、買い物に行けるわねぇ」
「そうだねぇ、行けるねぇ」
「でも、女王様だけつばさがなかったら、どうしよぅ。ほらぁ、ひとりだけ飛べなかったら、つまんないわねぇ」
「そうだねぇ、つまんないねぇ」
「んもぅ、さっきから口まねばっかりしてぇ。そんなのやだよぅ。だめだよぅ。もぅ〜、しらないんだからぁ」
 女がやや舌足らずな口調でなにか喋るたびに、男はなにが嬉しいのか、にやにやと笑いながら相づちを打っていた。男は空なんぞ見ず、ひたすら女のほうをにやにやと眺めていた。なんだか、女の一言ひとことに、土下座せんばかりだった。
 そんなまちまちな会話などまるで無視して、ひとりの男が熱心に写真を撮影していた。ベレー帽をかぶったその男は、手すりに三脚を固定して、やたらにレンズを交換しながら、恐ろしい勢いでシャッターを切っていた。

 陽子らしき女性が手を振っているので、私は道路から海岸に降りた。
 砂浜ではひとりの少女が煙草を吸いながら、一途に空を見上げていた。幸せ薄そうなその少女は、ひとりぼっちで空を見ていた。自分の自転車が波にさらわれていくのも、気づかないくらい熱心に。
 その横では老夫婦が、岩に腰をかけてぼそぼそと会話を交わしていた。
「蜃気楼ですかねえ」
「蜃気楼じゃ。間違いない」
「でも、あんなにはっきりと」
「ナニ、わしが満州で見た蜃気楼は、雲の上に兵隊がはっきりと見えたぞ。関東軍と便衣隊が、雲の上で殺し合いしとった」
 その前を駆け抜けてゆく数人の少年は、こんなことを叫んでいた。
「UFOだぁー、UFOが出てくるぞー、宇宙基地のはっしんだー」
 波打ち際では青年の三人組がぼんやりと岩石を見上げていた。ふたりはウエットスーツを着て、まだ海水が身体からしたたり落ちていた。だらしなくシャツをひっかけたもうひとりの男は、私の知らない曲を妙に熱心に口ずさんでいた。その鼻歌が、ふしぎとこの情景によく合った。

 陽子は私のほうに走ってきた。
「あれ、何なの?」
「俺に聞いたってわからないさ」
「あのお城は?」
「わからないさ。城じゃないかもしれない。岩が風雨で、偶然城のかたちに削れたのかもしれない」
「あなたって、夢がないのね」
「驚きはひとつで充分だ。岩が浮いているという、ただひとつで。上に城まで載せる必要はないさ」
 私たちの側で、おやじ数人が昼間から缶ビールをうまそうに飲みながら、やけに堅苦しい口調で会話をしていた。
「私が思うに、北の謀略ではないかと思われるのですが。こうやって海岸に人を集め、そこを拉致する」
「その戦略には、いささか問題がありますね。ここまで愚民を集めては、拉致どころではないでしょう。らちがあかない」
「そのギャグは無視するとしまして、ともあれ北にあれだけの岩を浮かす技術があるか、そこが問題になるのではないでしょうか。いや待てよ、ふと思ったのですが、その特撮技術を学ぶために、ディズニーランドに行きたかったのか」
「いやむしろ、特撮技術ならUSJに行くべきではないですか」
「ちと話が変わりますが、西城秀樹はいつ、USJ踊りを披露してくれますかね。武田鉄矢でも可」

 やがて夕方になった。人々はぼつぼつと帰っていった。岩はまだ、海のはるか上で微動だにしなかった。ちょうど夕陽の影となって、城のかたちがあざやかに浮き上がった。逆光の中で、私は岩と、その上の城の、ほんとうの色を知った。それは暗灰色ではなかった。
「ねえ、そろそろ帰りましょうよ。ニュースで何かやってるかもよ」
 そろそろ寒くなってきたせいか、陽子はしきりに帰りたがった。
「ニュースなんか、見る必要ない」
 私は陽子の腕をつかんだ。
「でも……」
 そのとき、岩が動いた。いや正確に言えば、動いて見えた。
 私は陽子の手を、しっかりと握りしめた。
 はげしい地鳴りとともに動き出したのは、私たちのほうだった。岩が遠ざかっていくように見えるのは、私たちが遠ざかってゆくからだった。城に見えたのは都市の影だった。岩に見えたのは地球だった。そして私たちは、地球からどこかに向けて旅立ってゆく存在だった。


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