一度に二つのことができないのは、やはり不器用というのだろうか。
時折野球というものに参加する。監督は練習する私の技量を見て、たいがいセカンドか外野に布陣させる。
なぜ控えにまわさないかというと、こういう試合は9人集めるのがやっとなのだ。
セカンドはいい。なんとなくショートの邪魔をしないようにうろうろしていればいい。本当はそんなことではセカンドの使命を果たしていないのだが、とりあえずいいことにしておく。
問題は外野に廻されたときである。
外野を守っていると時折、フライが飛んでくる。
常々飛んでこないようにと祈っているのだが、それでも飛んでくることがある。
そんなときまず外野手のなすべきことは、打球の落下地点の推測作業である。
打者の振ったバットの振りの速度、ボールとの衝突角度、打球上昇の初速、観察者から見た打球のベクトル、現在の風向と風速、等から総合的に落下点を判断する。
まずは情報収集だ。
観測者は計測機具を所有していない。
すべてを自分の目で観測しなければならぬ。
私の目は強度の近視で、若干の乱視も入っている。
空はあまりにも青く広く、ボールはあまりにも白く小さい。
これらの悪条件が重なって、しばしばボールを見失うという現象が起こる。
ボールを見失うのは他の外野手でもよくあることで、薄暮のような悪条件ではプロでも時にそれをしでかし、野次と罵声を一身に受けることがある。
そのために他の野手は、自己の視点から観察した推測値を当の外野手に告げる。
「バックバック!」「左ひだりひだり!」などと。
そこで外野手には視覚に頼った自己の推測作業と、聴覚に頼った他の選手の音声情報を折衷する必要が生じる。
耳に入った音声はただの振動にすぎない。これを脳の言語野で解析し、はじめて意味のある情報となる。
このとき外野手は、しばしば言語の解析作業に没頭し、他の作業を一時停止する。
いわゆる「立ちすくむ」という状態になり、当然ボールは外野手のグラブに触れることなく地面に落下する。
事情を知らない他の野手は外野手に罵声を浴びせる。
致し方ないこととはいえ、悲しい風景である。
視覚と聴覚の折衷が仮にうまくいったとしよう。
しかしなおも外野手を襲う危機がある。
打球落下地点の推測作業ができたとしても、これはあくまでも推測値にすぎない。
風向が変わるかもしれず、鳥との衝突によって打球のベクトルが変化するやもしれぬ。
状況は常に流動的なのだ。
視覚による情報収集は継続し、常に最新の情報からフィードバックしていかなければならない。
このとき外野手は、しばしば観測作業に没頭し、他の作業を停止する。
その結果、飛んで行くボールをなすこともなく見送るという状態になる。
やはり罵声を浴びる。悲しい。
見る前に跳べ。
常に行動することを忘れてはならぬ。
情報収集と推測作業を常に行いながら、落下予測地点へ外野手の身を移動させる作業は怠ってはならぬ。
いわゆる、「走る」という行動である。
外野手を襲う次なる落とし穴は、この「走る」という行動の先に潜んでいる。
落下予測地点近くまでは、外野手の肉体行動は「走る」のみである。
しかし落下予測地点に近づくにつれ、ボールが実際に落下してくるにつれ、左手(左利きの場合は右手)の上腕二頭筋や僧帽筋などを収縮させ、「腕を上げる」という行動も並行して行わねばならない。
そうしなければ、折角落下地点に達しながら、ボールはいたずらに外野手の頭に衝突する。
これは痛いし捕殺1という記録を貰うことができぬし「宇野!」などと笑われる結果になるし(若い人への注:こういう野球選手が昔いて、こういうことをしたのです)、いいことは何もない。すぐさま上腕の諸筋を収縮させるがよい。
これで行動が完了したと錯覚するところに、外野手を襲う最後の落とし穴がある。
これまでの行動だけでは、グラブはボールに向けて開いていない。
開いていなくては、捕球という作業は完了しない。
ぜひともここは前腕の諸筋を活動させ、グラブを持つ手を開く、それをボールの落ちる角度に対応して曲げる、という作業が望まれるところだ。
数々の苦難と落とし穴を越えてここまでくれば、捕球は完了したも同然だ。
ボールがグラブに衝突した刺激で、グラブを閉じるという行動は反射的に起きる。
意識的に行う必要はない。
おめでとう。コングラチュレーション。スタンディングオベーション。しみじみと捕球の喜びを味わって欲しい。
ところが、実はこれこそが最大最後の落とし穴であったのだ。
野球は捕球のみにて行われるものにあらず。アウトカウントがノーアウトまたはワンアウトで、塁上に走者がいる場合、しみじみと喜びにひたっているあいだに、ランナーが続々と進塁してしまい、捕球という偉業を成し遂げた外野手に待っているのは罵声だけ、という惨事になりかねない。
悲しいことに外野手は、ボールを保持してはいけない階級に属している。
ここはドリフのコントで受け渡されるダイナマイトのごとく、速やかにボールを内野に投げ返さなければならぬ。
どこへ?
内野ならどこでもいい。
それから先は内野が勝手に考えるさ。所詮外野手は、捕球と返球以外の機能を認められていない生物なのだから。大事なことは内野手さまやバッテリーさまが考えてくださる。
外野手とは、かくも難しき作業の連続を強いられる、過酷な労働者なのである。
なお、「私」という1人称代名詞が途中から「外野手」という一般名詞に化けた件については、できれば追求しないで頂きたい。