土地の歩き方

「ボホール島か。あそこだけはやめた方がいい」
 板村はのっけからそう言い捨てるのであった。
 フィリピンに行くことになったので、板村に話を聞いてみたのだ。もう十年以上前になるが、板村はフィリピンへ旅行したことがある。予定を過ぎても帰ってこなかったので、心配した両親が捜索願を出したというくらい、長期の旅行だった。よほど気に入ったのかと思うと、そうではないらしい。
「だいたい、あの予定超過も、フィリピン航空が悪い」
「あそこは出発時刻がよく伸びるらしいな」
「伸びるくらいならいい。出ないのだ。あの頃はマニラ・日本間の便が週二回だった。火曜日の便が出なかったのだ。機体に異常がある、などと言うのだ。木曜日まで待ちなさい、などと平気で言うのだ」
「代替便を出さないのか」
「出さん。あそこは半国営だ。親方日の丸だ。客の不便など、屁とも思っちゃいない」
「それは困るな」
「こんど墜落しただろう。あれ、きっと慰謝料なんか出ないと思うぞ。もともと経営難だからな」
「旅行保険に入っておこう」

「それはともかく、ボホール島だ。あそこには参った」
「何が困るのだ」
「まずホテルだ。確かに金がなかった。それは認める。一流ホテルは泊まれなかった。でもな、中級、と言われるホテルに泊まったのだぞ。現地の感覚ではけっこうな値段だ」
「ふむふむ」
「クーラーがない。ま、それは最初から承知の上だ。バスタブもない。シャワーだけだ。水の出が悪い。島だから、仕方ない。しかしな、トイレに便座がないのだ」
「どういうことだ」
「未だに理由がわからん。しかもトイレに紙がない。市場で買ってくるしかなかった。それもごわごわの、新聞紙みたいな紙しかなかった。俺は日本の柔らかいティッシュペーパーが懐かしかったよ」

「食事はどうだ」
「ろくでもない」
「やはりそうか」
「何もかも甘酸っぱい。あっさりしたものを食おうと思って、ゆで卵を買った。ひとくち囓ると、妙に歯ごたえがある。よく見ると孵化しかけの胎児が薄目をあけているのだ」
「不気味だな」
「俺はもう、フィリピン料理がつくづく嫌になった。そこでホテルの日本料理屋へ行ったのだ」
「美味かったか」
「駄目だ。テンプラとか称して、海老のフリッターが出てくる。スキヤキと称して、えらく筋張った水牛の煮込みが出てきた。醤油の代わりにナンプラーを使っている。めげたのは、デザートだ。コンニャクゼリーが出てきた」
「駄目そうなメニューだな」
「俺はコンニャクゼリーが大嫌いなのだ。コンニャクは体にいい。整腸作用もある。太らない。だからといってコンニャクをゼリーにして食おうという魂胆が男らしくない。コンニャクを食うならオデンにしろ。醤油と唐辛子で煎りつけたっていい。糸コンニャクを茹でて、タラコと和えるという手だってある。何が悲しゅうてコンニャクゼリーか。甘ったるいコンニャクなど食えたものか。ええい女々しい」
「そう怒るな」
「しかしな、あんな料理で、あんな金を取られたかと思うと、俺は今でも口惜しくなるのだ」

「ところで、ボホールでは泳いだのか」
「俺は泳げない。それに怖いぞ、あそこは」
「海がきれいだそうじゃないか」
「綺麗だが怖い。あそこはな、海岸が断崖絶壁になっていて、海がいきなり深いのだ。海浜というものがほとんどないのだ。ふち無しの帽子みたいな島だと、思ってもらえばいい。縁のない土地だ」
「ははあ」
「透明度は高い。海を覗き込むと、十何メートルかの深さの海底まで見えるのだ。珊瑚があって、魚が泳いでいて」
「いいじゃないか」
「それだけじゃない。大きな鮫が泳いでいるのだ。それも何匹も何匹も。俺はそれを見て、金輪際泳ぐもんかと思った」

「それじゃあ、何をしていたのだ」
「ただぼんやりしていた」
「観光もしないのか」
「できなかったのだ。実はマニラで両替するのを忘れて、ペソを少ししか持ってなかったのだ」
「ボホールで両替すればいいじゃないか」
「駄目だ。あの島では円が通用しなかった。両替を拒否されたのだ」
「そうなのか」
「俺の時はそうだった。動き回る金もなかった。ホテルだけはカードが通用したので、三食ホテルで食っていた。それ以外、何もできなかった」
「それは悲惨だな」
「円のない土地、というやつだ」


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