切れ者たちの世界

 私は真剣にものごとを考える性である。しかし考えている内容は、例えばガメラが手足を縮めて火を噴きながら飛ぶとき、火は肘から噴射されるのかそれとも甲羅の裏からかとか、例えばジャイアントスイングはひょっとしてジャイアント馬場が使っても「ジャイアント」と技の名前の上に付かない唯一の技なのか、それとも元は「スイング」という情けない名前を馬場が使うことによって今の名になったのか、などということである。こういうのは世間一般ではあまり真面目な考えとは言わないらしい。要するに、私にとって真面目なことと、世間一般の真面目の基準が異なるのだ。世間にも事情があるので、あまり追求しないでおこう。
 時には会社で腕組みをし虚空を見上げて考え込むこともあり、周囲はさぞや難しいプログラムでも組んでいるのかと思うだろうが、実はオリンピックに「ソイネン」という選手が出ていたがやはりここは「ソヤネン」と表記して欲しい、そうすれば「アホネン」「ソヤネン」で楽しいし、と考えているのである。余談だがこの前の土曜日、休日出勤した同僚たちとオリンピックのジャンプを見たのだが全員原田が失敗したのを残念がるのみで、アホネンとソヤネンが並んでメダルを取れなかったのを残念がったのは私しかいなかった。ちと偏向しているのではないか。

 それでも、たまには一般の真面目と私の真面目が一致することもある。たとえば昨今の少年犯罪である。ナイフで女教師を刺殺した少年の事件報道では、「キレる」という言葉が多用された。「キレやすい子供」などという言葉も使われている。私が考え込んだのは、自分自身が昔「キレやすい子供」であったからだ。今では、「キレやすいオヤジ」となってしまったが。

 はるか昔、私は中学校に入学した。体格は小柄なほうで、おとなしい美少年であった。ごめんなさい。美少年は嘘です。成績は中の下くらいであった。いじめの格好の対象である。
 いじめられた。いじめといっても、昨今のように金を脅し取るとか肉体に傷つけるとか、犯罪そのものの行為ではなく、帽子を奪って逃げるとか鞄を隠すとか、いまにしてみれば可愛い行為である。しかしその時の中学生にとっては切実である。帽子も鞄も返してはくれるのだが、ことは人間の尊厳の問題である。

 いじめにいかに対処するか。肉体改造してムキムキの巨漢を目指すとか、性格改造してひょうきんな人気者を目指すとか、いろいろな選択肢はあろう。わたしはキレることを選択した。実際は選択したわけではなく、単に怒りに目が眩んで見境が無くなったに過ぎない。わたしは椅子をつかんで投げつけた。
 幸い、椅子は相手に命中しなかった。変な話だが、その相手は友人になった。それ以降はいじめられることも無かった。奇妙な論理だとは思うが、子供にとってみれば、私はキレることで、「ひとかどの人物」であること、「五分の魂」を持っていることを証明したのだ。

 幸い椅子が命中しなかったからよかった。もし命中していたら。相手の打ち所が悪くて大怪我をしたら。万が一死んでしまったら。私は犯罪者となり、先ほどの少年と同じ報道に晒され、人生を誤っていたであろう。(今も人生を誤っているが、これは自ら選んだ道であり、また別の話)

 そんな訳で、私はキレることを悪と決めつけることが出来ない。私が昔キレなかったら、いじめられ続けていただろう。

 司馬遼太郎は、「人間の集団について(ベトナムから考える)」で、山岳少数民族の「アモク」という現象を紹介している。山岳部に住む少数民族は平野部に住むベトナム人から馬鹿にされ、圧迫されている。ほそぼそと焼畑などして暮らしを立てながらも、彼らは穏やかで、めったに怒ることはない。ところがあるとき突然発狂したように集団で武器を持ち、平野のベトナム人を襲って皆殺しにする。その後はキツネが落ちたように呆然としている。そんな内容だった。これはまさに「キレる」という現象である。
 やくざ映画で悪役の横暴をじっと堪え忍んでいた鶴田浩二や高倉健が最後に立ち上がって敵をぶった斬る、というのもアモクだという。司馬遼太郎はアモクをアジア特有のものとしているが、ステンカ・ラージン、ウィリアム・テル等、民衆英雄の物語にはアモクの匂いが濃い。要するにアモク、「キレる」とは強者に対する弱者の最後の反抗なのだ。弱者に対する強者のいじめだけ存在させておいて、強者に対する弱者の「キレる」は認めないというのは、明らかに筋が通らない。

 ただあの少年は、本当にキレたのか。ナイフを持ち出しても取り押さえられそうな屈強な男教師を避け、くみしやすい女教師を選んだのではないか。本来怒りをぶつけるべき相手から逃げ、楽な道を選んだのではないか。報道の範囲内では、刺された女教師が刺されるべき理由が見つからないのだ。

 それともあの女教師は、少年の中で蓄積されていた怒りがたまたま臨界に達したときの不幸な相手だったのか。 あるいは見下す級友、横暴な男教師、冷酷な上級生など敵ばかりの少年にとって、唯一の味方と思い、救いを求めていたのが女教師だったかもしれない。そんな彼女があるとき見せた身振りによって、少年は彼女の中に敵を感じ、絶望の中で裏切り者(と少年は思った)の女教師を切り裂いたのかもしれない。

 私の多くのくだらない思考と同じく、この思考も憶測と妄想の中をよろよろとうろめくのみで、結論などない。

 これぞ尻キレ。

 


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