愛されるための苦悶

 人間の愛称にもいろいろある。ジャイアンツの清原はその性行から「夜の巨砲」と呼ばれ、XジャパンのTOSHIはその容貌から「化け物アゴ男」と言われた。中にはその容貌、体格から「ブタゴリラ」などという、友人がつけたとは思えない、血も涙もない愛称の哀れな男もいる。どうも人格外見からつけた愛称は、本人を怒らせるものが多いようだ。
 やはり当たり障りのない愛称といえば、名前をもじったものだ。小泉今日子のキョンキョン、中山美穂のミポリンなどあるが、もっともポピュラーなものは姓の一部と名の一部を結合させたものだろう。古くは榎本健一のエノケン、嵐寛十郎のアラカンから、最近では木村拓哉のキムタク、遠藤久美子のエンクミまで脈々と続く系譜がある。橋本志保のハシシのように、ちょっとまずい愛称もあるが。
 芸能人だけではない。作家でも江戸川乱歩をエドラン、横溝正史をヨコセイ、司馬遼太郎をシバリョウ、横田順弥をヨコジュンなどと呼ぶことがある。もっともこれは大衆作家に限られるようだ。芥川竜之介をアクリュウと呼ぶと勇者に退治される悪い龍みたいだし、森鴎外がモリガイでは日活のアクション俳優みたいだ。二葉亭四迷をフタシメと呼ぶとおせちの隅にいつも残される食品のようだし、高山樗牛がタカチョでは威厳がなさ過ぎる。壇一雄をダンカズと呼んだり、北杜夫をキタモリと呼んだりすることもないようだ。だいいち、それじゃ一字しか略してないって。

 こういう愛称はいつ頃からあったのだろうか。日本人の姓名が今のようになってからずっとあるような気もするが、しかし怪しい。
「サイタカ、久しぶりじゃきに」
「おぉ、サカリョウでごわすか。今キドコウと打ち合わせをしておってな」
 などという会話を坂本龍馬と西郷隆盛が交わしているようでは、倒幕はおろか薩長同盟も成功しないと思う。
 板垣退助がイタタイでは刺客に襲われて痛がっているようにしか聞こえないし、山県有朋がヤマアリではなんだか噛みつきそうで嫌だ。乃木希介がノマレでは戦う前からロシア軍に呑まれてしまっているようで、さすがの大山巌(オオイワ)も旅順に送る気にはなれなかったであろう。そのほうがよかったのだが。

 それにもっと遡ると、大きな問題がある。豊臣秀吉も秀頼もトヨヒデで親子区別がつかない。前田利家と利長と利常の三代もマエトシで共通だ。徳川将軍家などは家康も家光も家綱も家宣も家継も家重も家治も家斉も家慶も家定も家茂も全部トクイエになってしまう。トクシュウとトクツナとトクヨシとトクケイは仲間外れにされたような気がするに違いない。庄内の大名だった酒井家などは、初代から明治まで十二代すべてサカチュウなどという、どこのモンスターだというような愛称で統一されてしまう。歴史の暗記には便利かもしれない。でもやっぱり「イシミツはトクイエを倒すため、オオギョウやウキシュウなどと語らい、兵を挙げました」などという教科書は読みたくはない。だいいち、イシミツなんて殺したら呪われそうじゃないか。

 さらに昔の人の場合、別の問題もある。大谷刑部をオウギョウとうっかり書いてしまったが、彼の名前は吉継だからオウキチでもいいのだ。幼名平馬だからオウヘイでも可。黒田官兵衛孝高、号如水などは、クロカン、クロコウ、クロジョ、どれを使ったらいいか迷うのだ。待てよ、酒井雅楽頭からサカウタのように、官名で行くという手もあるぞ。かように昔の人の場合、使い方に迷うのである。

 もっと昔に遡ってみたらどうだろう。平安時代だ。六歌仙、在原業平はアリナリという、どこのお笑いさんだというような愛称になってしまう。これでは女にモテようがあるまい。小野小町はオノコとなって性別が逆転してしまう。他の四人も、ダイコク、ソウヘン、キホウ、ブンコウとなってはとても歌聖としてあがめる気にはなれまい。
 さらに尊きあたりに筆を走らせると、天智天皇はテンテン、天武天皇もテンテン。人をなめとんのか。桓武天皇はカンテン。ぷるぷるしてたのか。持統天皇はジテン。なぜ天皇になれた。元明天皇はゲンテン。いかんなあそんなことじゃ。さらに、スイテン、コウテン、ハナテン、ニンテン、ヘイテン、ウテン、モモテン、カメテン、トリテン、ダイテンと、天ぷらの種類なのか、大阪弁なのか、中古車センターなのか、なにやらわけの分からない世界に突入してしまう。恐るべし天皇家。だから、天皇は名前じゃないってば。


戻る              次へ