雑文祭について、そして雑文界について

 先日、「雑文速報」という、雑文系ボータルサイトに於いて、「雑文速報雑文祭」というものが開催されました。詳しい経緯はそれぞれのページで参照してください。この雑文祭は、「読者を驚かせたい」という目標のため、一般には隠密に企画が進められ、「雑文速報」に更新報告を行ったことのある人にだけメールが送られ、開催されました。
 この開催方法については「あまりに閉鎖的すぎる」「排他的ではないか」など批判されました。その意見については、「雑文祭について考える掲示板」で参照願います。みやちょさんは、その考えを発表されています。以降は、これらについての、私の見解です。私は「雑文速報雑文祭」のメンバーというかお目付役というか、主宰したやじさんから相談をいただいて愚見を申し述べたような次第でありますが、以降の意見は私独自のものであり、やじさん、屁理屈太郎さん、ジャッキー大西さんという実行委員メンバーとはなんの関わりもないことをご了承ください。

1.雑文祭について
 「雑文祭」と称される催しは、これまで何度か開催されました。
 公式、という言葉は嫌いなのであえて避けますが、第一回の雑文祭。これはまだ雑文をWebで書く人が少なかった頃、たぶん個人的な寄り合いで話が出たのでしょう、いっせいに同じ題名、同じ語句を使っての雑文が同じ日にそれぞれのサイトで公開されたのです。これは衝撃的でした。

 それ以降、いわゆる「公式」雑文祭は二回行われました。また、自然発生的に生じた雑文祭も何度か行われました。たとえばうえだたみおさんの雑文「昼下がりの雑文祭」から端を発した、いわゆる「瓢箪から駒」の雑文祭、私が「雑文日記」で書いたことによる「こおろぎ雑文祭」、kazu-pさんが自分のページで開催したこっそり雑文祭、などなど。(私見ですが、うえださんの「昼下がりの雑文祭」を第四回とカウントするなら、kazu-pさんの雑文祭は第五回にカウントすべきではないでしょうか。こちらの方がよりオープンかつ雑文祭のフォーマットに近いように思うのですが)

 私個人としては、雑文祭、なる言葉に特別な思い入れはありません。雑文祭がオープンであるべき、という理念もありません。「俺の雑文祭」でも、「タイガース雑文祭」でも、「ヴァンフォーレ甲府雑文祭」でも、何でもありだと思います。はたぼうさんの「チキチキ文体模写祭」など、面白い試みだと思います。
 ただ問題としては、雑文祭が少なすぎる。そのため、開催された雑文祭が、いわゆる「雑文界」を代表するものと思われているところ、だと思います。

 だから理想としては、雑文祭は少数野党の乱立が望ましい。その中にオープンな雑文祭もあり、閉鎖的な雑文祭もあり、というのが、私の考える理想的な状況です。別に「雑文祭」は商標登録があるわけでもないんだし、みんな気軽につくりましょうよ。深いこと考えず。「ずん胴小説祭」のように。

 新しい形の雑文祭としては、みやちょさんが提唱された、「フォーマット交換雑文祭」というのも面白いですね。かなりの数を書いている古参でないと参加しずらい、フォーマットが真似しにくい人はどう扱うか、などの問題はありますが。あと、「リレー雑文祭」というのもやってみたい。一斉に発表するのではなく、前の人の雑文を受けて、次の人が書くという形式。たとえばタイトルと、前の人が書いた最後の段落をそのまま受けて書く、という縛りで。もっともこれも、途中でだれかが投げ出してしまったらどうするか、という問題がありますな。後の方がだんだん難しくなるし。

 ただ問題としては、こうしていくつもの雑文祭が開催されたところで、参加者が似たり寄ったりでは、結局閉鎖的な印象を強めることにしかならないのでは、という懸念があります。ジャンプの増刊号がいくら出てもジャンプはジャンプ。これは次の、雑文界、というものとも関連する話であります。

2.雑文界について
 雑文界、という言葉があります。当初は「文壇」などという言葉のように、やや揶揄的かつ自嘲的に作られた言葉ではありますが、これだけ普及してしまったことを考えると、やはりそこに何らかの実態があるのでしょう。
「雑文界は閉鎖的だ」「雑文界は敷居が高い」とよく言われます。それはなぜか、考えてみました。

1)雑文界は、本当に内輪である
 これはそうなのでしょう。昔から思っていることに、雑文の読み手=書き手、という式があります。雑文を読む人は、必ず自分でも書き始めます。その点では敷居は低いです。閉鎖的ではないです。ただし、そうして雑文界は、雑文を書く人によって占有されます。最終的には雑文界は、「雑文を書く人」によって閉鎖されます。同人誌の世界にも似たところがあります。

2)雑文界の人のキャラクターは似通っている
 世間一般から見ると、雑文を書くような人は、なんとなく似たところがあるのではないか、と思います。そして共通の話題で話をするため、世間の人から見ると、「雑文界」の会話は、オタク同士の話のように、入っていくことが出来ない閉鎖的なものに感じられるのではないか、と思います。
 雑文者のキャラクターとは何か。最大公約数的なものを並べてみると。
 本が好きです。月に十冊以上の本を買います。ジャンルとしては、SFと推理小説はひとわたり。あとエッセイ、ノンフィクションを少々。バイクが好きだったりもします。音楽ではロックが好きで、自分で演奏もします。映画も好きで、年に十本くらいは見ています。そしてもちろん、コンピュータにはひとわたり造詣があります。特撮とアニメと漫画も少々やります。ガンダム、キン肉マンの話題はばっちりです。イデオンと聖星矢も大丈夫です。会話に政治経済宗教の話はあまり出しません。ひとつのイデオロギーを信仰することはなく、どちらかというとイデオロギーを笑うタイプです。仕事には熱中せず、出世にも関心はありません。食っていけるだけの給料をもらい、残りの余暇は自分の趣味にあてたいと思っています。性格的には裏を読むタイプで、些細なことに拘泥することが多い。
 こんなところでしょうか。
 雑文書きのキャラクターが似ている、というのは、或る程度仕方ないところがあります。そもそもWebで文章を書く、ということで、バイアスがかかります。さらに雑文というものは、たぶんルーツを辿ると東海林さだお、椎名誠あたりになると思うのですが、そのへんで「些細なことに拘泥する」という基本性格ができあがっています。これは世間一般で言うと、「オタク」ですね。新人が加入してきても、結局世間から見れば同じような奴が増えただけ、ということになります。そうしていつまでたっても、閉鎖的な印象です。

3.雑文のために
 ううむ、とってつけたようなタイトルだな。
 ということで雑文界は、そもそも閉鎖的になるベクトルが存在している、というのが私見です。だからこそみやちょさんは、「もともと閉鎖的になりがちなのだから、意識して開放を心がけないといけない」という意見のように思います。頭が下がる努力です。私も、考えとしては賛成します。
 ただ生来怠惰な私としては、「閉鎖で楽しけりゃええじゃないか。がんばらなくてもええじゃないか。どうせ道楽だもの」という、悪魔の囁きがかすかに聞こえてもいるのですが……。閉鎖的になることが道楽を妨げるとしたら、これは排除せねばならぬのですが。


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