緩慢なる衰退

 円本ブームで力を使い果たしたのか、春陽堂はその後、太平洋戦争後まで、さしたる動きがない。
 ひとつには円本の在庫処分に忙殺されていたこともあるが、やはり切り札を切ってしまったあとの虚脱感と、もうどうしようもない、動こうにも動けない状態だったのではあるまいか。
 高見順の「昭和文学盛衰史」は、大正9年に行われた、明治文学の生き残りである田山花袋、徳田秋声の生誕五十年祝賀会で明治・大正の文学から昭和文学へ移行する兆しにはじまり、太平洋戦争で著者が徴用されビルマに送られるまでを書いた、戦前昭和の文壇やその周辺を当事者として見、聞き、書いた記録である。
 この本の中には、春陽堂書店のことはたった一度しか触れられていない。それも、昭和14年、高見順や丹羽文雄、石川達三ら三十代の中堅作家が集まって「新風」という雑誌を春陽堂で出す話が、途中でストップがかかり、「社が経済的に行き詰って、雑誌を出す能力がないと言う」という、情けないエピソードである。どうやら昭和十年代、もはや春陽堂には、あまり売れない文学雑誌などを出す体力がなくなり、そっちの方は新潮、中央公論、文藝春秋、改造社、金星堂など元気な出版社にまかせてしまっていたらしい。

 春陽堂の文学雑誌の大黒柱ともいうべき「新小説」を見れば、そのへんの推移がよくわかる。
 大正14年の正月に出た「新小説」の新年号のラインナップは、横光利一、宇野千代、小川未明、中村武羅夫、小島政二郎ら、新鋭大家の錚々たる小説が並ぶ。正月号ということだからだろうか、これら純文学に加えて、別冊として時代小説集の長谷川伸、土師精二、直木三十三(まだこのときは三十五でなく、年齢と共にペンネームを変えていた)、小酒井不木、エッセイ二編、時評三編が加わる。これで総計ほぼ250ページ。
 これが潰れた号の昭和25年6月号となると、純文学がまったく影をひそめる。有名どころの名前は出てくるが、草野心平「安井東京都長官におくる」、伊藤整「学校といふもの」、正宗白鳥「私の養生法」など、すべて時事評論もしくはエッセイである。小説は、尾崎士郎、藤森成吉など、巻末にちょっととってつけたように、しかも時代小説ばかりが並んでいる。総計140ページ。

 どうやら昭和に入って、春陽堂、博文館の二大文芸出版社は、いずれも儲からぬ純文学から撤退、もしくは時代に取り残されてしまい、大衆向けの小説専業となってしまったらしい。
 博文館は森下雨村が出版部門の沈滞を脱すべく社業の立て直しをはかり、横溝正史などを編集長に起用して「新青年」「探偵小説」などの雑誌で探偵小説を旺盛に掲載していった。そんな中から誕生したドル箱作家が江戸川乱歩である。
 春陽堂はさきほどの雑誌ラインナップでもわかるように、時代小説を主にしている。岡本綺堂、三田村鳶魚、子母沢寛、直木三十五などを起用し、現代に至る春陽堂文庫=時代小説文庫というイメージを固めている。
 ちなみに春陽堂文庫は昭和7年発刊。当初は長塚節「土」をはじめとして、文学文庫の役割だった。同年に日本小説文庫を発刊、こちらが江戸川乱歩、直木三十五、岡本綺堂らを起用し、時代小説集の強い大衆小説文庫の役割だった。
 太平洋戦争前には、この他にも世界名作文庫、英学生文庫、春陽堂少年文庫、大日本文庫、新作ユーモア全集、新文庫、等々さまざまな文庫を出版する。というか昭和7年以降、春陽堂の出版物はほぼ文庫と実用書と軍事ものに限られてくる。
 そんな中で昭和7年に江戸川乱歩、佐々木味津三、直木三十五、12年に佐々木邦、14年に大下宇陀児、海野十三、海音寺潮五郎、15年に城昌幸、16年に横溝正史、山手樹一郎など、戦後の春陽堂を支えた作家をとりあげていったのである。


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