関東大震災と円本ブーム

 この時期にこんなことを書くのは不謹慎というか、気まずい感じがしてならないのだけれど、春陽堂の歴史の中ではどう考えても、次はこの事件が出てくるわけでして。

 大正12年9月1日、午前11時58分44秒、雨が降ったあとの蒸し暑い関東地方の正午直前に、マグニチュード7.9の地震が発生した。伊東では12メートルの高波を生じて300戸の住宅が波に呑まれた。大地は隆起と陥没を起こし、茅ヶ崎では1.4メートル、大磯では1.8メートル隆起、逆に東京の本所、深川では38センチ、亀戸では25センチ陥没した。
 この地震で東京府の家屋1万6千戸以上が倒壊、2万戸以上が半壊した。横浜市では全壊が9,800戸、半壊が1万1千戸弱、あわせて全家屋の2割以上が被害を受けた。このとき、鎌倉の大仏も首が落ちた。浅草名物の十二階も8階でポキリと折れた。
 地震による家屋の倒壊もさることながら、昼食の準備に火を使っていた時間帯であることもあり、発生した火災による被害も凄まじかった。東京市の43.5%にあたる約1,050万坪の面積、戸数にして約31万戸が全焼。死者は6万8千人余。横浜市では市の9万9千戸中、6万3千戸が全焼、死者は2万3千人を超えた。トータルの死者は10万人を超えるとされている。
 生き残った者も、家族とはぐれてさまよい、上野公園の西郷さんの銅像は、家族の消息を訊ねる張り紙でびっしりと埋め尽くされたという、その中には「○○氏の居所をお知らせください」と書いた張り紙に、あとで別人の手で「逝去」と書きたされたものもあり、人の涙を誘った。
 またパニック状況のなかでデマが多く飛び交った。青山御所が全壊した、摂政殿下(昭和天皇)は京都に逃げた、松方正義と高橋是清が圧死した、安田善次郎は焼死した、徳富蘇峰は津波にさらわれて死んだ、山本権兵衛首相は暗殺された、等々。
 中でも有名なのが例の「朝鮮人が爆弾で各地を爆破し、井戸に毒を投げ込んでいる」というデマである。これを真に受けた青年団、在郷軍人会や群衆が各地で朝鮮人を虐殺した。その数は吉野作造の論文によると2,613人、在日朝鮮同胞慰問会の調査では約6,000人とされている。また訛りが強かったり、エラが張っていたり、目がつり上がっていたりしたため朝鮮人と間違えられて殺された日本人も57人、中国人も4人が確認されている。
 他にも大本教信者は爆弾テロを企てている、社会主義者が政府転覆を企てているなどというデマが流れ、これを本気にしたのか利用したのか分からないが、陸軍の甘粕憲兵大尉は、社会主義者の大杉栄とその妻子を虐殺している。亀戸警察署は社会主義者としてマークしていた人物13人を殺害している。
 震災後に流行した言葉に「この際だから」というのがある。「この際だから我慢しよう」「この際だからそれでよかろう」などといって、不便に耐えたり、ご祝儀を贈らなかったりする時によく使われた。甘粕大尉も、「この際だから大杉をやっつけよう」と言って犯行に及んだらしい。

 この大震災で、日本橋に本社のあった春陽堂、博文館は本社社屋、倉庫ともに倒壊、消失した。金尾文淵堂も社屋が潰れて大阪へ移転した。春陽堂に出版を委託していた文藝春秋の菊池寛は、「刷り上がった9月号は全部焼けてしまった。これで文藝春秋もダメだ。大阪にでも移転しようか」と弱音を吐いている。
 しかし牛込に本社があった新潮社、本郷に本社のあった講談社は無事だった。これが新旧出版社の交代を決定的にしたともいわれている。
 そんな中、震災で大打撃を受けながらも、むしろこれからがチャンスだと雄々しく立ち上がる出版社があった。

 関東大震災により本社が全焼した改造社で、社長山本実彦は、編集部員をこういって叱咤激励した。
「うちも丸焼けになったが、多くの家が焼けた。本も焼けた。全部焼けた。いまこそ本が求められている。それも作家ぜんぶだ。一冊ずつ買っていてはらちがあかない。これからは全集だ。それも定価を安くして、一般人でも本を買えるようにしよう」
 これが震災後の円本ブームの発端となった。
 震災の3年後、改造社は「現代日本文学全集」の刊行を高らかに宣言した。第1回配本は「尾崎紅葉集」。予約販売で1冊1円。従来の半値以下である。「1円で自宅に文学図書館を」というキャッチフレーズ。当時、世界恐慌の影響でカナダの製紙用パルプがダンピングされ、紙価格が下落していたのがこの値段を可能とした。
 これが当たり、初回締切時に当時としては破天荒な25万という予約数を集めた。トータルでの売れ行きは30万から40万といわれる。

 これを挑戦と受け止め、敢然と受けて立ったのが和田利彦社長率いる、わが春陽堂である。
 和田利彦社長は全社員を集め、「このままだと自分とこの発行物をみな改造社に持っていかれてしまう。もしもこの全集が失敗したら店をとじる。乾坤一擲だから全力を尽くしてくれ」と訴えた。
 改造社の「日本文学全集」予約開始の翌年、昭和2年に春陽堂は「明治大正文学全集」の企画を発表する。創業50周年記念企画と銘打ち、明治の文学われにあり、老舗の意地を見せるのはこのときとばかりに改造社と正面戦争に挑む。そして改造社とほぼ同数、23万5千という予約数を集めた。
 春陽堂が「改造社の尾崎紅葉集には金色夜叉が入っていない(版権が春陽堂にあるため)。永井荷風も読めない(荷風が全集という形式に難色を示していたため)。改造社の全集は欠陥商品。ウチしか読めない金色夜叉と永井荷風」と改造社を挑発すると、改造社は負けじと永井荷風を高額印税でくどき落とし、大幅増頁で対抗する。
 春陽堂が「初回予約先着5万人には、全集完結後に豪華専用書棚進呈」と宣伝すれば、改造社は「我が社は予約者全員に書棚さしあげます」と対抗、これに春陽堂も「ウチでももれなく特製書棚あげます」と応じる。
 「現代日本文学全集」VS「明治大正文学全集」のみならず、改造社が「日本探偵小説全集」を出せば春陽堂も「探偵小説全集」を出し、改造社が「マルクス・エンゲルス全集」を出せば春陽堂は「クロポトキン全集」を出し、改造社が「運動叢書」を出せば春陽堂は「健康増進叢書」を出し、改造社が「谷崎潤一郎全集」を出せば春陽堂は「荷風全集」を出し、改造社が「偉人傳全集」を出せば春陽堂は「世界人傳記叢書」を出し、あまねくすべての分野で改造社と春陽堂は張り合っていた。
 こうして改造・春陽の全面戦争は、数年前の欧州大戦のごとき総力戦と化し、ずぶずぶの泥沼にはまりこみつつあった。

 この全面戦争を制したのは改造社であった。
 勝因は、改造社の円本にルビがついていたのに対し春陽堂の円本にはルビがなく、大衆には改造社のほうが読みやすかったこと、同ジャンルの円本で改造社がつねに半年くらい先行していたこと、春陽堂は手持ちの資産に頼って作家総数268人と少なかったのに対し、改造社は作家全般を網羅し作家総数586人と多かったこと、などがあげられる。
 文学研究者の保昌正夫は、春陽堂の「明治大正(のちに昭和を追加)文学全集」について、「どこかスッキリしない、ズサンな印象」「いかにも春陽堂という老舗の、お店ふうな、おおざっぱな編集」と評している。
 作家の丸谷才一は、「当時は、改造社の現代日本文学全集と春陽堂から出た明治大正文学全集というのがあって、改造社のもののほうが手に入れやすかったように思います」と発言している。
 しかし負けた春陽堂も、円本ブームで儲けられたことは確かで、これで新社屋を新築している。
 いわゆる円本は、改造社と春陽堂の他に、新潮社、金港堂、岩波書店など数々の出版社が参加し、大正15年から昭和3年までに出たものだけで約300種類、総発行部数260万部と概算されている。

 円本ブームの功罪については、さまざまな人が語っている。
 皮肉屋の宮武外骨は「圓本流行の害毒と其裏面談」という本を出し、その中で「1.無謀なる出版による経済原則の破壊、悪謀・卑劣の術策流行。2.他人翻訳の改作、版権の二重転売等圓本著訳者の悖徳。3.図書尊重の念を薄からしむ。4.当初「予約金1円、分売不可」なりしものが販売競争の結果グダグダに崩れ中途解約自由、分売自由となり予約出版の信を失わしむ。5.……」と圓本害毒16ヶ条を挙げて円本ブームを批判している。
 「日本書籍商史」で大久保久雄も、出版社の規模拡大、出版技術の進歩、文学の大衆化など円本の功績を評価しながらも、生産過剰のなかでの出版競争、中途解約者の続出、一般書籍の不振、コストカットのため出版社、印刷所の雇用条件悪化などの罪悪を指摘している。

 それよりも春陽堂にとって痛い批判は、小川菊松が「出版興亡五十年」に書いている批判であったろう。
「春陽堂の円本は、蛸が自分の足を食うような行為であった。自分で自分の資産を食いつぶしたのである。円本以降は旧版の再版もできなくなってしまった。自殺行為である」
 円本は1冊1円、売れ残ったものは河野書店や春江堂などのゾッキ専門店に10銭くらいで払い下げられ、それらの本は夜店などで20銭から30銭で叩き売られた。だれも昔の作家の本に1円以上は払う気がしなくなってしまったのである。


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