大震災前の大正は

 関東大震災後の大正に移る前に、それ以前の大正文芸について整理してみよう。

 大正時代の代表的作家としては、次のような面子が並ぶ。
 まずは明治時代から引き続き活躍している、田山花袋、徳田秋声、島崎藤村、正宗白鳥らの自然主義派と、正宗白鳥の親友近松秋江。
 徳田秋声に師事し、自然主義の流れをくむ私小説家の葛西善蔵。
 明治の大衆作家広津柳浪の息子で、葛西と同人誌をともにした広津和郎。
 フランス文学を学び、慶応大学で「三田文学」を創刊した永井荷風。
 永井荷風に認められてデビューした谷崎潤一郎。
 「三田文学」からデビューした、いわゆる三田派の水上滝太郎、久保田万太郎。
 早稲田大学の「早稲田文学」からデビューした、いわゆる早稲田派の宇野浩二、小川未明、谷崎潤一郎の弟精二。
 谷崎の親友で、詩人から小説家に転じ、のちには谷崎と夫婦を交換した佐藤春夫。
 同じく詩と小説のかけもちで、北原白秋に見出された室生犀星。
 学習院のお坊ちゃんが集結した白樺派の志賀直哉、武者小路実篤、里見ク、有島武郎、有島生馬。
 夏目漱石の弟子、芥川龍之介、久米正雄。
 芥川の親友で、事情あって東京大学から京都大学に移ったため、芥川や久米よりややデビューが遅れた菊池寛。
 菊池寛の「文藝春秋」でデビューし、新感覚派と呼ばれた横光利一、川端康成、今東光。
 のちにプロレタリア陣営に参加する藤森成吉。
 だいたいこんなところだろうか。

 これらの作家が小説を発表するおもな舞台としては、雑誌では春陽堂の「新小説」「中央文学」、博文館の「太陽」「文章世界」、新潮社の「新潮」、中央公論社の「中央公論」などがあり、単行本の出版では春陽堂と新潮社がしのぎを削っていたことは前に書いたが、その他に、大正時代に誕生し、文芸界に大きな影響を及ぼした2社がある。

 まずは改造社。
 改造社を創業した山本実彦は、明治18年に鹿児島で生まれた。
 日露戦争勃発の明治37年、薩摩の大先輩で当時、桂太郎内閣で逓信大臣をつとめる大浦兼武を頼り上京。床次竹二郎内務大臣の書生兼護衛のようなことをしていたらしい。
 明治41年、やまと新聞に月俸10円で入社。しかし「政権亡者」とまで呼ばれた床次の影響なのか、それとも生来のものなのか、大正2年には新聞社を辞めて東京市会議員選挙に立候補、当選。また桂太郎に近い後藤新平から金を引き出し、東京毎日新聞を買収する。
 メディアと人脈と金づるを掴み、意気揚々と大正4年、憲政会公認で衆議院選挙に立候補するが、選挙期間中に収賄容疑で召喚され、それが祟って落選。しかしここで諦める人間ではない。大正6年には東京毎日新聞を売却し、その金でシベリア視察の旅に出る。その調査謝礼として、「政界の黒幕」「昭和の怪物」などの異名を持つ久原房之助から6万円を受け取る。床次といい後藤といい久原といい、政界の暗い面と積極的につながっている感がある。
 久原から貰った6万円の半分で浅間台に豪邸を買い、残りの半分で大正8年、雑誌「改造」を創刊した。

 「改造」の第1号をぱらぱらめくってみた中央公論の滝田樗陰は「編集方針に一貫したものがない」と鼻で笑い、ライバルになる資格もないと黙殺したが、文壇を驚かせたのはその原稿料であった。
 たとえば広津和郎を例にとると、「改造」発刊前の大正7年、「中央公論」の原稿料は1枚1円、「文章世界」は60銭、「太陽」は80銭、「新潮」は70銭であった。その広津に「改造」が支払った原稿料は、相場のほぼ倍、1枚1円80銭だった。
 これに他社も対抗せざるを得ず、「新潮」は「改造」と同額の1円80銭に増額。「中央公論」の滝田樗陰は、全執筆者に「改造」以上の原稿料を出すべきと社長にかけあったが認められず、やむなく「改造」と同額、一部人気作家のみ「改造」以上として、広津に2円の原稿料を払った。
 原稿料の倍増で、作家は「改造」様と呼び感謝したという。
 3号までは滝田樗陰の感想通り、不人気で売れ行きの悪かった「改造」だが、横関、秋田の編集委員が山本社長を説得し、社会思想中心の左寄りの編集方針にしたことが成功する。「改造」4号の「労働問題、社会主義」号は、3万部を2日で完売したという。
 大正9年には社会主義的キリスト教徒、賀川豊彦の「死線を越えて」が連載開始。同年に出版された単行本はその年のうちに80万部を売る大ベストセラーとなった。大正10年には志賀直哉「暗夜行路」の連載開始。
 こうして一大出版社となった改造社は、大正12年の関東大震災を迎えることになる。

 つぎは文藝春秋社。
 文藝春秋社を創業した菊池寛は、明治21年に高松で生まれた。生家は貧乏だったが、幼少から秀才の名高く、明治41年、東京高等師範学校に入学する。秀才だが田舎者の菊池は、おそるおそる蕎麦屋に入って、いちばん安い「もりかけ8銭」という札を見て「おい、もりかけをくれ」と注文したという話がある。それが、あっという間に都会の風に染まり、芝居小屋に出入りするようになって、欠席過多のため退校処分。
 「頭はいいのだから」と地元の素封家に見込まれて養子となり、学資を出してもらってふたたび上京。明治大学、早稲田大学に入学するがすぐに退学。明治43年、かねてから念願だった一高を受験し、合格。芥川龍之介、久米正雄、山本有三らと席を並べる。しかし卒業寸前の大正2年、動機の親友だった佐野文夫(のちの日本共産党中央委員)が友人のマントを盗んだのをかばい、罪をかぶって退学処分になる。
 事情を知る同級生、成瀬正一が同情し、父親から学費を引き出してくれ、京都帝国大学の英文科選科に入学する。同人誌「新思潮」に参加し、ときの京大文学部長、上田敏の紹介で小説家としてデビューしようとするが、冷淡な上田敏に失望。
 大正5年、京大卒業後、時事新報に入社、社会部に所属するが、記者としては無能であったという。
 作家として売り出すべく、さまざまな雑誌に持ち込むが、なかなか掲載してもらえない。このころ、先に売り出した芥川龍之介や久米正雄に「君たちの紹介で、年に1回でも小説を雑誌に載せてはくれないだろうか」と弱音を吐いている。
 大正7年、当時の新進作家登竜門であった「中央公論」に「無名作家の日記」「忠直卿行状記」を発表し、ここではじめて念願の作家としての地位を確立した。ちなみに「無名作家の日記」は、編集長の滝田樗陰が「このまま載せてもかまいませんか」と念を押したほどに、鮮やかにデビューした芥川龍之介に対する羨望と嫉妬と悪口に満ちている。
 大正8年には時事新報を退社、毎日新聞の客員となって作家生活に専念。小説とともに、戯曲「父帰る」「恩讐の彼方に」「唐十郎の恋」でも著名となる。
 大正9年には毎日新聞に連載した「真珠夫人」が評判になり、大衆小説家としても成功する。

 そして大正12年に「文藝春秋」を創刊。創刊号は随筆のみ掲載した。
 編集のみを文藝春秋社で行い、印刷から販売までは春陽堂に委託した。
 はじめはポケットマネーで同人誌を作るような気分で始めたらしい。「気まぐれで出した雑誌だから、売れ行きがよければ続けるかもしれないし、原稿が集まらなくなったら、来月にでも廃すかもしれない」と書いている。
 ところがこれが大売れした。表紙がそのまま目次となっている斬新なデザイン、10銭という格安な定価、そして何よりも、友人の芥川龍之介が執筆していることが大きかった。当時、佐藤春夫、谷崎潤一郎と並んで大正の三大作家のひとりだった芥川龍之介は、病身のうえ文章に彫琢を重ねるため量産ができず、「中央公論」か「文藝春秋」でしか読むことができなかった。
 大正12年1月の創刊号は3,000部を完売。2月の第2号も4,000部完売。3月の第3号も6.000部刷って返品わずか200部。4月の第4号で1万の大台に乗った。定価が20銭になったせいか、返品率が1割4分となった。5月の第5号には、はじめて小説を載せ、「臨時創作号」とした。横光利一が「蠅」でデビューした。横光や川端康成、今東光ら「文藝春秋」の作家たちの多くは春陽堂から単行本を出版し、春陽堂の潤うもとともなった。
 順調に部数を伸ばしてきた「文藝春秋」だが、1周年も迎えない大正12年の9月、関東大震災を迎えることになる。


戻る