大正の叢書勝負

 大正時代とひとくくりにするのは難しい。大正12年9月の関東大震災を境に、すべてが大きく変わったからだ。むしろ、大震災前後で分けるほうがすっきりする。関東大震災の後は、昭和初年まで連続してつながることが多いからだ。
 ここでは、関東大震災前の出版界について。

 かつての二大出版社のひとつ、博文館はゆるやかに凋落していた。
 いや、凋落という言葉は適切ではないか。
 創業者の大橋佐平翁は亡くなったが、その息子新太郎は博文館主として、また印刷の博文館印刷所(のちの共同印刷)、取次の東京堂(のちのトーハン)、用紙取扱の博新社洋紙店、ニュース通信の内外通信社、絵葉書・美術書印刷の精美堂、教科書出版販売の日本書籍、有料図書館の大橋図書館などの大橋コンツェルンを率い、いずれも順調に業績を伸ばしていた。また、東京瓦斯、大日本麦酒、日本硝子、朝鮮興業、日本郵船、王子製紙、三井信託などの役員も勤め、商工会議所の会頭候補として名前が挙げられるほどになっていた。さらには衆議院選挙にも当選し、政界にも進出していた。まさに政財界の大立者である。
 社長があまりに大物になりすぎて、博文館のほうの経営がお留守になりがちだったのである。
 たとえていえば、松永光弘がプロレスラーの副業としてステーキハウスを開業したところ、安くて旨いので客が殺到し、支店を作るだのフランチャイズ展開するだのの盛況となりすぎ、プロレスは店の経営の片手間に、暇をみてリングに上がる状況になってしまったようなものだろうか。
 また、明治28年に10銭で発売した懐中日記、明治29年に発売した当用日記が爆発的に売れ、博文館本社も「日記さえ売ればいいや」的な雰囲気が漂いはじめたのも原因のひとつだろう。いちおう大正5年には永井荷風の「ふらんす物語」「あめりか物語」を出版し、「太陽」や「文章世界」など文芸雑誌も出しているから、文芸を捨てたわけではないのだが、だんだんと学術書、実用書、少年少女向けの本、軍事書などの比率が多くなっている。

 そしてわが春陽堂はといえば、新潮社を相手に苦闘を続けていた。
 大正3年、3代目社長の和田静子と結婚した和田利彦が4代目社長に就任した矢先のことである。
 当時、中央公論はまだ出版部がなかった。よって文芸書の出版元といえば、古豪の春陽堂と新鋭の新潮社、この2大出版社で覇権を争っていた。そしてその戦いは、文芸叢書の出版競争にバトルフィールドを移していた。
 新潮社が大正3年に「代表的名作選集」全44巻を刊行すれば、明治文学の遺産我にありとばかりに春陽堂は大正5年に「名家傑作集」全14巻を刊行して対抗する。それならばと新潮社が大正6年に「新進作家叢書」全45巻を出すと、春陽堂もすかさず同年に「新興文芸叢書」全18巻で迎え撃つ。
 こんな調子で、新潮社「情話新集」全12冊VS春陽堂「侠艶情話集」全4冊の人情話対決、新潮社「感想小品叢書」全11冊VS春陽堂「自然と人生叢書」全11冊のエッセイ対決、新潮社「現代脚本叢書」全17冊VS春陽堂「現代戯曲選集」全11冊の戯曲対決など、数々の名勝負を繰り広げた。
 ついには春陽堂は「ラヂオドラマ叢書」全5冊などというラジオドラマの脚本集、「ヴェストポケット傑作叢書」全19冊という文庫本サイズの普及本まで刊行したが、新潮社に「トルストイ叢書」全12巻、「ヱルテル叢書」全8巻、「現代仏蘭西文芸叢書」などと苦手分野の西洋文学を突きまくられ、さらに「現代自歌選集」全6巻、「最近日本文豪評伝叢書」全4巻、「現代詩人叢書」全20巻などというのまで刊行され、じわじわと押されて劣勢となっていった。
 「大正期の文芸叢書」で、紅野敏郎はこう書いている。

この叢書の企画、実践によって、「新潮社」は明治期の文芸出版の中心であった「春陽堂」を現場の感覚において追い越したと見ることも出来る。

 新潮社の優勢勝ちになりそうだったこの叢書レースを強引に中止させたのが、大正12年の関東大震災である。


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