大衆文学の源流

 なしくずしに明治から大正へ時代を移してしまったが、ここで少し明治に戻り、春陽堂が明治30年に出した書籍目録を見てみよう。ここには代表的作家18人が写真入りで著作を紹介されている。これをジャンル別に分類してみると、
いわゆる文学作家。尾崎紅葉、饗庭篁村、坪内逍遙、森鴎外、石橋忍月、川上眉山、巌谷漣(小波)、広津柳浪、幸田露伴、山田美妙。
いわゆる大衆小説作家。村井弦齋、ちぬの浦(村上)浪六、宮崎三昧、遲塚麗水、須藤南翠。
文学と大衆小説のかけもち。江見水蔭。
評論・随筆の作家。福地櫻痴、齊藤緑雨。

 このうち文学・評論関係の作家はあえて説明する必要もあるまい。ただ幸田露伴と石橋忍月は春陽堂の「新小説」の主筆を勤め、春陽堂と関係の深い作家だった。「新小説」は赤字のままだったようだが。
 ちぬの浦(村上)浪六、江見水蔭についてはすでに触れた。村井弦齋は自費出版の「食道楽」がもっとも有名で、かつ売れた。小説の内容は陳腐で見るべきところはないが、随所にちりばめられたレシピ目当てに女性が多く買っていったという。書いてある栄養学や食品学の蘊蓄は今読むと噴飯物が多いが、その点も含め「美味しんぼ」の原点のような本である。宮崎三昧は饗庭篁村や幸田露伴と並んで根岸派と目されていたベテランで、歴史小説や花柳小説を書いていた。遲塚麗水は紀行文で名が知られ、各地で採集した伝説をもとに時代小説を書いている。須藤南翠は明治10年代から名の売れたベテランで、毒婦もの、歴史もの、政治裏面ものなど多種多様なジャンルの小説を新聞連載していた。
 大衆小説とはいっても彼らは、江戸末期の滝沢馬琴あたりの流れをくみ、読むにはある一定の教養を必要とした。

徳川の流れに花をうつせし寛文二年寅の七月、奉行所よりの町触れに「町人若きもの大びたひ取使者有之、自今已後無用可仕事」とありしを五十餘年の昔しと見て、正徳のすへ享保の頃ろ、又もや唐犬額に板倉屋源七が餘被りの障子鬢かき上げて銀の針線を元結とし、身の拵へ衣裳の作りづくり小唄に残る深見十左を其まま縄鼻緒の駒下駄に江戸の八百八町を踏鳴らし、男の中の男と立てられし次郎吉といふ六方むきの臂突あり、辱めを受くれば……
         (村上浪六「三日月」より)

 というような文体だから、大衆小説とはいっても、少なくとも新聞(文語体で文体がいかめしく、現在より豊富な漢字を使っていた)が読める程度の人間、少なくとも中等学校くらいは出た官吏や会社員、その奥様が暇つぶしに読む、といった小説だった。つーか、少なくとも私には理解できてません。
 尋常小学校もまともに出ていないような小僧や丁稚にとっては、娯楽は小説にはなく、町でやっていた寄席で落語や講談を聞くことだった。

 大正時代になると、「大衆」の範囲が一気に拡大する。学校教育が普及し、識字率の上昇とともに、小僧や丁稚も、読者層として出版界がとりこんでいく情勢となっていくのだ。
 きっかけは明治時代にある。伝説の名人、三遊亭円朝の落語を速記で文章におこした「円朝筆記本」は言文一致体の誕生に大きく貢献したが、読み物としても大きな人気を得た。これにより講談や落語の筆記本が売れるようになっていった。しかしこれも、

 今日より怪談のお話を申上げまするが、怪談ばなしと申すは近来大きに廃りまして、余り寄席で致す者もございません、と申すものは、幽霊と云うものは無い、全く神経病だと云うことになりましたから、怪談は開化先生方はお嫌いなさる事でございます。それ故に久しく廃って居りましたが、今日になって見ると、却って古めかしい方が、耳新しい様に思われます。これはもとより信じてお聞き遊ばす事ではございませんから、或は流違いの怪談ばなしがよかろうと云うお勧めにつきまして、名題を真景累ヶ淵と申し、下総国羽生村と申す処の、累の後日のお話でございまするが、これは幽霊が引続いて出まする、気味のわるいお話でございます。
       (三遊亭円朝「真景累ヶ淵」より)

 といった文章だから、小僧や丁稚がおいそれと読めるものではなかった。それ以前に、明治も30年代くらいまでは尋常小学校の就学率が5割前後だから、字が読めない人間もかなりいた。
 それが明治33年の第3次小学校令、市町村立小学校費国庫補助法により、初等教育が無償となり、就学率はいきなり8割を超える。明治末にはほぼ100%となる。小僧や丁稚も、尋常小学校に通い、字が読めるようになったのである。

(ならば、小僧や丁稚が読めるような本を作ればいい)
 と考える人間が、大正期になると現れてくる。
 その代表例が、野間清治と、立川熊次郎である。

 野間清治は明治11年、群馬の剣術使いの息子として生まれた。父好雄は、麻布に道場をかまえる北辰一刀流の剣客、森要蔵のもとで剣術を学ぶ。ちなみに森要蔵は門弟や息子の寅雄とともに会津城での官軍との戦いに参加し、戦死。のち、要蔵のひ孫、寅雄を野間清治は養子とし、実子の恒とともに剣術修業を重ね、昭和8年にあった昭和天覧試合の東京府予選で恒と寅雄は決勝で対戦、寅雄がわずかに強いかと思われたが、意外にも恒が2本を取って優勝した。恒は全国大会でも優勝を果たしている。
 父好雄は武士身分だったらしいが、明治維新により暮らしが立たなくなり、東京へ出て乾物屋を開業するが、「武士の商法」の通り失敗。当時、榊原謙吉が剣客救済のため行っていた「撃剣会」の剣術試合見世物興行に出演し、かろうじて糊口をしのいでいた。
 そんなだから生活も苦しい。清治は明治28年、芝の静観書院を出るとすぐに、日給20銭で桐生近くの木崎尋常小学校の代用教員となる。勤務が認められたのか、翌29年には郡長推薦で師範学校に入学。おそらく学費や生活費の援助を受けていたと思われる。師範学校では文章と演説、そして剣術が得意な、典型的バンカラ学生だった。明治33年に卒業、群馬県山田第一高等小学校の訓導(今でいう正式教員)となる。月俸16円。明治35年には学校に無断で東京帝国大学の臨時教員養成所を受験、合格して入学。明治37年には沖縄中学校に赴任する。これはおそらく、月俸40円という高給に釣られたものだろう。
 明治40年には東京帝国大学の法科主席書記に採用され、ふたたび東京に舞い戻る。ここで学長の許可を得て、東京帝大弁論部の速記原稿を集め、「雄弁」を発刊、「大日本雄弁会」を設立する。しかし本社は団子坂の自宅だった。
 明治43年に出た「雄弁」創刊号は、定価20銭で初版6,000部を売り切り、2版3,000部、3版5,000部を刷るという大人気。この余勢を駆って「明治雄弁集」を昭文館から出版。これもよく売れた。

 さらに野間清治は、貧しかった少年時代を思い起こしたのか、それとも博文館「文芸倶楽部」の増刊号で講談、落語の速記がよく売れているのを見ていてか、講談を中心にした雑誌の発刊を思いつく。しかし硬派の雄弁会としては、低俗な講談本を一緒に出すわけにはいかない。
 そんなわけで明治44年、講談社を新たに立ち上げ、「講談倶楽部」を発刊した。
 「講談倶楽部」の創刊号は1万部刷って実売1,800部とアテハズレだったが、翌年分光堂から「講談世界」が発刊され、競争したのがかえって好結果を生み、「講談倶楽部」は8〜9千部、「講談世界」は6〜7千部と、安定した売れ行きを得る。
 ところが大正2年、「講談倶楽部」に危機が訪れる。
 きっかけは「講談倶楽部」が講談とともに、当時流行の浪花節を掲載したこと。これに講談師が猛反発した。当時講談は寄席で語られ、仁義礼智信を大衆に啓蒙するものとして講釈師は自負とプライドを持っていた。その講談雑誌に、大道で音曲を唸り投げ銭を貰う乞食同様の浪花節を載せるなどもってのほか、というわけだ。
 講談師、速記者は連名で「講談倶楽部」に浪花節を掲載しないことを要求。野間清治はこれを拒否。これにより講談社と講談師は絶縁する。
 困った野間清治は、講談の様式、題材をとりいれ、平易な文章で書く「新講談」を中里介山、長谷川伸、江見水蔭、村上浪六らに書かせる。これが当たり、「講談倶楽部」はかえって部数を伸ばした。

 ちなみに講談社の成功は、雑誌の内容だけではなく、大胆な宣伝、コストカットによる経費節減も大きい。
 これについてはあまりよく言われていない。箸袋に雑誌の広告を入れたり、チンドン屋をつかって宣伝する講談社は出版社の矜恃を失ったものと批判された。また総理や大臣の名前を勝手に使ってコメントや推薦文を捏造、前田珍男子博士発明として「パミール」なる化粧水を大々的に宣伝するが、前田博士はまったく知らなかった等のインチキは日常茶飯だった。講談社では「どりこの」なる滋養強壮の清涼飲料水なるものを大々的に宣伝して販売していたが、これも「砂糖水に味の素をまぜただけのシロモノ」と酷評されている。「私も愛飲しています」のたぐいの有名人コメントも多くは無許可捏造だったらしい。
 コストカットも結局は執筆者の稿料を値切り、安月給で社員を酷使し、印刷所を恫喝して値切りに値切るという、弱者をしいたげることによる成果だった。まあ、これは今ならどこの会社でもやっていることだが。
 そんなわけで講談社といえば大正期には、俗悪出版社、悪徳出版社として有名だった。まともな出版社として認められるのは大正も末、「キング」の創刊以降からである。

 「立川文庫」で有名な立川熊次郎は、明治13年、姫路の農家に生まれる。父親が米相場で失敗したため、生活は苦しかったらしい。幼少から製粉所で働き、小金を貯めて大阪で商売をはじめるが、失敗する。
 しかしやがて、姉のかじが岡本増次カと結婚。岡本増次郎は岡本増進堂という赤本問屋の創業者である。その縁で熊次郎も明治33年、増進堂の社員となる。
 ちなみに赤本というのは当時の蔑称である。もともとは江戸時代、女子供向けに昔話や教訓話を書いた草双紙や絵双紙の表紙が多く丹色だったため、赤本と呼ばれた。これが明治以降もそのまま引き継がれ、女子供向けの絵入り本を赤本と呼び、これを取り扱う出版社は、春陽堂や博文館などより2ランクも3ランクも下の会社と思われた。大正末から昭和にかけては内容に限らず、版権も著作権もいいかげんで、まともな本屋では流通せず、夜店で叩き売られるような三流出版社やそこから出る本を総称して赤本屋、赤本と呼ぶようになった。主に大阪に多かった。赤本差別は太平洋戦争後まで続いており、手塚治虫や長谷川町子は昭和30年代ごろまで、当時漫画界の大御所だった近藤日出造から「大阪の恥知らずの赤本あがりの俗悪マンガ家」と罵られていた。
 そんな赤本の世界に身を置き、大衆の嗜好を肌で感じながら、熊次郎は本屋の経営を学び、やがて明治37年、独立して「立川文明堂」を開業する。最初は日露戦争のさなかということで「日本軍歌集」を出版し、大売れする。

 そんな熊次郎の「立川文明堂」と、講談師玉田玉秀斎の出逢いが、「立川文庫」を産んだ。
 玉田玉秀斎は安政3年の生まれで、先代玉田玉秀斎に入門、玉麟の名をもらい講談師となる。真面目な勉強家だったが、どうも語り口が淡泊で、脂っこい語り口を好む大阪の客には受けない。
 そんな彼をなぜか見込んだのが、廻船問屋日吉屋の娘、山田敬である。むろん、大店の嬢はんと貧乏講釈師とでは身分が違いすぎる。敬は玉麟をそそのかし、駆け落ちする。それが祟り、玉麟は寄席にも出入り禁止となる。当然、貧乏はますます嵩じて貧窮となる。
 そこで敬が目をつけたのが、当時流行の速記講談である。これなら寄席に出なくてもよい。速記者の山田都一郎をくどき落とし、故郷に捨ててきた娘、寧と結婚させる。玉鱗の講談を都一郎が速記して柏原奎文堂から出版。これが当たり、玉麟は先代の死後、玉秀斎を襲名することができた。
 しかし都一郎は寧と離婚、玉秀斎から離れる。その代役として起用されたのが敬が故郷に捨ててきた息子、山田阿鉄。彼は山田酔神と名乗り、速記を引き受ける。しかし素人の悲しさ、講釈をそのまま文にすることができない。そこで抜けているところを適当につなぎ、文章にすると長ったらしいと思ったところは大胆にカットした。これがかえって読みやすく、人気を呼ぶ。
 当時の東京では、紅葉や漱石などのよく売れた名作を小型の版型に直し、安価に売るのが流行していた。いわゆる袖珍本である。着物のたもとに入れておける本という意味で、今の文庫本に相当する。
 山田酔神はこれに目をつけ、講談本を袖珍本で出版することを思いつく。この企画を大阪のあちこちの出版社に持ち込んだがどこでも断られ、最後に立川文明堂でようやく熊次郎の承諾を得る。
 明治44年、立川文庫の第一巻、「一休禅師」が出版される。そして立て続けに「水戸黄門」「大久保彦左衛門」「荒木又右衛門」「真田幸村」と出し、いずれもよく売れる。そして大正3年、初の架空人物「猿飛佐助」が大人気となり、第1期の忍者ブームをまきおこす。この忍者ブームに乗って、尾上松之助主演の映画「地雷也」「猿飛佐助」「霧隠才蔵」が封切られ、こちらも大人気となる。
 立川文庫の文章は、

欺くにその道を以てすれば君子も防ぎ難し。短気無類の源心入道は、猿飛佐助の計略にかかり、ただ一刀に伊勢崎五郎兵衛を斬り倒した。倅五郎三郎はこの体見るより大いに驚き、
五「ヤヤッ、こりゃどうじゃ」と、遮らんとするところを、源心入道すかさず飛び掛かり、エイと叫んで細首丁と打ち落とす。
            (立川文庫第四十編「猿飛佐助」より)

 といった文体で、やたらに調子がいい。しかし、難しい漢字や人名にはルビが振ってあるものの、この文章を小僧丁稚や小中学生が読めたのだから、当時の漢字識字率は今よりも高かったのだろう。今なら小中学生は当然として、大学生すら読めるかどうか怪しい。

 余談だが、忍者ブームの第2期は昭和35年ごろ、五味康祐「柳生武芸帖」や山田風太郎「甲賀忍法帖」「魔界転生」や司馬遼太郎「梟の城」「風神の門」などの小説や、市川雷蔵主演映画の「忍びの者」シリーズ、TVドラマ「隠密剣士」などが代表。第3期忍者ブームは昭和45年ごろ、白土三平「サスケ」「カムイ伝」や藤子不二雄「忍者ハットリくん」や横山光輝「伊賀の影丸」などの漫画、TV特撮の「忍者部隊月光」「変身忍者嵐」「快傑ライオン丸」などが代表。次々とメディアを変えながらブームを起こしていくさまは、まさに変幻自在な忍者さながらである。
 さらに余談だが、「くノ一」という言葉は五味康祐の創作。「上忍、下忍」という言葉はもともと術が優れているか下手かの意味だったのを司馬遼太郎が身分関係に改変し、白土三平が「中忍」という言葉も創作して壮大な忍者のヒエラルキーを完成させた。
 立川文庫の功績は売れたこともそうだが、江戸期の講談や読本から現代の時代小説、映画、TVドラマ、アニメ等につなぐ役割を果たしたことが大きい。水戸黄門、大久保彦左衛門、一休さん、真田十勇士、大石内蔵助、宮本武蔵、牛若丸、弁慶、安倍晴明、柳生十兵衛などはいずれも、立川文庫を経て江戸期から現在に受け継がれた人物である。

 これら講談本、立川文庫などは、当初の丁稚、小僧から小中学生にまで読者層を広げることに成功した。本は貸本屋で貸し出しされることが多かった。5日借りて5銭程度だったという。販売価格は25銭で、読み終わった本に3銭足せば新しい本と交換してくれたという。安くとも1円近くする単行本に比べ、貧乏な丁稚や学生には手頃な娯楽だったわけだ。


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