新興会社繁盛記

 紅葉から漱石まで、明治中期から末までのおよそ10年の間に、文壇は激動した。
 これが出版社にも影響を与えずにはおれない。

 まず春陽堂について言えば、創業者の和田篤太郎鷹城が、明治32年に逝去した。享年43。
 2代目社長には篤太郎夫人のうめが就任した。そのうめ社長も、明治39年に夫の後を追う。享年53。
 3代目社長には、うめが篤太郎に嫁ぐ前の夫との間にもうけた連れ子、きんの娘、静子が就任した。つまり篤太郎とは血のつながりがない。

 それとほぼ同時期、春陽堂と並んで二大出版社のひとつ、博文館の創業者、大橋佐平も明治34年に逝去。享年67。
 2代目社長には佐平翁の息子、新太郎が就任したが、博文館にとって痛かったのは、同年、大橋乙羽が享年32で死んでしまったことである。乙羽は硯友社から博文館に婿入りし、硯友社とのつながりを深めたのみならず、海外事情にも詳しく、博文館の知恵袋的役割であった。

 春陽堂の番頭、手代はこれまで通り、2代目、3代目の社長に仕え、社業を盛り立てたが、やはりトップは創業者と違い、冒険はなかなかできない。
 どうしても篤太郎の時代に開拓した人脈に頼るところがあり、既に名をなした大家の本を出版するという、安全策に頼るようになっていく。
 それは佐平と乙羽を失った博文館も同じことで、どうしても両社とも、既存の作家に頼りがちになっていく。
 そして新人作家発掘の作業は、じょじょに他社に奪われていく。

 明治後期以降、新人作家発掘の任を担ったのは、中央公論社、新潮社などの新興出版社であった。

 中央公論社の最初は、文芸出版社ではなかった。
 新島襄の同志社設立など、キリスト教の活発な活動に危機感を抱いた仏教界の雄、西本願寺の大谷光尊は、大学林(のちの龍谷大学)、普通学校(のちの平安中学→平安高校→龍谷大学付属平安高校)を創設した。
 この大学林の生徒が禁酒をモットーとするサークル「反省会」を設立したのが明治19年。翌明治20年には、「反省会雑誌」を創刊する。明治25年には「反省雑誌」と改名するが、道徳教育をメインにした論文誌だった。
 明治30年、「反省雑誌」の夏期付録として、はじめて文芸ものを掲載した。幸田露伴、正岡子規、高山樗牛、与謝野鉄幹、高浜虚子らが書いたその付録は2,000部をすぐ売り切り、300部増刷するという好評。ただしあくまで付録で、本誌は論説のみの雑誌だった。
 明治32年には現在の「中央公論」に改名。
 そして明治37年に滝田樗陰が入社。彼が編集長の麻田駒之助の反対を押し切り、明治38年から中央公論本誌に小説を掲載するようになった。これで売れ行きが大幅増となり、月5,000部を売り切るほどに成長した。
 樗陰は明治・大正期の名編集者と呼ばれ、芥川龍之介、菊池寛、谷崎潤一郎、佐藤春夫、室生犀星など数多くの新人を見出しデビューさせた。樗陰が乗った人力車が自宅の前を素通りしたため、落胆して高熱を出し寝込んだ若手作家がいたくらいである。中央公論がのちに文壇の雄となったのは、ひとえに滝田樗陰の力であった。

 新潮社の創業者は佐藤義亮。明治11年の生まれだから、春陽堂の開業の年に生まれたわけだ。
 明治28年に上京。秀英社(現在の大日本印刷)で校正の仕事をしているうち、出版に興味を抱き、明治29年に「新声社」を設立、「新声」を発刊した。投書以外はすべて義亮が書いたといわれる。これがなぜか800部を完売したため、すぐ2号も刊行。3号から「文壇風聞記」を開始。今でいう文芸誌のゴシップ記事の嚆矢である。これがさらに評判を高めるが、よくネタにされた硯友社からは忌み嫌われる。
 それもあってか、春陽堂、博文館にすでに抑えられている大家を避け、河東碧梧桐、田山花袋などの新進作家を狙って出版する。特に田山花袋、徳田秋声、島崎藤村ら自然主義作家を大胆に登用し、「新声」は自然主義の牙城とも呼ばれた。
 「新声」は売れるが、義亮は本を作ることだけに夢中で、集金をおろそかにしたため、「新声社」は未収金の貸し倒れのため財政がどんどん悪化。ついに明治36年、義亮は「新声社」を売却。
 しかし、このくらいでへこたれる義亮ではない。翌明治37年には「日露戦争の今こそ、文学が必要なのだ」と「新潮社」を新たに設立、「新潮」を発刊する。
 中央公論における滝田樗陰の役割を果たしたのが、中村武羅夫だった。明治40年に入社し、新潮社の中心人物となる。樗陰ほど派手な人物ではなかったが、芥川龍之介、佐藤春夫の主な作品を出版し、文壇に重きをなすようになった。

 もうひとつ、ユニークな出版社があった。金尾文淵堂である。
 文淵堂は金尾種次郎という人物が創業したが、この人物、どんな見ず知らずの作家でもなにか書いているという噂を聞きつけるや、即座に「ゲンコウイタダキタシ」と電報を打つので作家から恐れられていた。昭和2年に徳富蘆花が死んだときは、葬儀の席で蘆花未亡人に「全集をうちから出版させてくれ。ダメならここで首をくくる」と脅迫した、直情径行の社長である。
 明治32年に大阪で文芸雑誌「ふた葉」を創刊、さらに薄田泣菫のデビュー作「暮笛集」を出版してこちらも出版社デビュー。ちなみに上記の逸話を書き残したのはこの人の「茶話」である。
 ところが明治36年に出版した「社会主義詩集」が発禁となり、行き詰まって東京へ夜逃げ。明治37年、東京で持ち前の強引さをもって「早稲田文学」の版元となるかたわら、与謝野晶子「みだれ髪」が当たり大儲け。
 しかし明治40年、満を持して出版した「仏教大全集」が大コケ、明治41年にはふたたび破産。それでも不屈の闘志で再起し、明治44年には田村俊子「あきらめ」、与謝野晶子「新釈源氏物語」、北原白秋「印度更紗」を出版して社を立て直す。ちなみに白秋の弟で、のちアルス社を興す北原鉄雄も社員だった。
 しかしこれで力尽きたのか、大正10年、徳富蘆花「日本から日本へ」出版を最後に発行点数が急激に減少。大正12年の関東大震災で社屋は丸焼け、また大阪に夜逃げする。
 昭和に入っても細々と出版を続けてきたが、昭和22年、金尾種次郎の死去をもって会社も終焉をむかえる。


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