明治文士は貧乏か

 そんなわけで邪魔な山田美妙を片付け、ついに名実共に日本一の文豪となった尾崎紅葉だが、彼について正宗白鳥はこんなことを書いている。
「明治29年の2月下旬『多情多恨』が読売に出かかった頃、私ははじめて上京して、横寺町の下宿に、いわゆる草鞋を解いたのであったが、間もなく、町内の古ぼけた共同門に『尾崎徳太郎』という表札が出ているのを、散歩の途中か、湯屋通いの途中に見つけたので、これが、有名な紅葉山人の住所であろうかと疑って、同宿の友人に訊ねたが、法律書生であった友人は、そんなことは知らなかった。数日経って、田舎の知人から紹介されていた戸川残花翁を、薬王寺町に訪ねた時に、かの表札について訊ねると、『それが紅葉の家だ』といって、『文学者は皆んな貧乏だ』と、その実生活についていろいろ話してくれた」(作家論・岩波文庫より)
 明治29年というと、読売新聞で「金色夜叉」を連載する前年で、作家としてほぼ絶頂期にあったといっていい。すでに結婚して子供(一男二女)も生まれていたはずだ。
 ここで白鳥が「紅葉の実生活についていろいろ」書いていてくれれば、こちらの手間が省けてよかったのだが、残念ながら詳細を書いてくれていない。そこでおぼつかないながらも、尾崎紅葉の生活について、主に金銭面から考えてみる。

 尾崎紅葉の生活上の好みを、衣食住でランク付けしてみると、食>>住>衣となる。
 食い物についてはうるさいほうで、中華の鶉椀、金ぷら(天ぷらの衣に卵黄を加え、黄色っぽく揚げたもの)、甘鯛の照り焼き、梅園(浅草の甘味屋)の汁粉、薩摩芋、漬物、くさやが好物だった。紅葉が春陽堂を訪れると、何も言わずに奥に通され、何も言わずにお茶菓子もしくは金ぷらが出てきたという。中でも漬物にはうるさく、紅葉を迎えた友人や弟子の妻は、この沢庵は漬け過ぎだ、この青菜は塩辛くて食えたもんじゃない、とたびたび駄目出しされて、台所の隅で涙にくれることが多かったという。弟子の泉鏡花が芸者と結婚することを禁じたのも、「芸者は漬物の漬け方なんかわかりゃしない」というのが理由だったという説がある。
 もっとも「食い物にうるさいが、食通かどうか疑問」と江見水蔭は書いており、その証拠として、浅草大金へ行き「今日の刺身はきわだかかじきか」と女中に聞いて「お客様、手前どもは一切鶏料理でございます」と言い返された話と、大阪で牛肉を注文して「まずい。やっぱり田舎の牛は駄目だ」と文句を言ったが、後になって犬肉を牛肉と偽って食わされたことがわかった話を残している。ちなみに現在の大阪ではそのようなことは一切ありませんので、みなさまご安心ください。
 まあ、硯友社の親友だった大橋乙羽も、博文館の養子になる前の貧書生時代、西洋料理を誂え、デザートでアイスクリームが出てくると、おもむろに卓上のウスターソースをぶっかけて食べ、「うむ、この料理はナカナカ乙だ。俺は乙羽」と言ったとか言わなかったとか。
 住居は死ぬまで借家暮らしだった。西洋風の洋館を建てて住みたいと言っていたそうだが、結局実現できなかった。
 衣服は垢のつかないこざっぱりしたものであれば何でもいい、という主義で、地味な茶色やお納戸柄(くすんだ青)をよく着ていた。

 まず尾崎紅葉の年収から見ていこう。伊狩章「硯友社と自然文学研究」では、明治34年の紅葉の収入を推定している。金色夜叉の連載が好調で、もっとも人気が盛んなころだ。しかし、そろそろ命取りとなる胃痛が始まっている。
 明治25年に尾崎紅葉は読売新聞社に入社した。これは記者としてではなく、人気作家の小説を独占するためである。
 こういう形態は今はないが、明治から大正にかけてはよくあった。紅葉と同時に坪内逍遙(文芸面主筆として)、幸田露伴(小説を書き続ける自信がなかったためか、社員待遇を自ら断り、客員待遇となった)が読売新聞社に入社しているし、他にも二葉亭四迷が大阪朝日新聞に(これは記者として、実際にロシア特派員に派遣される途中で死んだ)、夏目漱石は東京朝日新聞に、芥川龍之介は大阪毎日新聞に入社している。私の知る限り、谷譲二、林不忘、牧逸馬の3ペンネームを使い分けた長谷川梅太郎が昭和2年に東京日々新聞に入社したのが最後の例である。
 読売新聞社に入社時の月給が30円。のち「金色夜叉」連載時には100円になっていたそうだから、明治34年にはすでに100円。あと、年末に歳暮が10円出た。その代わり、原稿料は出ないという条件。
 また、他誌への随筆等の原稿料が合計で約350円。
 他に単行本出版時に出版社から支払われる金がある。明治25年に洋行帰りの森鴎外が「美奈和集」出版時に印税契約を主張し、よくわからなかった春陽堂は25%という高率の印税を払ってしまったが、まだ完全には定着していなかったらしい。明治34年の紅葉も印税制の場合と原稿買い取り制が混在していた。「金色夜叉」その他の印税が合計で約500円。短編小説集「仇浪」は買い取りで約220円。
 その他に、揮毫や画賛への謝礼が130円以上。
 また、俳諧雑誌での選句、投稿小説の添削、他作家の本への序文などで200円以上。
 合計すると明治34年の尾崎紅葉の年収は新聞社給与1,200円+その他1,400円=2,600円ということになる。月割りにするとだいたい220円。
 これを現代に換算、というのが文化体系が変わってしまったので無理なのだが、強引に消費者物価指数を用いて平成18年の物価に換算してしまうと、12,533,124円となる。およそ年収1,250万円。これは安い。そこらの会社の部長クラス程度か。プロ野球選手でいうと、阪神の筒井外野手(星野前監督の甥という縁で前年中日から入団。2006年、一軍出場なしで年俸1,400万円)よりもちょっと下だ。
 ちなみに同年、夏目漱石は官費でイギリス留学中。いまでいうと博士号を日本で取った大学講師がPh.Dを取りに留学するようなものか。この年間手当が1,800円。留守家族には年300円が別途支給。紅葉より500円低いわけだが、まだ修行中の身が天下一の文豪よりちょっと低い程度だったわけだ。
 同年の森鴎外は小倉に左遷されてはいたが、軍医監(大佐相当)の俸給をもらっていて、これが月俸200円。当時すでに雑誌「めさまし草」を創刊して寄稿したり、アンデルセン「即興詩人」を翻訳してもいるから、これを合わせると紅葉をはるかに上回っただろう。
 同年の永井荷風はやまと新聞に入社して月俸12円。年俸にしても144円。ちょっと厳しい暮らしだっただろうか。
 同時期、海軍大将が月俸500円、エリート官僚(高等文官試験の合格者、いまでいうキャリア組である)の初任給が50円。これが下っ端のノンキャリア巡査だと12円。エリート銀行員の初任給が35円。住み込みの女中は3食付きで月に2円程度。日雇い人夫は月に5円、人力車夫は月に7円50銭稼げればまずまずだったという。明治は格差の大きい時代だったのだ。

 さて支出は、となるとこれが難しい。
 まず家賃。正宗白鳥は紅葉の住居を悲惨なふうに書いているが、田山花袋はその住居に憧れている。「東京の30年」(岩波文庫)では、2畳の玄関のすぐ隣の8畳の座敷は小さな庭に面しており、2階は8畳と6畳と説明している。まずまずの暮らしだが、ここに母親と紅葉夫婦、3人の子供が暮らし、泉鏡花、小栗風葉の書生まで住まわせていたのだから、ちょっと手狭なようにも思える。ちなみに明治28年、風葉は庭の青葡萄をつまみ食いしてコレラにかかり、師に看病されるというていたらく。もっとも紅葉はこのネタで「青葡萄」を書き、モトを取っている。
 やはり手狭だったのだろう、明治34年までには借家をもう一軒借り、そちらに書生を住ませていたらしい。紅葉の明治34年元旦から10月10日までの日記が「十千万堂日録」に記されているが、その中に「来客を避けるため鏡花宅で執筆」という記述がしばしば出てくる。
 尾崎紅葉家の家賃は2軒あわせて月18円。
 また女中を2人、人力車夫を1人雇っているので、この給料が14円40銭。
 そのほか合わせて、尾崎家の生活費は合計89円。

 では収入220円、支出89円で月に130円の貯蓄ができるだろうと思うのだが、そうはいかない。
 尾崎家の生活をもっとも逼迫させていたのは、交際費だったという。なにしろ交際範囲が広く、しかも律儀な性格だった紅葉は、知人の娘が結婚するといっては祝儀袋を包み、友人の厳父が亡くなったといっては香典袋を包む、それが毎月かなりな額にのぼったという。また宴会や会合の費用も馬鹿にはならない。
 紅葉の明治34年元旦から10月10日までの日記が「十千万堂日録」に記されているが、1月2月の59日間のうち、宴会・会合・会食・打ち合わせ等で外出しているのが22日間、来客はほぼ毎日来ている。ちなみに春陽堂の訪問は13日間ある。余談だが酒癖の悪いので有名な小栗風葉は2ヶ月のうちに師の前で2回酔態を見せて、紅葉に「狂酔」と書かれている。
 交際費も大変だが、これら交際に費やす時間もかなりなもので、紅葉は金色夜叉の休載が多い理由として「1.胃患、2.来客、3.推敲の三害」と反省している。
 また紅葉はよく友人、弟子たちを連れて好物の中華や天ぷらを食いに出ていた。もっとも紅葉は、弟子にもワリカンで払わせていたらしい。その頃はワリカンのことを京伝払いといった。戯作者の山東京伝は版元から原稿料をもらった最初の作家と言われているほど高名だったが、やはり原稿料では食えず、煙草屋が本業だった。そんなわけであまり金がなく、遊びに行っても他人の分まで払うことができないため、ワリカンにしていたからだという。江戸時代の文士は、明治文士よりさらに貧乏だったわけだ。

 まあ、文豪トップクラスの年収が軽く億を超え、総理大臣や大会社社長の年収を上回ってしまう現代から考えると、尾崎紅葉も貧乏な部類に入ってしまうだろう。「明治文豪列伝中尾崎紅葉」でも、「生活は貧しと云ふにはあらねど、明治第一流の大家のそれとしては、小さき生活なり」と記している。
 その結果、紅葉が死んだときには蓄えはほとんどなく、かろうじて葬式が出せる程度しか残っていなかったという。
 もっとも紅葉死後、友人や弟子が尽力し、博文館から出版した「紅葉全集」が非常に売れ行きがよく、未亡人や子供たちの生活には困らなかった。「紅葉は死んでから金持ちになった」と言われたという。
 紅葉は満年齢22歳で商業誌デビュー、20代前半で押しも押されもせぬ大作家となり、死んだのが36歳。なんだかあわただしい人生のようだが、明治20年から24年の平均寿命は35.8歳だから、時代はやや違うが、だいたい平均寿命を生きたことになる。ちなみにこの平均寿命は、2007年にあてはめると短命世界2位のレソト(35.2歳)と3位のジンバブエ(37.3歳)の中間になる。

 紅葉死去の5年後、明治41年に川上眉山は謎の自殺をとげる。自殺の原因としていろいろな説が出たが、そのひとつは金銭面のものだった。
 死の年、眉山の原稿料はおよそ1枚1円。新聞小説の1回分が4円程度だった。これに二六新聞記者の給料を足して、月の収入が50円程度と推定されている。
 それに対して家賃19円、女中を2人雇って5円など、合計での支出はおよそ85円と推定されている。不足分の35円をどうしていたかは、いまだに謎である。当時からあった「気軽に貸して厳しく取り立て」の金融会社にひっかかっていたのではないかという噂があって、その取り立てを苦にして自殺したのではないか、という説だ。
 やはり明治文士は、おおむね貧乏だったのだ。


戻る