まず髭ありき

 まずその起源をたどってみよう。
 初代店主の和田鷹城こと篤太郎は、安政四年(1857)、岐阜大垣に生まれた。父親は村長を務めるほどの地主だったというから、おそらく江戸時代は庄屋クラスの上級百姓か地侍クラスの下級武士だったろう。のちの篤太郎の履歴や人柄からいって、下級武士だったというのが近いように思う。
 十二歳のとき明治維新が起こる。大垣藩は、家老の小原鉄心が有能で、諸藩に先駆けて洋式銃を揃えたりしたのが逆に災いし、蛤御門の変や鳥羽伏見の変に幕軍の主力として駆りだされ、あやうく賊軍になるところだったが、小原鉄心などの奔走でようやく朝廷に恭順し、官軍として維新を迎える。
 いちおう官軍でもあるし、父親は村長だし、とくに不自由はなかったと思うのだが、やはり大志でも抱いたのだろうか、明治七年(1874)、十六歳のときたったひとりで東京に出る。
 おそらく郷里の先輩の口利きだろう、巡査の職にありつく。当時は賊軍や、官軍でも維新直前に寝返ったようなうだつのあがらない藩出身の武士階級が政府に職を求めると、巡査になることが多かった。
 最下級とはいえ官員さまであるし、元はお武家ということで、非情に威張っていた。いかめしい髭を生やして一般庶民どもを「オイコラ」と怒鳴りつけるのが巡査の常だった。どうもこのときの性癖が身についてしまったらしい。篤太郎の髭といばりんぼうは、それから一生変わることがなかった。髭は春陽堂のトレードマークとなり、威張り癖はかれを嫌う作家から悪口を言われるもととなった。
 西南戦争では巡査隊の一員として従軍しているが、なぜかここで退職。一念発起して商売替えをはかる。それが、本屋だった。

 春陽堂の創業は明治十一年(1878)。とはいっても芝久保町で、新聞や絵本を売り歩く、しがない行商人だった。時代劇の「新・必殺仕事人」で、火野正平が演じていた絵双紙屋を想像すればいいのではないかと思う。もっとも荷を背負って売り歩くのが火野正平ではなく、いかめしい髭をはやした偉そうな男というのが違っているが。
 もうひとつ違っていたのが、篤太郎が野心に燃えていたことだ。
 新聞や絵本を売り歩きながらも、篤太郎は世間の動きをすばやく関知していた。ときあたかも文明開化。これまで見たこともなかった西欧の文物がどんどんと入ってくる。それにともない日本も、人力車や牛鍋など、新規発明が盛んになる。庶民ですら、これからどうなっていくのか、これからの世に求められるものは何か、知りたがっていた。
 本屋業のかたわら、篤太郎はみずから小冊子を出版し、売り始める。
 明治十二年(1879)、初歩の計算術。明治十三年(1880)、文章の書き方、新法律の概要。まず売り出したのは、このような、庶民の生活に役立つ実用書であった。
 こうしてちまちまと小金を貯め、明治十五年(1882)にはついに念願の文芸書を出版する。南園竹翠という人の「三ツ巴恋の白雪」という本だった。


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