その翌朝、楠と泥吉のふたりは名主屋敷を出ました。
名主のせがれ三助と、近藤内蔵之助がふたりを見送ります。
「これから、江戸へ行かれますか」
「はい。薬品会に参ります」
「ほほう、楠どのは剣だけでなく、本草にもお詳しいのですか」
「いえ、ほんの素人の我流でございますよ」
楠蓮之進は、ちょっと苦笑しました。
「そうそう、近藤どの。この近所の川沿いに、蕎麦に似た葉をもつ、妙な水草が生えておりますな」
「それは……牛額草のことですかな。子供が遊んだり、百姓が青菜代わりに食っているようですが、あまりうまいものでは」
「あの草を煎じて飲むと、打ち身や刀傷に効き目があります。よろしければ試してごらんになれば……」
蓮之進は、今度はにっこりと笑い、
「ではこれで。近藤どのとは、またお会いできれば幸いです」
街道を去ってゆくふたりの後ろを、三助はしばらく追いかけ、
「おおい! 泥吉、また来いよぉ!」
と大声で叫びます。
「なんじゃ、おまえら喧嘩したかと思ったら、もう仲良しになったのか」
近藤は苦笑しました。
新宿で一泊したふたりは、翌朝、湯島へ向かいました。
広い会場では、薬品会の準備で大勢の人が立ち働き、たいへん混雑しておりました。
その中で医者らしい丸坊主の男になにやら指示している老人を見つけ、蓮之進は声をかけました。
「良沢どの」
老人は振り向いて蓮之進を認め、微笑みました。
「楠どの、よくおいでくださいましたな」
その老人は前野良沢。杉田玄白とともにオランダの解剖学書「ターヘル・アナトミア」を訳した業績で有名な蘭学者です。