養子天国

 日本人には家を大切にする思想はあっても、血統を大切にする思想はないのではなかろうか。

 その証拠に日本の名家というやつは、やたらに養子をとる。その結果祖先の血筋が絶えてしまっても平気なところがある。血筋を重視して近親交配を繰り返したあげく血友病になってしまったヨーロッパの王家とはだいぶ違う。

 天皇家はさすがに養子の例は少ないが、それでも血統が絶えることはしょっちゅうあって、そのたびに遠縁の人間を天皇に据えてきた。
 もっとも有名なのは二十五代武烈天皇のつぎの二十六代継体天皇だ。継体天皇は伝えるところによると「十五代応神天皇の五世の孫」ということになっている。朝鮮半島では十親等までを親戚としているが、おもしろいことに文書によると武烈天皇と継体天皇は十一親等離れている。つまりこれは、アカの他人だということを遠回しに語っているわけだ。
 その後も三十三代推古天皇で切れて四親等違いの舒明天皇に引継ぎ、四十六代孝謙天皇から六親等違いの淳仁天皇で皇位のたらいまわしをしている。南北朝の騒動では北朝が勝ち、南朝の九十九代後亀山天皇は十二親等違いの後小松天皇に譲位している。百十八代後桃園天皇から百十九代光格天皇の間も七親等離れているが、最大の危機は現代にある。
 百二十五代今上天皇のつぎはいまの皇太子浩宮様で確定だが、これに男子がない。雅子皇太子妃がいま妊娠中ではあるが。皇太子の弟、秋篠宮にも男子がない。いまの皇室で皇位継承の資格がある男子は、皇太子、秋篠宮、今上天皇の弟常陸宮、昭和天皇の弟三笠宮崇仁親王、その息子寛仁親王、桂宮、高円宮の七人であり、秋篠宮をのぞけばすべて皇太子よりだいぶ年上である。具体的にいうと、2001年現在で皇太子41歳、秋篠宮36歳、常陸宮66歳、三笠宮崇仁親王86歳、寛仁親王55歳、桂宮53歳、高円宮47歳。しかも桂宮は病身である。子供は産まれているが、これが女子ばっかりなのだ。このまま二十年くらい経ったらどうなるのだろうか。
 いま雅子妃が孕んでいる子供がもしも流れるか女子だったとすると、明治天皇以来の血統が完全に途切れてしまう可能性が大きい。その場合どうするか。皇室典範を改正して女帝を選ぶか、戦後臣籍に降下した東久邇宮あたりの旧宮家から選ぶか、である。東久邇宮がいまの天皇家と分かれたのは百二代後花園天皇の父親、貞成親王の代から。室町時代の初期のこと。なんと三十四もしくは三十五親等違う新天皇が誕生する可能性もあるのだ。

 武家になると養子いれまくりである。有名なのは鎌倉将軍家。実朝で源氏の血が絶えると、さっさと藤原氏や親王を招聘して将軍につけた。将軍なんかお飾りにすぎないという、露骨なまでのパフォーマンスである。
 足利氏は意外と養子相続が少ない。五代義量が若くして死んだ後、クジで伯父の義教を選んだのと、十代義植の死後堀越公方正知の息子義澄を据えたくらいだろうか。もっとも八代義政が弟の義視を養子にしたことがあって、これがきっかけで応仁の乱がおこったのだが。
 戦国時代になると、成り上がり大名がかつての名家を圧迫し、力づくで息子に家を継がせるケースが多い。毛利元就が地元の有力大名小早川、吉川を潰して自分の息子に跡を継がせたり、織田信長が伊勢の北畠、神戸といった由緒ある大名を攻め、息子に跡を継がせる条件で降伏させたりしている。豊臣秀吉も親戚の秀秋を小早川の養子に据えた。もっともこいつはすぐ裏切って、なんの役にも立たなかったのだが。

 徳川将軍家になると、系図を見ていてくらくらするくらいの養子天国である。徳川十五代のうち、親から子へ素直に将軍位が継承されたのは七回しかない。それ以外はすべて養子である。五代綱吉は四代家綱の弟だった。六代家宣は綱吉の兄の子だった。このへんはまだ近いのだが、八代吉宗は凄い。
 徳川御三家の紀伊家でも傍流の生まれだった吉宗は、まず鯖江三万石を与えられ、ようやく大名になれた。ところが相次いで父や兄が死んだため、急遽兄の養子となり、紀州五十五万石の当主になった。やがて徳川七代将軍の家継も死んだため、家継の養子となってついに征夷大将軍にまでのぼりつめた。まさに養子うなぎのぼりである。
 これに近いケースは「最後の将軍」こと十五代慶喜。御三家のひとつ水戸二十八万石の七男に生まれた慶喜は、御三卿のひとつ一橋家の養子となる。そして十四代家茂の養子として十五代将軍になるのだが、前代との血のつながりを勘定すると吉宗は六親等しか違わないのに対し、慶喜は十八親等も違う。もはや他人同然である。幕閣に慶喜将軍反対論があったのも無理はない。

 将軍がこれだから他の大名も推して知るべし。吉良上野介義央の息子を上杉家の養子に押しつけたり、二代将軍秀忠の浮気の子が保科家の養子になって保科正之となったのは有名な話だが、なんといっても最大の加害者は十一代将軍家斉である。側室四十人、子供五十五人をもうけた彼は、生涯のすべてを生殖に捧げた観があるが、そうして生まれた息子をやたらに他の大名家の養子にしてまわった。自分の息子が跡継ぎになれないし、将軍家ご子息を養子に貰うとなるとなにかと金がかかるし、大名としてはたいへんな迷惑なのだが、なにしろ将軍の思し召しである。受けざるを得ない。その被害者は尾張徳川家、紀伊徳川家、清水徳川家、越前松平家、津山松平家、明石松平家、福岡黒田家、阿波蜂須賀家、鳥取池田家など数多い。家斉の娘が嫁いだ先となると、数える気にもなれない。なんだか家斉の息子たちがいっせいに蜂起したら天下が取れそうだ。いやもう取ってるんだけど。

 それより小さい旗本ともなると、まともに続いている方が珍しい。なかには町人に乗っ取られてしまった家も多い。なんでも大阪の富豪商人などは、ボンクラな息子が生まれると、
「あかん、こいつに店継がせたら身代つぶすわ。こんな役立たず、侍にでもせなしゃあない」
 といって、自分の家は養子に継がせ、息子は旗本の株を買い与えたそうだ。貧乏旗本の家に話をつけ、数千両を与えて商人の息子を養子にする。旗本は金をもらって隠居する。そんなことがよくあったらしい。
 勝海舟の家もそうだった。海舟の数代前の先祖は盲人だった。按摩をして稼いだ金で金貸しをはじめ、これが当たって大金持ちになった。そこで勝家の株を買って息子を旗本にしたのだという。その値、ざっと三万両という。もっともそのおかげで海舟は幕臣として活躍し、明治以降も海軍卿をやったりしながら伯爵として優雅な暮らしができたのだから、この株、大暴騰したといえる。

 明治維新以降も養子は盛んだった。高橋是清、牧野伸顕、菊池寛、山本五十六、吉田茂、柳田国男、みな養子である。このように養子が盛んな理由は、家の存続を重んじたというのもあるが、ひとつには徴兵のがれもある。戸主だと徴兵されにくいため、次男以下がみな子供のない家の養子になったのだ。
 中には初代東大総長の加藤弘之の子、加藤照麿男爵のように、次男以下はみな養子に出すという方針の家もあった。四男は浜尾家を継いで浜尾四郎となり探偵小説家、五男は京極家を継いで京極鋭五となり音楽評論家、六男は古川家を継いで古川緑波(ロッパ)となり喜劇俳優、七男は増田家を継いで増田七郎となり書誌学者、おのおの違った分野で第一人者となった。こういう家系も珍しい。

加藤家の養子については、当初「加藤弘之の次男以下は養子に出す方針」と書いていましたが、佐藤様のご指摘により間違いを修正しました。申し訳ありませんでした。(2008.2.1)


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