司馬遼太郎作品に見る刀剣

 

刀は武士の魂と言われ、鎌倉から江戸に至る千年余にわたって主たる関心事でした。従って司馬遼太郎作品にも刀が非常に多く登場します。「虎徹」「菊一文字」等、刀が主役を務める作品もあります。

ここではそれらの刀のうち、著名人と関連づけられるものを刀の製作年代順に並べてみました。刀の記述は「刀剣」(保育社カラーブックス)「刀剣ハンドブック」(光芸出版)「備前刀」(山陽新聞社)「日本刀名工伝」(雄山閣)「新・日本名刀100選」(秋田書店)「日本刀辞典」(光芸出版)等を参考にしましたがいかんせん素人、間違いありましたらメールでどうぞお知らせください。

なお、なかには所持が疑わしいものもありますが、見出しとしては司馬作品の通りにして、中の説明でそのことは書いています。

文中出てくる「大業物」などの用語ですが、これは山田浅右衛門(首切り役人)が罪人の死体で試し斬りした結果を4つのランクに分けたものです。もっともよく斬れるものが最上大業物。長曽祢虎徹、肥前忠吉ら13工。次が大業物。堀川国広ら約100工。三番目が良業物で、野田繁慶ら約250工。四番目が業物です。(時代により若干変動あり。和泉守兼定(通称ノ定)は、はじめ大業物だったのが後で最上大業物にランクアップしています。もっとも全部の刀を試したわけではない。寛文から天保にかけて出版されたので、それ以降の刀(源清麿など)は当然対象外ですし、平安や鎌倉頃の刀ももったいなくて試さなかったようです。

文中で出る刀剣の価格は、「日本刀辞典」の相場をのせました。たぶん昭和48年の値段なので、今はもっと高いかと。


時代さくいん

 平安時代

 鎌倉時代

 南北朝〜室町前期

 室町後期〜桃山時代

 江戸時代前期

 江戸時代後期


平安時代

三条宗近(斉藤道三)

庄九郎は、そろりと剣をぬいた。妙覚寺の蔵から盗みだした身分には不相応な、三条小鍛冶宗近の二尺八寸。(「国盗り物語」

謡曲「小鍛冶」で広く名が知られた平安時代の名工。京の三条に住んでいたためこの名で呼ばれる。これほど有名でありながら系図や出身地がまるで分かっていない。なぜ「小」なのか、これも諸説紛々。藤原信西入道の小狐丸、静御前の薙刀等が有名。

鎌倉時代

青江恒次(斉藤道三)

「よいか、逃げる者は斬る」

ぎらりと、刀をぬいた。

庄九郎が、「日蓮上人護持の御太刀」と称している数珠丸恒次二尺七寸、常人にはあつかいかねるほどの長いものである。(国盗り物語)

備中青江派の名工。青江派は平安から室町の長期にわたって安次、守次、恒次等名工を輩出した。月代わりで天皇に仕える御番鍛冶を務めた。

それにしても道三、このとき乞食浪人のくせに名刀を何本持ってるんだ。だいたいこの恒次の数珠丸と、さきの宗近の三日月の太刀は、童子斬安綱(源頼光が酒呑童子を退治したやつですな)、鬼丸國綱、三池光世の大典太とならんで天下五剣と呼ばれた天下の大名刀である。うそつきにも程がある。

 

一文字則宗(沖田総司)

「では」

と、手にとって、一気に抜いた。眩むような光芒が、沖田の視野に湧きあがった。

二尺四寸二分。

細身で、腰反りが高い。刃文は一文字丁字とよばれる焼幅の広いもので、しかも乱れが八重桜の花びらを置きならべて露をふくませたようにうつくしい。(菊一文字)

備前には福岡一文字、吉岡一文字、片山一文字など地名を冠した多くの一文字派がある。一文字とは刀に、「一」とだけ銘を彫ったものがあるところから。則宗は福岡一文字の著名な名工で、御番鍛冶の筆頭を務めて後鳥羽上皇に愛され、特に菊の紋を許されたので菊一文字と言われる。しかし菊を彫った則宗の刀は実際にはないらしい。

これほどの名刀、沖田が持ってたはずは絶対にない。万が一でも持っていたら、近藤が書簡に絶対書くはずである。沖田と菊一文字を結びつけてこれほど有名にした人は、いったい誰なんでしょうね。

 

五郎正宗(石田三成)

ふと、自分の佩刀が、諸侯のあいだでも垂涎のまとのものであることを思いだし、それを執り、

「それがし今は退隠する身でありますれば、形見とも思うて受けとってくだされ」

と、秀康にすすめた。

秀康は、最初はおどろき、ついでよろこんだ。世にかくれもない名物で、五郎正宗二尺二寸二分の逸品である。(関ヶ原)

「正宗」といえば刀の代名詞となるほど有名なこの人も、系図や生年等詳しいことは分からない。捨て子だったとか諸国漫遊していたとか色々と言われている。そもそもこの人の刀、桃山時代まではたいした扱いを受けていない。すくなくとも当時のトップクラスには名を連ねていない。それが秀吉の時代になってその派手な外見が時代の好みに合い、一躍トップに躍り出たというところらしい。明治になっても、「正宗凡工論」と「正宗名工論」の論争が延々と続き、(廉直の士・谷干城将軍や、のちの首相・犬養木堂まで参加している)どちらかというと凡工論が優勢だったという。

追い打ちをかけるようだが、三成のこの刀、本物の可能性はとても低い。というのは、三成は佐和山城下に堀川国広をよび、正宗の偽物をさかんに作らせ、これを多くの大名に贈って味方につけようとしていたという話がある。対抗して家康も大量の偽正宗をばらまき、東西正宗合戦をくりひろげたという。ただでさえ偽物が多い正宗、三成、家康がらみの正宗はまず偽物と思った方がいい。もっとも、堀川国広なら大業物だし、正宗より良いかもね。(ちなみに現在の相場では正宗2000万円、国広1800万円)

 

来國俊(長曽我部盛親)

 源八に命じて灯を入れさせ、臥床の上にあぐらをかいて、長曽我部家伝来の来國俊の一刀をぬきはらった。薄暗い灯火の影で、刀身は異様な光芒をかがやかせた。

 土佐長岡の土豪から身を起こした父元親が、この一刀をひっさげて四国全土を平らげ、兄信親も、この剣をたずさえて九州へ出陣し、豊後戸次川の合戦で、むらがる島津勢の中に駆け入って、二十三歳の生涯をおわった。

 盛親は力なくそれを鞘におさめ、枕もとの刀架にかけた。今夜はおそらくねむれないだろうとおもった。(戦雲の夢)

ちょうど元寇の頃の山城の刀工。特に短刀を得意とし、粟田口吉光、新藤五国光とならんで三大短刀名手といわれた。もちろん短刀だけでなく、有名なのは阿蘇の蛍丸という1メートルを超える大太刀。南北朝合戦のおり、南朝の忠臣菊池武光がこの刀でさんざ闘った。さすがの名刀も無数の刃こぼれができたが、その夜、無数の蛍がその太刀にとまり、去った後は刃こぼれが全く消えていたという。

この夢幻的なエピソードでも分かるように、来國俊の銘が入った刀は細身ですらりとした美しさである。ところがほぼ同時代、國俊とだけ銘が入った刀も多く、こちらは頑丈で力強い姿なのである。これについては別人説と同一人物説があり、まだ確定していない。同一人物説をとるひとは、もともと細身の刀を作っていた来國俊が、弘安の元寇来襲をきっかけに、蒙古兵の頑丈な兜を割るだけの力強い刀を作るようになり、銘も國俊の二字に改めたのだという。

 

南北朝〜室町前期

何よりも、この時代の武士は弱かった。かれらが帯びている太刀も、室町期の鍛冶が打った太刀は、その前の時代やあとの時代の太刀にくべて、きわだってなまくらであった。(箱根の坂)

確かに、この時代の刀に粗製濫造のものは多い。しかし、後述する長船、関等の名刀も造られている。

この時代、刀の生産量が飛躍的にふえた。それまでは所領、幕府ないし朝廷の地位をもつ正規の武士が刀を持つだけだった。ところが、この時代、悪党、盗賊、足軽といった連中までが刀を持つようになった。彼らは正規の武士ではない。鎌倉末の乱世に乗じて群がりおこった。彼らの持つ刀は数打ち物とか束物といわれる粗製濫造の大量生産物である。これらの刀は、ほかにも日明貿易で中国に大量に輸出された。寸断され、溶かされて包丁やノミ、鍬などに作り直されたらしい。要するに鉄鉱石の代わりである。

昔からの製法で造られる注文生産の刀は、それに対し注文打と呼ばれた。こちらの刀の質は以前の時代に比べいささかも劣っていない。つまり、この時代は刀のできが悪くなった時代ではなく、生産量が飛躍的に増え、量産品と上級品にはっきりと二極分解した時代というべきである。

(粗製濫造刀が大量に造られた時代はこの後もう1回ある。軍人の軍刀が大量生産された昭和期である)

 

長谷部国重(織田信長→黒田家)

 官兵衛は、この点さびしかった。かれはさきに岐阜へ使いし、信長に拝謁したとき、信長にひどく気に入られて、太刀を一口もらった。

 信長が愛用していた太刀で、長谷部国重の作の二尺四寸一分である。

「圧切」

 という名がある。

 ひどく斬れのいい刀で、あるとき信長の下人が不届きなことをした。信長の性格の欠点である癇癖が、露骨に出た。これを手打ちにしようとして追った。しかし下人は部屋のすみの膳棚の下へもぐりこんで、横になり、出てこなくなった。そのままゆるすべきであった。

 が、信長の気象のすさまじさは、こういう命惜しみの行動を卑怯とみてさらに立腹するところにあった。かれは長谷部国重二尺四寸一分を抜き、膳棚の下に刀をさし入れ、下人の胴に当てた。信長は大して力を入れることができない。しかしそのまま刀を押しつけてわずかに力を加えただけで、刃は下人の胴に沈みこむようにして沈み、ついに胴を二つに切り放してしまった。以後、信長はこの刀を「圧切り」と名づけてもっとも愛用していたのである。(播磨灘物語)

 信長の恐ろしさと名刀の出来をよく物語るエピソードである。それにしてもじわじわ斬られた下人の心境は、一体どんなものだったろうか。

 南北朝の京の五条坊門に住んでいたと伝えられる。国重の銘は文和(1352)から貞治(1368)にかけての作があるが、無銘で時代も古く、出来がもっといいものがあるのでそちらを初代の作、有銘を二代目国重としている。「播磨灘物語」では信長から官兵衛(如水)に与えられたことになっているが、「新・日本名刀100選」では信長から秀吉、そして秀吉から官兵衛の子長政に与えたとなっている。確かにこの刀には「黒田筑前守」と彫ってある(官兵衛は筑前守になったことはない)が、親父からもらった刀に自分の名前を彫ったと考えることもできるし、どちらが正しいかよくわからない。

 

備前長船兼光(清河八郎)

研ぎ芳は一目みるなり、目をみはって、

「こ、これは古備前でございますな」

といった。

「初代兼光とお見受けしましたが、おそれながらこれほどのものは諸侯のお蔵にも少のうございます」

「浪人の差し料では分際にすぎるというのか」

「めっそうもない」

「口裏に気をつけるがいい」(奇妙なり八郎)

長船派は鎌倉時代から戦国時代ともっとも長く続いた流派である。鎌倉中期の光忠を祖として息子長光、孫景光、そして曾孫の兼光と受け継がれた。兼光は南北朝期を代表する鍛冶といわれ、上杉家の伝来の刀にもなっている。最上大業物に評価されてもいる。そりゃ、浪人の持ち物としては、分際に過ぎるわ。

 

室町後期〜桃山時代

和泉守兼定(土方歳三、桐野利秋)

みごとな砥ぎで、たれがみてもまぎれもない和泉守兼定であった。

刃文に点々と小豆粒ほどの小乱れがあり、地金が瞳を吸いこむように青く、柾目肌がはげしく粟だっている。

(斬れる。――) 

刀をもつ手が、慄えそうであった。(燃えよ剣)

発つとき、桐野利秋が、
「七之丞さァ」
 と、よびとめ、あなたの差料はなにか、ときいた。高城七之丞は出陣のとき、家に伝わっている「肥前守忠吉」を帯びてきた。その旨をいうと、桐野は以下の意味のことをいった。

 東京鎮台の兵は少々骨があるから、殿様好みの肥前守忠吉では心もとない。これを贈ろう。

 といって手渡したのが、和泉守兼定二尺八寸であった。この刀は桐野が幕末、中村半次郎と称していたころに使っていたもので、人斬りという異名をとっていただけによほど多くの人の血を吸ったものかと思える。

この時代刀といえば備前長船か美濃であった。ところが長船村は吉井川の氾濫で壊滅してしまう。そのため「関の刀鍛冶」が刀の代表として名高くなった。その関でも、この二代目和泉守兼定、通称之定(刀に署名を「之定」と彫ったのでこの名がある)は、「関の孫六」こと孫六兼元と並んでもっとも名高い。この二人をはじめとして、関の鍛冶には兼の付く名前が多い。

ところが土方の持っていた刀は、この和泉守兼定ではなく、同じ系譜ながらはるかに後代の会津の刀鍛冶(幕末の十一代兼定)だろうというのが定説になっている。十一代兼定も、銘を「之定」と切っているからだ。
 池田屋事変の功績をたたえ、会津候は感状、金子、そして近藤に三善長道の刀(これも虎徹と並んで最上大業物の逸品)を与えたが、このとき土方も兼定をもらったのではないだろうか。このときではないにしても会津と新撰組の関係から入手する機会はいくらでもある。司馬作品で刀の出所について、「盗んだ」「掘り出した」などと数奇なことが書いている場合は疑わしいことが多い。

 桐野の刀も同じ理由で、十一代兼定であろうと思われるが、こちらは「之定」とも言っていないので、初代か三代目(凡工で二代目に比べると格安)も含め、多くの可能性がある。しかしその場合、忠吉と交換したわけがわからない。肥前国忠吉(肥前守ではない。忠吉は肥前国在住で数代続いたが、肥前守をもらったことはない。武蔵大掾、近江大掾、陸奥大掾か近江守)は決して華奢な刀ではない。最上大業物であり、四代目忠吉などは「甲割」の異名をとったくらいの傑作である。これより優れた兼定となると、二代目ということになるが、ううむ……。

 

千子村正(田中河内介)

清河が手にとって透かすと、先反りで平肉がつかず、沸こそみごとだが妖気のたつほどに全体の感じがするどい。

「姿がすさまじすぎる。村正とみたのはひが目か」

「いやいや、ひが目やごわへん。村正どす」(奇妙なり八郎)

徳川に仇なす妖刀としてその名をとどろかせた村正。家康の祖父清康を殺したのも、息子信康を成敗したのも、村正の一刀でと伝えられる。

村正が五郎正宗の弟子という話も有名だが、これは否定されている。正宗は相模の人、村正は伊勢の人でまるっきり住んでいたところが違う。むしろ村正は、兼定(ノ定)など美濃鍛冶と親交があったらしい。実際には代々の鍛冶が村正を名乗っていたという説もあって、よくわからない。だいたい三代か四代に分けているようである。妖刀といわれたすざまじさは。最初の頃の村正らしい。後になるほど刃文のけわしさが抜けてくるそうだ。

 

江戸時代前期

長曽祢虎徹(近藤勇)

「おお」

奪うようにして近藤は受けとり、すらりと抜くと、鍔先二尺三寸五分。中背の近藤にはぴたりとあつらえたような寸法である。

反り浅く、肉厚く、刃文が大いにみだれ、いかにも朴強な感じがするなかに、骨を噛みそうな凄みがある。というより、その凄みを、外見の朴訥さで必死に押しつつんでいる景色は、どこか近藤という男に似かよっている。(虎徹)

「今宵の虎徹は血に飢えておる」で高名な虎徹を近藤がどのようにして手に入れたかについて、子母沢寛「新撰組始末記」では、「江戸で買い求めた説」「鴻池にもらった説」「斉藤一が掘り出した説」の三説をあげている。司馬先生はこれを全部あったことにして、虎徹が三本あったというトンデモ結論を出してしまいました。

虎轍は石田三成の佐和山城下に生まれ、幼少期に関ヶ原の落城で福井から金沢に逃げた。金沢では甲冑の名工として知られた。江戸に移って刀鍛冶に商売替えしたのは50歳近くのこと。はじめは古鉄と名乗った。兜や古釘など、古い鉄を溶かして刀に作っていたことからくる。(日本刀は新鉄より古鉄で作った方が丈夫で、よく斬れるらしい)刀の斬れ味も素晴らしいが、刀身に彫りこんだ彫刻も見事なことで有名。

 

陸奥守吉行(坂本龍馬)

「あ、それか」

竜馬はひったくるようにして、抜きはなってみた。

刀身は青く澄み、陸奥守吉行特有の丁字乱れの刃文が、豪壮に匂ってくる。

「二尺二寸」

普通、身長五尺二、三寸の武士の差し料に手ごろな寸法である。

「ちょうどいい」

竜馬は、振ってみた。竜馬ほどの大男なら、二尺三、四寸から、ときに二尺六寸の長剣でも十分にこなせるのだが、かれはどういうものか、短い刀を好んだ。好みにぴったりというわけだろう。(竜馬がゆく)

寛文(17世紀後半)頃の鍛冶。播磨守吉成の次男として奥州で生まれる。大阪で親子とも刀鍛冶を営み、のちにひとり土佐に移る。どちらかというと親の吉成のほうが若干評価が高い。(どちらも業物であるが評価額は吉成が500万円、吉行が350万円となっている。)

 

井上真改(薄田隼人正・・・ではないのだな)

「ご覧あれ。これが、岡崎五郎正宗でござる。おあらためくださるように」

抜いてみて、大蔵はあっと声をのんだ。大蔵は刀剣のめききを多少するが、この刀を一目みて、いままで見てきた凡百の刀の映像は、霞のように消えた。大蔵は、恐ろしいものを見たようにいそいでサヤにおさめ、

「凡愚の眼がつぶれそうな気が致しまする」(岩見重太郎の系図)

寛永ころの時代、大阪商人が経済力をつけ、文化の主導権は次第に江戸の武士から大阪商人に移りつつあった。刀剣も武士の実用品としての注文よりは、商人の愛玩具としての注文が増えた。そのため大阪鍛冶が栄え、鍔、拵えなども華美なものが多くなった。井上真改は「ソボロ助広」で有名な津田助広の二代目とならんでこの頃の大阪鍛冶の双璧とよばれ、「大阪正宗」といわれた。作風が似ているからで、別に偽物を造ったからじゃないよ。

 

江戸時代後期

水心子正秀(高杉晋作?)

 高杉は、自分の端唄を披露したり、品川女郎の品さだめを論じたり、愚にもつかぬはなしばかりをしていたが、急に、

「そうそう」

 と、思いだしたように蝋鞘の太刀をひきよせ、ゆるゆると鞘から離し、やがてぎらりと抜きはなった。

「宇野さん、ちかごろ刀を購めましてな。水心子だというのだが、ひとつ鑑定ねがえませんか」

「ああ、左様か。ちょっと拝見しよう」

 尊大な男なのである。ひと目見るなり、

「馬鹿な。これは水心子の門人で、遠州鍛冶一帯子三秀です。この大乱れをみればわかる」

 水心子正秀は寛延三年、出羽に生まれ、のち江戸に出た。各地をたずね名工の鍛錬法を研究し、津田助広(ソボロ助広)や井上真改(大阪正宗)を模した刀を作った。やがて、刀剣はすべからく鎌倉期の古刀に戻るべきだという復古新刀論を唱え、これが一世を風靡した。(もっとも、刀の出来自体は復古新刀論以前のほうがいいそうだ。理論化に夢中になると創作の出来が悪くなるのは、刀に限った話じゃない)

 全国から多くの門人が集まり、中でも優秀な門人に出羽の大慶直胤、下野の細川正義などがいる。三秀も弟子のひとりで、遠州横須賀に住み、一帯子三秀、のち国安と改名。評価は直胤、正義よりかなり劣る。

 

源清麿(近藤勇?)

「いや、若打ちでもありませんよ。まるっきりちがうものだ」

「なんだというのだ」

「拙者のみるところ、これはごく最近の鍛冶が打ったもので、源清麿ですな」

近藤所持の無銘の太刀が残っていて、明治時代に清麿と鑑定された。これが虎徹伝説の元という説がある。

清麿は信州赤岩で山浦家の次男として生まれた。のち源氏の末裔と言い張り、源を名乗る。江戸で刀鍛冶をはじめ、のち長州に移った。勤王運動との関わりがあるといわれるが、前金で頼まれた刀が打てずに夜逃げしたとの説もある。のちに江戸に戻るが、ペリー来航の翌年、自殺。原因は討幕運動に関わり捕まりそうになったからという説と、病気で満足な刀が打てなくなったのを苦に、という説がある。とにかく謎めいた行動の多い破滅型の人物で、そのためファンが多い。下手をすると今では虎徹より値段が高いかも知れない。(清麿も虎徹もどちらも、「日本刀辞典」によれば1800万円)

 


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