政変は誰のために

 明治6年に政変があった。
 参議兼陸軍大将・西郷隆盛、参議兼外務卿・副島種臣、参議兼司法卿・江藤新平、参議・板垣退助、参議・後藤象二郎という、当時の大臣クラスの過半数が辞職し、あわせて陸軍小将・桐野利秋、篠原国幹など西郷系の陸軍士官百余人、片岡謙吉、谷重喜など板垣系の陸軍士官数名、江藤系の司法大輔・福岡孝弟、司法大丞・島本仲道らが辞職した。
 代わって大久保利通、山県有朋、伊藤博文らが政府の実権を握った。のちの佐賀の乱、西南戦争、自由民権運動などの原因となった政変である。

 これを一般では「征韓論政変」と呼ぶ。例えば、私の手元にある「集英社版学習漫画・日本の歴史人物辞典」の西郷隆盛の項では、
「1873年、隆盛は朝鮮半島に兵をだすことを主張しました。しかし、ほとんどの人に反対されました。隆盛はおこって参議をやめ、鹿児島にかえりました。(征韓論)」
 と、ある。

 ところがこの文章にはいくつも誤りがある。
 第一にして最大の誤りは、西郷隆盛は「朝鮮半島に兵をだす」ことを主張したことなど全くなかったことである。
 当時、日本は開国したばかりであり、朝鮮はまだ鎖国を続けていた。日本は朝鮮に自国が開国したことを告げ、朝鮮も開国するよう勧めた(お節介な話だが)。これに朝鮮は反発した。日本の使節を追い返し、その後の日本政府の呼びかけにも応えようとしなかった。あまつさえ朝鮮在住の日本人に対し乱暴を加えもした。
 これへの対応として西郷は、大臣クラスの大物を朝鮮に特使として送り、事態の解決を図るべきだと主張したのである。そして、その特使にふさわしい人物は、維新第一位の元勲にして政府の第一人者、西郷隆盛しかいない、と主張したのだ。
 これに対し大久保、岩倉など反対派は、当時の朝鮮に西郷を送ればきっと殺される、そうすると日本の民衆は憤激し、朝鮮に兵を送らねばならない事態になるだろう、として反対したのだ。
 (ついでに言うと、反対派は右大臣岩倉具視、参議では大久保、大隈。多数決では負けているし、現に会議では西郷の主張が通っている。反対派が勝ったのは、岩倉が会議の結果を無視して自分の主張を天皇に奏上したことによる。だから、「ほとんどの人に反対され」も間違いである。)
 つまり、「朝鮮半島に兵をだす」というのは、反対派が西郷の意図を邪推してつくりあげた想像に過ぎないのだ。

 西郷の真意はどこにあったか。自分が殺されることによって戦争を引き起こすことが目的であったか。そう主張する研究者もいる。
 しかし西郷は、もともと外交は得意であった。
 薩摩とイギリスが戦った薩英戦争では、薩摩は戦艦の砲の威力に屈し、降伏した。しかし勝ったイギリスは、交渉に出てきた西郷に惚れ込み、かえって薩摩を援助する方針に切り替えた。薩長が幕府に勝った原因のひとつは、イギリスから豊富に輸入された最新式の武器弾薬であった。
 大政奉還ののち江戸城に謹慎するもと将軍慶喜を追って新政府軍が江戸に攻め入ったときも、西郷は単身江戸城に乗り込み、勝海舟との談判を成功させた。これによって江戸は戦闘を行うことなく開城された。
 西郷は、朝鮮でも江戸城開城方式をやりたかったのではないだろうか。虎穴に入って虎児を得るのは、西郷の得意技である。

 さて、明治6年の政変は、本当に朝鮮特使派遣をめぐる、西郷と大久保の戦いだったのだろうか?
 そう考えると辻褄の合わぬところがある。
 西郷は政争に敗れて参議は辞職したが、陸軍大将、近衛都督はそのままであった。西郷を無力化するのが目的なら、軍のトップの位を奪うのが最初ではないだろうか。現に、西南戦争の時、西郷陸軍大将の名前で各地に募兵し、それに応じた県も多かった。あわてた政府は、ここでやっと西郷の陸軍大将を剥奪した。手抜かりではあるまいか。

 もうひとつ。西郷はじめ4参議が辞職し、政府は片肺状態になった。これを埋めるために新たに参議に登用したのは以下の人物である。
 左大臣・島津久光。参議兼海軍卿・勝海舟。参議兼工部卿・伊藤博文。参議兼陸軍卿・山県有朋。参議兼外務卿・寺島宗則。参議兼開拓使長官・黒田清隆。参議兼左院議長・伊地知正治。
 薩摩人が島津、寺島、黒田、伊地知と4人いるのは西郷への押さえであろう。島津はもと薩摩藩の元首(大名ではなかった)であり、黒田、伊地知は西郷と親しかった。
 勝は下野した不満分子が元幕臣と連合して事を起こさないようにするための、まあ人質である。

 問題は若くして抜擢された長州の伊藤と山県、特に山県有朋である。山県は、かつて前参議の江藤新平に危うく失脚させられようとしたことがあった。
 明治5年、山城屋和助という政商が陸軍省のなかで割腹自殺した。彼は長州人で、かつて山県の奇兵隊に参加していた。維新後商人となり、陸軍の御用商人となって一手に軍需品の納入を引き受け、たちまち財をなした。
 それとともに、山県はじめ長州の陸軍士官たちは山城屋にタカリ始めた。店に行っては金を借り受け(もちろん返す気など無い)その金で酒を飲む。その金は山城屋の財が傾くほどであったという。
 江藤新平率いる司法省は、陸軍省のこの汚職に気づいた。捜査は進み、トップの山県まで危うい情勢となった。山県は帳簿を取り繕うため、山城屋へ陸軍が貸し付けていた公金を返済するよう強要した。しかし山城屋はそのとき、生糸相場の失敗で金がまるでなかった。窮した和助は自殺した。陸軍省を場所に選んだのは、トカゲの尻尾切りを計った山県へのあてつけである。

 他にも江藤の司法省により汚職を追及された長州人は多い。
 大蔵大輔(卿の次官)井上馨は、旧南部藩の商人村井茂兵衛から、尾去沢銅山を詐欺すれすれの手口で強奪した。そして奪った銅山を長州出身で井上の友人の岡田平蔵に格安で売った。しかも井上は、岡田と銅山を共同経営までしている。これを汚職と言わずして何と言おうか。
 司法省はこれを捜査し、井上の逮捕を請求するまでにこぎつけた。しかし長州閥の大将、木戸孝允がもみ消し、井上は辞職しただけで済んだ。
 京都の豪商、小野組は京都から東京への移転願いを出した。一説によると京都府からの度重なる献金要求に堪りかねたためという。京都府参事(副知事)の長州人、槇村正直はこれを許さず、小野組を白州に呼び出し、移転願いを引っ込めるよう強要した。これは明らかな職権乱用である。小野組の訴えを聞いた京都の裁判所長北畠治房は、当然移転を許すよう槇村に命じた。ところが槇村はこれを無視し、さらに裁判所からの再三の召還も無視した。ついに京都裁判所は、京都府参事槇村正直、知事長谷信篤を捕縛し、拘留した。

 こんな度重なる事件で、司法卿江藤新平に対する長州閥汚職大官の逆恨みは、深く大きいものとなっていったのである。

 明治6年の政変は、彼ら長州の汚職者に最大の利益をもたらした。さきに書いたように、山県は陸軍卿に返り咲いた。井上馨も大蔵省に復帰した。槇村正直も拘留を解かれ、木戸の尽力で事件はもみ消された。そもそも裁判所長の北畠治房が江藤とともに辞職していたのだから、もみ消すのに造作はなかった。

 明治6年の政変が江藤新平を失脚させるために仕組まれたものだとしても、江藤は大久保と対立したために失脚したのだ、という説もある。
 江藤はフランス民法を翻訳して日本に広めるのに力を尽くした。フランスの法律は「自由、平等、博愛」のフランス革命の精神を汲んだ、当時世界で最もリベラルと言っていい法律である。江藤も盛んに民権を主張した。「役人に不正行為があれば裁判所に訴えよ」や「政府の情報を公開して民意を問え」「民選議員をおき、それを立法府として太政官の行政、司法省の司法と3権分立を図れ」などの彼の主張からも明らかである。
 それに対し大久保は国権主義者であった。民選議会に反対はしなかったものの、民衆を教化して明治30年以降に開くのが妥当だと思っていた。むしろ太政官にすべての権力を集め、専制政治を行った。反対派をすべて弾圧した。そのため大久保に反対する勢力は、暗殺という手段に訴えるしかなかった。大久保の暗殺は、大久保が自ら招いた運命であった。
 このように江藤と大久保の主張は真っ向から対立する。日本の設計図は江藤が書くか、大久保が書くか。この争いに江藤は負けたのだと主張するのだ。

 この説にもおかしな点がある。江藤が民権を主張したのは明治6年の話ではない。すでに明治元年に「情報を公開せよ」と言い、明治3年には「議会を開け」と言っているのだ。大久保は当然それは読んでいるはずだ。
 江藤が司法卿として民法を作っていったのも、大久保がそれを許したからできたことである。
 明治の初年、大久保は維新の元勲であり、江藤はほぼ無名の存在であった。大久保が江藤の主張を忌避し、江藤の登用を妨げることは、簡単なことだった。逆に大久保は江藤に司法省を任せ、江藤に充分に力を揮わせたのである。むしろ江藤に反発し、遠ざけようとしたのは、先に出た長州の木戸孝允である。

 明治6年の政変は、江藤新平率いる司法省と、長州の汚職官吏との抗争であった。そして汚職官吏が勝ち、明治は暗い色に覆われてゆくのであった。

参考文献:明治6年政変(毛利敏彦・中公新書)
江藤新平(同上)
山県有朋(岡義武・岩波新書)
司法卿江藤新平(左木隆三・文春文庫)
歳月(司馬遼太郎・講談社文庫)
学習漫画・日本の歴史人物辞典(集英社)
自由党史(板垣退助監修・岩波文庫)


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