政治家になれる官僚、なれない官僚

 今でこそ絶えてしまったが、ひとむかし前までは「吉田学校」という系譜が絶大な権力を誇っていた。吉田茂総理大臣がまわりの古株たちを信用せず、若手を教育して自分の手勢にしようという企みから始まったこの学校、池田勇人、佐藤栄作、田中角栄、福田赳夫、大平正芳など歴代の総理を輩出し、一時は向かうところ敵なしの勢いだった。

 この吉田学校人脈の多くが官僚出身者だったことはよく知られている。明治の国会開設以来、政治家は大きく官僚出身、党人出身に別れて抗争を繰り返してきた。
 官僚出身者はその名の通り、役人がそのまま政治家になるもの。戦前なら元老や総理の指名でひょいっと大臣に任命された。戦後は局長、次官クラスを説得し、退官、立候補させる。この場合選挙資金や票集めは党が責任を持つらしい。昔は社会党から立候補した鈴木善幸(はじめは社会党議員だった)もいたが、自民党一党支配になってから自民党の独壇場となっていた。自由党や民主党が官僚を集めているかどうかは知らない。
 党人出身者は自由民権運動に源を遡る。自分で資金を持ち出し、政府の迫害にもめげず、在野で国会開設運動を行っていた運動家たち。その一部は国会開設後、政友会や憲政党などの党組織に入り、官僚出身者と勢力を争った。また一部は地方で政治ゴロ化し、地域の利権や暴力団と密接な繋がりを持った。また一部は右翼団体化した。親の地盤を子が受け継ぐ、いわゆる二世政治家が多いのも特徴である。
 戦前はこれにもうひとつ、軍人出身という官僚の一変形があったのだが、戦後はその潮流が絶えた。

 この二大潮流の争いは、吉田学校全盛時は官僚が圧倒していたのだが、今では党人に逆転され、全盛時の勢いは見る影もない。
 ちなみに戦後の歴代総理を色分けしてみよう。東久邇は皇族なので除外するとして、幣原喜重郎は戦前に外交官を勤めた官僚。その後の吉田茂も外交官僚である。次の鳩山一郎は父和夫の地盤を継いだ党人。石橋湛山は党人でも官僚でもない、ジャーナリスト出身。
 岸信介以降は二十年近い官僚の全盛時代。岸は戦前の内務官僚。池田勇人と佐藤栄作は大蔵省出身の官僚。
 佐藤の次の田中角栄でようやく党人が総理に復帰する。次の三木武夫も戦前に軍部と戦った筋金入りの党人である。
 しかし次の福田赳夫と大平正芳は大蔵官僚。しかしここで吉田学校人脈は種切れとなる。大平急逝で後を継いだ鈴木善幸は地元漁協出身の党人。中曽根康弘も党人。竹下登、宇野宗佑、海部俊樹とみな党人である。
 宮沢喜一でやっと官僚が総理に復帰するが、そこで自民党一党支配体制は崩れてしまう。連立政権の細川は殿様地盤で知事経験者の党人、羽田孜も二世政治家の党人である。社会党の村山富市は党組織出身の党人なのは当然としても、政権に復帰した自民党の橋本龍太郎は父竜伍の後を継いだ二世党人、現総理の小渕恵三も早大雄弁会出身の党人政治家である。

 現在の自民党実力者を見ても、梶山静六、河野洋平、小泉純一郎、森喜朗、野中広務、山崎拓と党人が圧倒的に多い。官僚は外務省出身の加藤紘一、警察庁出身の亀井静香くらいだ。他党を見ても自由党の小沢一郎は日大大学院から立候補した党人、鳩山由起夫は一郎の孫の四世になる党人、管直人は市民運動から政界入りした新型の党人である。

 さて、なぜ官僚はこんなにも勢力を失墜してしまったのか? ひょっとして官僚は、根本的に政治家に向いていない部分があるのか?
 答えは条件付きでイエスだと思う。
 そんなことはない、吉田茂を見よ、池田勇人を見よ、あんなに政治家として成功したではないか。そんな官僚が政治家に不向きなんてとんでもない、と反論されるかもしれない。しかし、彼らの存在こそが、官僚が政治家に向いていないことの証拠となるのだ。

 吉田茂は官僚としては成功しなかった。維新の元勲、大久保利通の孫、宮内大臣牧野伸顕の婿養子となりながら、外務省では主流を歩けなかった。中国の駐在が多かった。そのうち軍部と協力して対中強硬を唱えるようになると、ますます上司から睨まれ、スウェーデンに飛ばされたりした。対中強硬策もそうだが、彼の人を人とも思わぬ独善的態度、相手が誰でも思ったことを言う姿勢が「生意気な野郎だ」という上司の心証を作ったことは間違いない。

 池田勇人も官僚としては不遇だった。大蔵省に入ってしばらくして、象皮病という奇病に罹った。休職して療養生活を送るうち、同輩や後輩がどんどん先に昇進してゆく。官僚の場合、いちど抜かれたら抜き返すのは困難である。すっかりやる気を失ったところで、渡りに船のように立候補の誘いが吉田からあった。池田はこれに飛びついた。また、もともと池田は義理人情の党人的体質が強かった。自民党に入党後も先輩の党人大野伴睦に可愛がられたし(佐藤栄作はこの逆で、大野に徹底的に嫌われた)、政権を取ってからも大野、河野一郎といった党人を重用した。

 大平正芳もどちらかというと官僚的というイメージから遠い。苦学して一橋大学まで通ったのだが、身なりを構わず、子供時代は食べカスや鼻汁が顔中にこびりついていたという。長じて大蔵省に入り、宮沢喜一とともに池田勇人の秘書官を勤めたが、「事務的なことはいっさい宮沢君に任せた」と本人が書いている。宮沢喜一は秘書官としては極めて有能で、英文書類を和訳しては池田に重要な部分をブリーフィングしたり、池田の荷物をまとめたり、ホテルと交渉したり、すべてやってのけたという。

 そんな宮沢が総理としては無能と言うほかないのはなぜか。酒乱のせいもあるが、やはり宮沢は官僚でありすぎた。官僚のひとつの習性として、上意下達がある。すべて上司の指示で行動し、自分の意志での行動ができない。宮沢も早くから総理候補として頭角を現しながらも、みずから闘って政権をもぎ取るという姿勢を見せず、そのため中曽根や竹下、海部といった後輩に先を越された。ようやく金丸の指示で総理の座に着いたときには、自民党政権はすっかり腐りきっていて、手腕を発揮する術もなかった。また個人としては土地公有など面白いビジョンを持っていながら、それを実行するためには何の努力もしなかった。すべて、「私の能力を求められたらやります」というスタンスだった。総理時代もこれで通し、口癖は、「私には関係ありませんが」だった。
 福田赳夫もこの癖があり、かれは佐藤栄作の禅譲を信じすぎた。総理の佐藤が後継は福田、といえば、自民党で文句を言う人間はいないと確信していたのである。官僚なら上司の人事権が絶対なのだろうが、政界はそうではない。党人の田中角栄がめきめき力をつけ、総裁選投票に持ち込んで福田を圧倒した。佐藤の思し召しなど役に立たなかった。福田が総理になるのは結局、田中、三木の党人総理のあと、ようやく闘う姿勢を見せた「三木おろし」の闘争の後である。

 「手続きや形式にこだわり過ぎる」というのも官僚の習性である。これですっかり男を下げたのが重光葵。外務官僚から政治家に進み、鳩山内閣の外務大臣だった彼だが、ソビエトのドムニツキイが持ってきた書簡を、「ソビエトとは国交断絶している。それにこの書簡は外交慣例上極めて異例で、受け取るわけにいかない」と突き返した。ドムニツキイはこれを次に鳩山首相に直接持参し、これが鳩山、河野の党人コンビによる日ソ国交回復に繋がっている。面目を潰された重光はこれで政治家生命を絶たれた。

 官僚組織という世間から遮断された世界で生活していたため、異質な人間との接触がない。そのため、暴力的な人間、傍若無人な野人、といった人種の押しにすぐ屈するのも官僚の通弊である。広田弘毅は戦前に外交官から外務大臣、総理大臣にまで登りつめた人間で、識見はあったようだが、どだい二・二六事件後の騒然たる社会を率いる度胸がなかった。軍部がクーデターやテロをちらつかせて恫喝するとすぐ屈し、陸海軍大臣の現役制、日独伊防共協定など、のちに戦争になっていく口火となる政策をすべて受け入れた。悪人ではないが無能であり、戦争裁判で死刑になるのもやむなし、といったところである。

 こうしてみると政治家として失敗した官僚は、すべて官僚の世界に適応しすぎた。つまり役人臭さが身に付きすぎた人間であるということがわかる。
 その逆に成功したのは、もともと官僚に向いていなかった性格の持ち主、または転身にあたって役人臭さを脱ぎ捨て、政治家としての性質を身につけた人間である。
 政治の世界は、役人がそのまま政治家になれるほど甘い世界ではない。


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