女嫌いの世界史

 かつて、世界史には数多くの女性が登場した。しかし、彼女たちが政治の場で権勢を振るった場合は、恩恵よりは害毒を多く世に流した。

 遙かなる古代オリエントにはセミラミスという女王がいたと伝えられるが、具体的な人物像は伝えられていない。やはり女性主権者の歴史は、漢の呂后から始めるのが妥当だろう。
 楚の項羽との長い闘いに勝ち、中国を統一した劉邦は、漢の初代皇帝となった。その夫人が呂后である。
 彼女は劉邦が沛の町をうろつく愚連隊のような存在だった時代から夫を支えた、いわば糟糠の妻である。劉邦が天下を取るまではおとなしかったのだが、天下の皇帝夫人となってから、化けの皮が剥がれてきたようだ。それも劉邦が生きているうちは抑える者もあったのだが、劉邦の死後はやりたい放題の悪逆を尽くした。
 まず彼女がやったのは親族贔屓である。もともと呂一族は富豪で有力者で、貧農出身の劉邦の一族とは比べものにならない。朝廷の主要はすべて呂一族で独占し、劉邦の腹心だった曹参や陳平ですら、これをどうすることもできなかった。
 同時に行ったのが、他有力氏族の弾圧である。
 漢楚の闘いで劉邦を支えた韓信、鯨布、彭越らは領地をもらって王に封ぜられた。呂后は彼らを挑発し、反乱を起こさせ、ことごとく潰していった。
 宮中に於いても同じであった。特に、故劉邦に寵愛された第2夫人以下については容赦がなかった。
 威夫人という、特に劉邦に愛された女性に対しては、その手足を切断し、自殺できないように舌を切り、便所に放り込んで人糞を喰わせた。これを「人間豚」と称して見せ物にしたという。ちょっと男性には考えつかない残忍さである。
 呂后の考えは、呂一族に対抗するような勢力を潰し、呂一族の漢にすることだった。そのため他氏族を潰して廻ったのだが、これが奇妙な形で漢に幸いした。呂后の死後、陳平らの尽力で呂一族は滅亡したのだが、たったひとつ残った有力氏族が無くなったことで、漢の王室の独裁体制が整ったのである。
 漢の武帝の輝かしい偉業は、この独裁体制の整備無くしては語れないのではあるが、これが呂后の目的ではなかったことは、言うまでもない。女の浅知恵は、つねに裏切られる。

 呂后より百年余のち、西に女王が現れる。
 クレオパトラはプトレマイオス王家の女王である。
 プトレマイオス家は、生粋のエジプト人ではない。マケドニアのアレクサンダー大王が征服したエジプトを、大王の死後、部下のプトレマイオスが拝領したのである。
 したがってプトレマイオス王家はエジプト民衆に根付いていない。
 こうした征服王朝の女王は、だいたいにおいて民衆のことなどまるで考えない。貴族意識が強すぎて、民衆を目の前の塵芥としか感じられなくなるのだ。この点、はるか後代の清の西太后と同じである。
 また女性の通弊として、クレオパトラには自主的な外交理念というものはなかった。
 つねに強大なローマの主権者と結び、そのパートナーとして行動した。
 この点は、20世紀イギリスのサッチャー首相が、常にアメリカのレーガン政権に追随して行動し、その後のイギリスを経済的・政治的にアメリカの属国化してしまったことに酷似している。
 クレオパトラはもっと露骨で、昨日はカエサル、今日はアントニヌスと、政治的(兼閨房的)パートナーをころころ変えすぎ、しまいにはローマの主権争いに巻き込まれて自滅した。
 結局クレオパトラは、内政では無策、外交では女性特有の近視眼的外交で、エジプトを亡国に導いた。まさにエジプトの滅亡は、女性の欠点によりもたらされたものと言えよう。

 クレオパトラを滅ぼしたローマも、女性による弊害に悩むことになった。
 かつては大カトーが
「女が法的に男と同等の立場に立つなら、女はきっと男を征服するようになる」
 と警鐘を発し、賢明なローマの政治家は女性を政治の場に登らせないよう注意を払っていた。
 しかしローマの政治ものち腐敗し、登場したのがネロ皇帝の母、アグリッピナである。
 女によくいるパターンだが、彼女には息子しか見えていなかった。息子を皇帝にするためなら、どんな卑劣無惨な行動でも辞さなかった。
 まず彼女は、息子のネロを連れ、30歳年上のクラウディウス皇帝に嫁いだ。クラウディウスはそのとき60歳。そろそろ老衰が始まっていた。愛情から結婚したのでないことは間違いない。
 次に夫が老衰死することが待てず、毒茸を食わせて毒殺を図った。それが失敗するや、医師に言い含めて、毒を塗った羽根箒を喉に押し込み、殺した。
 こうしてネロが皇帝位につき、めでたしめでたしと思われたが、アグリッピナの不満に限りはなかった。
 ネロが近衛隊長ブルスと哲人セネカを側近に置き、自分に相談もなしに政治を進めていくことが気に入らなかったのだ。
 過保護の母親で、息子がずっと自分の手元で自分の言いなりに生きることを望み、息子がそれに反抗しようとするとヒステリックに泣き叫ぶ、まことに困った女がいる。アグリッピナがそれだった。息子離れできない母親の通弊で、息子が自分から独立することが許せなかったのである。
 アグリッピナはセネカ、ブルスと息子との仲を裂こうとして、さまざまな卑劣な陰謀をめぐらした。そのうちネロを廃してブリタニクスを皇帝にしようとする陰謀が漏れ、アグリッピナは息子ネロに殺される。
 しかし、母を殺したネロも安泰ではなかった。母子の争いのうちにブルスは死に、セネカとは疎遠になった。そのころ結婚したポッパエアは母親に生き写しの悪女だった。母親の教育に問題があったとしか考えられない。それからのネロはご存じの通り狂気と暴虐の道を一直線に進んでゆく。

 ローマも滅びて久しい頃、中国にふたたび女性の惨禍がおこる。
 唐の則天武后である。
 唐の王室はもともと破廉恥である。太宗、李世民は兄を殺し、父を脅迫して皇帝の位に就いた。
 その息子高宗は、父親の妾だった女性が、父の死後尼となっているのを見つけ、後宮に入れた。要するに親子丼である。このような鬼畜の行為をあえてする高宗もどうかと思うが、素直に親子2代の妾になる女もどうかと思う。これが武氏、のちの則天武后である。
 武氏はそれまでの正妻王氏にかわって高宗の正妻になると、まず王氏を殺し、その一族を滅ぼした。競争相手の夫人達も相次いで殺していった。有力な大臣も殺した。高宗の息子達も殺した。もちろん、自分と血のつながっていない息子である。
 アグリッピナと同じく、武氏も自分の息子を皇帝にするためにこれだけの虐殺を行ってきたのだが、これまたアグリッピナと同じく、自立する息子を許せなかった。子離れしない母親の身勝手である。
 自分の息子李哲をめでたく高宗のつぎの皇帝、中宗にしたのだが、これが武氏に従わないので殺し、その実弟を次の皇帝叡宗にした。これも武氏に反抗するようになったので廃し、ついにはみずから則天武后と名乗って即位し、国名も周と改めた。中国史上、女性が皇帝になったのは空前絶後である。
 則天武后の周は、意外と平穏だった。というのは武后の残虐は、宮中に限られ、その外まで影響が及ぶことはなかったのである。
 女性の政治家は、だいたいにおいて政策的には保守派である。いや、保守というより、無策である。何も考えちゃいない。さらに、目が遠くへ届かない。目先の政争に囚われ、狭い世界でコップの中の争いをすることに没頭する。女性はだいたいそんなものである。
 則天武后の時代は、それでうまくいった。唐の社会は平穏で、下手にいじらず、放っておかれたことで成功したのである。
 ただし激動の時代には無策は致命的である。前述したクレオパトラ、後に登場する清の西太后は、激動の時代に女性の無策で国を滅ぼした典型的な例である。

 近代に入って、ヨーロッパ各国で女王が誕生した。
 イングランド女王メアリは、カトリックを奉じてプロテスタントを弾圧した。総じて女性と正義が結びつくとろくなことはない。正義に燃えるメアリはプロテスタントを虐殺し、「血塗れのメアリ」と渾名され、これは「ブラディーマリー」というカクテルに名を残した。
 メアリの次の女王、エリザベス一世は50年ほど後に登場するスウェーデンの女王クリスチネと同じく、「女を捨てた」女王である。どちらも生涯結婚はしなかった。しかし、捨てたのはここまで。エリザベスは政敵メリー・スチュアートを女性特有の陰湿さでいたぶり、最後は獄死させた。クリスチネは年老いたデカルトを招聘し、早朝に暖房もない冷え切った部屋で講義させ、風邪をひかせ、殺してしまった。頑健な自分しか見えておらず、他人のことが見えていない女性特有の自己中心的態度である。クリスチネはその後も自分勝手に退位し、自分勝手にカトリックに改宗し、生涯を自分勝手に生きた。

 これに懲りてヨーロッパ先進地域では女性に権力を持たせないようになったころ、後進地域のロシアで権力を握ったのがエカテリーナ二世である。
 彼女は夫のピョートル三世を殺して皇帝になった。女性にしては珍しく、主義主張を持って内政に当たった。ヨーロッパ先進地域に学ぶ開明化の方針である。ヴォルテールやディドロなど文化人と親しく文通し、ロシアにアカデミーを設立し、劇場を作り、人民を啓蒙しようとした。
 しかし、フランス革命が起こるとそれまでの開明姿勢を一変し、王殺しのフランス人を呪い、フランスの書物の輸入を禁止した。所詮、付け焼き刃に過ぎなかった。
 エリザベスやクリスチナと正反対に、エカテリーナは女性であることを享楽した。ポチョムキンをはじめとして、若くて逞しい廷臣に伽を申しつけ、愛人として誰憚ることはなかった。
 エカテリーナの孫であるアレクサンドル一世などは、自分より若い祖母の愛人と親しく会話を交わさねばならず、あまつさえその愛人が自分の妻に言い寄るのを止めることも出来ず、非常な苦痛を味わった。祖母から加えられたこの精神的虐待がアレクサンドルの性格を形づくり、同時代の政治家から、「スフィンクスのようで、何を考えているかわからない」と言われるまでになった。
 
 近代の最後を飾る女性政治家が清の西太后である。
 彼女はそれまでの女性政治家の通弊のエッセンスのような人物である。
 まず、広い視野で物事を見ることができなかった。特に、民衆が見えていなかった。宮廷内部での権力争いに終始し、中国が外国勢力に蚕食され、ぼろぼろになっている現状に気づきもしなかった。
 阿諛追従するおべっか使いばかりを登用した。中国の現状を憂えた光緒帝が康有為ら革新官僚を登用し、改革を行おうとしたが、これを潰した。女性は、つねに現状肯定派であり保守派である。李鴻章、汀汝昌ら硬骨漢の政治家を遠ざけ、その活動をむしろ妨害した。
 そして方針無き政治姿勢。とりあえず目先の勢力に乗る無定見。義和団が乱を起こすとそれに乗り、大恥をかいた。
 清は西太后の死の3年後、宣統帝溥儀のとき滅びたのであるが、滅びの元はすべて西太后が作った。

 現代の政治家で特筆すべき女性は、インドのインディラ・ガンジー、イギリスのサッチャーであろう。
 インディラ・ガンジーはインド建国の父、ネルーの実の娘として、ネルーの跡を継ぎ、国民会議派を率いて1966年に政権を取った。彼女によってネルーの理想はねじ曲げられ、国民会議派は変質した。
 インディラが作ったのは彼女に始まるネルー王朝である。息子ラジブとサンジャイ、その子のソニアなど、国民会議派を自分の血族で固め、ネルーの腹心達を追放した。
 その後も保身のため国家非常事態宣言を行い、その名の下に政敵を逮捕、野党を弾圧し、あまりの人権侵害に民心は国民会議派を離れた。
 相も変わらぬ女性通弊の身内贔屓、近視眼的政治である。ヒンズー至上主義を掲げるインド人民党が政権を奪えたのは、彼女のおかげと言う他はない。
 サッチャーは1979年にイギリス首相となった。強いリーダーシップを誇示して「サッチャリズム」という内政改革を行い、大量の首切りを行ったが、失業者が増えただけだった。経済界が見えておらず、闇雲に合理化を進めたため、かえってアメリカ資本がイギリスを乗っ取るきっかけを作った。
 外交においては、「強いリーダーシップ」が、単に強い奴の尻馬に乗って騒ぐだけのことだと暴露するに終わった。結局、自分の考えというものを持たず、アメリカのレーガン政権に判断を委ね、すべてレーガン様ごもっともの路線を、日本の中曽根首相と共に突き進んだ。
 結局サッチャーによって、イギリスは政治的経済的に、アメリカの属国となっただけの結果に終わった。ブレア政権になっても独自の外交姿勢というものが持てないでいることは、1998年のクリントン政権によるイラク空爆を支持した国が、日本とイギリスのたった2カ国だけだったという事実が示している。

 女性政治家の列伝を眺めると、改めて感じるのは、「女だな」という長嘆息である。
 今後、女性の主権者が誕生するであろうか。
 アメリカで史上初の女性大統領が誕生したとき、それが人類の終わりなのかもしれない。
 アメリカが滅亡するくらいで済んでくれればよいが。


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