故に、"SenseOff" をプレイするつもりがあって、それを最大限に楽しむつもりであって、 かつまだ complete していない場合は絶対に以下を読んではいけません。
「ぐぉ、そうくるかっ」
H シーンを通過しなければならないのは確かなようだが、べつにキーになっているわけではないと。 美凪や成瀬方面への (たぶん偽の)分岐のいくつかを save してあったので順繰りに遡りながら チェックするも、いま辿ったコースが正当 (もっとも長いあいだ bad end に終らずにすむ) かつ 素直 (目的を達成するのに正直な行動; 裏のない) なルートに見える ... とすると、ゲーム制作者の思想の手がかりがほとんどない一周目では椎子 good end 到達は無理だろう。
この周回では good end にこそたどり着けなかったが、面白い発見があった。 それは bad end ルートに関して制作者の姿勢にあまり余裕がないことだ。
ルートが正当であるかぎり、脇道に逸れることができない。 逸れたその瞬間に (十数パラグラフ以内に) bad end (スタッフロールなし) に突入する。
分岐数に応じて文章量が指数爆発するはずのノベルゲームだが、 SenseOff は正当なルート以外の文章量はゼロに近い。分岐数の 1 次のオーダーだろう。
埴島珠季は念動力、真壁椎子は治癒能力。 のこるメンバーのうち成瀬か美凪が精神感応能力? 主人公が未来視(ラプラスの悪魔?)とすると御陵透子とぶつかりそうだが。 香月彰人については能力の影もないので不明。
「予知」に関しては、予想の範囲にあった。もちろん椎子シナリオの bad end 突入の直後ということで、 その「裏」以外になったりした日には卓袱台ひっくりかえしモードであったことも事実だが。 なので、「まさか椎子 bad end にみえたものが実は true end なんじゃあるまいな ...?」 とおののいたものだ。 スタッフロールが流れ、ED のところに歌だれそれというのが出ていて、 まさに流れている曲に歌がついてない、つまり今ながれているのは ED ではない(少なくとも真の ED ではない) というのを確認するまで、この思いは続いた。
ま、その直後に ED が来て、 「ああこれが true end なんだな (しつこいよーだが good end とは言いたくない)」 ということで、ようやくゲームのフォーマットが分かったのだった。
この周回での知見として、シナリオ上のバグに関するものがある。
SenseOff のシナリオ(文章)はかなりバギーである ... つまり、 その内容が、別ルートを辿った時にのみ意味をもつような、 現在のルートでは正しい表現はすこし異なったものになるはずの、 そういうテキストのマージにともなう歪みがある。
異なる二つの経路からのシーンをひとつのテキストにマージする場合、 どちらの経路が優先されるべきだろうか? SenseOff ではごく当然のように 「より正しい経路」を優先している。逆に言えば、 テキストに歪みを感じた場合、いま辿っているルートは正しいものではない。
織永成瀬は未来視だった。ほぼ自動的に美凪が精神感応能力者ということになる。 と同時に美凪の性格からみてシナリオの内容も分かる。 御陵透子、香月彰人については依然不明。
成瀬シナリオをクリアした時点で思ったことだが、主人公・杜浦直弥の 性格、気質的にもっとも合いそうなのは美凪だろうな ... 椎子では直弥の負担が大きそうだし、 成瀬では成瀬の負担(ストレス)が冗談にならなさそうだ。 会話の流れに集中できない直弥との付き合いにほとんどストレスを感じないという奇跡のよーな 精神構造の持ち主ではなかろーか。
予想通り三條美凪は精神感応能力。主人公は ── 単純な未来/過去視という訳ではないらしい。 運命改変能力なんてありか ...? てゆーか便利すぎ。 香月彰人については依然不明。御陵透子だが、... 想像は付くが名前無いですな、そんな能力。
椎子、珠季、成瀬の能力は皆に知られてるよーだが、美凪の能力もなのか?
心を隠蔽する術をもってるのは直弥(, 透子)だけのようだが、よく平気な顔できるな。
そもそも料理のこととか、ごまかしがきくとは思ってはいけないのでは。
3 周目(クリアしたのは成瀬一人だけだが ...)ともなると、
ゲーム世界の世界観やそれぞれの人物設定の歪みが気になりだす。
この美凪の料理のことがその最初のものだ。
ところで、このあたりから気になりだしたことが一つ。 ... なんでみんな着たきりスズメなん? (透子シナリオまで行ったら実は意味があったらしいと分かったが、他のシナリオじゃ問題がないか?)
それともう一つ。この時点でいちばん可愛かった(萌えた)のは埴島珠季だ。 美凪シナリオの都合上とはいえ、 成瀬シナリオにはあった珠季との口喧嘩 → 成瀬や美凪が割って入る、 てのが少なくなってあっさり珠季がため息ついてあきらめるケースが多かった。 ... えらい寂しかったぞ、おい。
成瀬シナリオもいいかげん 3 流とれんでぃどらまだったが、これまたなんつーか ... 少女漫画っつうかなんというか。 それにしては珠季の変容ぶりが異常か。 ここまで極端にしなくても物語は紡げたではなかろーか。 ふだん腰に手ぇあててるやつが前に手ぇくむと変な感じだ(いや、まあ、かわいいんだけどね)。
嬉しいと「思しき」感情が心の中に湧き上がったと判断した時に、喜ぶのだ。これじゃ何かマズいんか? 私もかなりそうだが ... それはともかく、やや珠季の感情の物語の構成に矛盾を感じるな。 感情がエミュレートされたものであるならば、彼女の「不安」は何者だ?
原始的な感情であるほどエミュレートは難しくなっていく ── 本当の心理に一致するようになる。
不安が存在するということと、感情がエミュレートされているという問題は両立しないと思う。
珠季がかわいかっただけに非人間的なラストにはやや不満があるが、 物語全体はそーゆー話だから特にコメントすることはない。
この周回ではラストをすこし読み誤って評価が低かったのだが、のちに持ち直した。 このシナリオだけ音楽が気に入らんかったので周回数が少なかったのが敗因である。あうぅ。
いやぁ、語りレベルが絶妙。これ以上ちゃんと描いたら「わあすげえ」で終りだし、 これ未満だと「くだらん」で終りそう。みんな楽しそうだ。 つっこみドコ満載だし。
本読んでても後半になるにつれ急激にペースアップするタイプってこともあるが、 これはまったく気にならんかった。そのあたりで評価は標準からすこしずれる。
物語の選択範囲がきわめて狭い(逸脱すると瞬時に青空 END に落ちる)ことによって、 正しい選択を強要されているだけでなく、 実はみんなたすかる happy end を "BAD END" として認識してプレイしなければならないと強制されている。
記号としては確かに "BAD END" なんだけども、本筋が "BAD END" より「悪い」 ために "BAD END" の役割を果たしていないのがたいへん笑えました。 椎子シナリオで自殺する必要ねーんだもん。物語の本質ブチ壊し :-)
もちろん自然科学と違って形而上学は「人を幸せにするもの」という意識が強いから、 その業(ヒトとしての拘り)は当然といえば当然なんだろうが、 相対化することがその「業」としてある自然科学側からしてどうにも理解できない面でもある。
つまり、思惟的生物というのを設定したのならば、 自分達の提供する哲学がその思惟的生物をも幸せにするものへ拡張を試みようとしないのは何故か? 選択肢は、つねにヒトとしてのものと対立し、止揚が見られない。
透子シナリオにせよ珠季シナリオにせよ、その選択肢は人間としての論理に支配され続ける。 あたらしい領域を発見、もしくは思考実験として設定した時に 科学屋(形而下屋)のまずすることは自分達の道具の適用範囲の確認と拡大だろう。 哲学屋(形而上屋)が怯む理由が私には分からない。
全体の調和を無視してまで人間原理にこだわる理由が見えないのだ。
数学の存在意義を世界の征服におくのは、数学屋 ── 数学に身を捧げた人の言葉では、ないだろう。 それは「世界の征服」というものの存在意義を疑わない人達 ── 物理屋さんの言葉だ。
ゲーデルショックとヒルベルトプログラムの崩壊を受け、 存在意義をニュートン的絶対性から切り離さざるをえなくなった近代数学では、 「世界の征服」を直接語ることはできないだろう。 「征服されるべきものだという前提が用意されれば征服を語ることができる」 という以上のことは近代の数学屋さんは言わないし、言えない。
人を幸せにする指標を見出すことを本分とする連中(哲学屋さん)の言い分を下敷にしたこのゲームが、 どーしても人間原理から離れられないのも「何を疑うのか(何をア・プリオリに仮定することが許されるのか)」 という自省の意識がないからに他ならないだろう。
4 人しかいない教室で授業中に雑談する度胸はすごいが、 それにとらわれてると 4 人しかいない教室とか 2 人だけで授業うけるとかということを見落とす。 環境はかならずしもよくない。 透子の特別扱いはともかく、珠季が 1 年しか居なかったんなら 成瀬や彰人も 2 人だけで授業うけてた期間があるわけだ。 これこそ感覚遮断にちかい状況だと思う。
ところで、若年組の 2 人しかいない教室で「要領が良い」という状態は存在しない ... 相方の成績が良いのだから、教える側がピッチをあげてなお「要領が良い」 状態を維持することができるなら、十分に「頭が良い」で通る。 冗談めかしていたが、年齢差からみて珠季が同じ教室で学ぶはめになることは十分にある :-)
成瀬、椎子はみたまんまだとしても、 珠季がもっと物静かな人だと思ってたし(だって、公園でたそがれてるし、 唯一のセリフが「ここで寝ていい?」ってベタに甘えてるし)、 美凪も同年代だと思っていた。 ついでに、商店街をぶらついてる様子からはあの性格を予期するのは困難だと思う。 透子もこれほど寡黙だとは。ふつーにデートしてるし、 「意味が喪われてる」ってふつーに哲学的(?)会話してるし。
これらが確信犯なんじゃねーかと思いはじめたのは OP の歌詞の「蜉蝣の少年」ってあたりの文字をみてから。 聞いただけなら「陽炎の少年」だろう。そりゃあ本編読めば「蜉蝣」に意味があるのはわかるけどさ、 ンなもんこんなとこででてくるなんて思わんて。
これが OP を逆転したのは、いつだったかな。透子シナリオの時からかな? ようやくまともな happy end といえるものを経過したからか。
今、ED (だけ) を endless で聴いている。本編とのマッチは ED のほうが良い ... 本編の重さを体感したあとでは OP は軽妙すぎて。 うーむ、よくできている。
ファインマンでもハイゼンベルグでもいいから そのへんの物理屋さんの哲学的エッセイちゃんと読んどくれ ...
感覚を遮断しちゃいかんのは確かだが、なにごとかに集中するときに 耳を塞いだり目を閉じたりもするわけで、必要のない感覚を遮断したくなることもある。
でも、紙も鉛筆も要らないよ。内職ごとき。わかりきった授業は補習ばかりでなく、 ふだんの授業もそうだろうから、そういうのには慣れる。 数学屋さんがのたまうて曰く「紙と鉛筆があればいい」というのはダテではない訳で。
透子 > 椎子 > 珠季 > 美凪 > 成瀬予知能力者や精神感応能力者の孤独を扱うのは難しかったかな。 SF としてはよくあるネタなんだが、 神の孤独や人としての孤独に比べると踏み込みが甘い。 シナリオのラストは伏線なしでひっくり返す物語の構造上いずれもかなり荒れるので、 それを耐えるだけの何かが詰め込まれてないと話として辛い。
透子シナリオの首位は、よーするに「終り良ければ全てよし」というのに近い。 Epilogue から ED へ繋ぐリズムもこのシナリオは最高だった。 最初のうちの主人公の行動の痛さ加減やシナリオとしての予定調和の影の厭味も、 ED に切り替わるリズムの素晴らしさが吹き飛ばした。 ただ、自分も人間原理に縛られてるな ... と思う評価順でもあるな。 透子シナリオはこのなかでは唯一「人間性を回復した物語」と捉えることができるわけだから。 ... ああ、つまり、珠季シナリオでの非人間的解決や、椎子、美凪、成瀬シナリオでの 非人間的能力の肯定による解決ではどーしてもその非人間性を ED 以降に引きずる。 透子シナリオでは透子の神性の放棄(世界から消えるという本人の意志が覆された)と同時に、 人間性を獲得した(直弥とのデート中に発見した緑の服を着ている)。
痛いっちゃぁ、そーいや、珠季シナリオも主人公の行動ってばかなりイタいな ... 覗き魔よばわりされていてストーカー呼ばわりされずにすんだのは かなりの好運といえよう :-)
いろいろ下で語ってるわりに椎子シナリオの位置が悪い(最下位)のは、 ちと物語の骨格に障るルール違反が過ぎるという理由による ── と ver 0.7 の段階で書いたのだが、 読み直して、実は違反してないという点に気づいて本来の位置に復帰。 透子よりも下なのは、文脈的な厭味を微かに感じる(後述)ことによる。
なお、依子と慧子のシナリオについては考慮するに値しない。記憶から抹消予定。 養老猛なんか読んでねぇで、まあ適当な数理哲学屋さんの本でも読んでから出直してき。
珠季 > 透子 > 成瀬 > 美凪 > 椎子依子や慧子についてはシナリオがあまりにもアレで、 そのまま比べたら(シナリオに引きずられて)公平を欠くのが明らかなので外した。
ところで、いわゆる「属性」という考え方だが、 "ONE" での好みの順が
長森 (幼馴染み; 成瀬) > 澪(妹; 椎子) > 茜(物静か; 透子) > 七瀬(攻撃的; 珠季)というあたり、属性という色分けにほとんど意味をもってないことが分かる ...
もっとも珠季をトップにおくのは、自己の価値基準、判断が確立したうえでの怒りであって、 そのうえで他人からの抵抗も辞さないという覚悟があるというあたりが理由なので、 そもそも七瀬の属性とは質が異なる。
それだけの重みはない、道化としてふるまうのが ... と本人は語るが、実際には そういう「重み」ではなく、かぎりなく伝染病のキャリアに近い。 その被害者が成瀬、珠季なのだろうな。
この二人が被害者なのは理解できる。この二人は自分の力に対する抵抗力がない。 成瀬の予知は、予知したあとでその予知を否定することができない。 直弥を通じて悪意が成瀬の予知に干渉したとしても、その結果を現実世界に成瀬はフィードバックするだろう。 珠季もまた自分の不安(力ではなく)を抑え込む方法を知らない。 そのストレスが念動というかたちで噴出すれば、自分に向かうことはありえる。 これをふせぐことは珠季にはできない。
美凪はどうか。彼女は自分の能力を(部分的にせよ)抑えこんだ。 危険となれば直弥から離れる判断能力ももつ。 直弥を通じて、この美凪の回避判断を越えるような悪意を美凪にそそぎこむことはできない。
椎子はどうか。彼女もまた自分の力の使い方を知っている。 よりその力を使わざるをえないという方向に抵抗力がないだけだから、 干渉するとすれば、力を使わざるをえないという方向になる ... ゲルトルードの時の事件が むしろ空の悪意の産物とみたほうが、バランスがとれてるように思うし、 椎子の事件の時に回避したのは、だから過去からの経験だろうか ...
透子。彼女については考える必要はないと思う。能力レベルが直弥の上をいくし、 「しゃっくり」は直弥と無関係だし、彼女が消えたのは彼(空の悪意)の責任ではたぶんないのだろう。
「こんなにたくさん ... 人がいるのに ... それなのに ... わたしって 本当に .... あんたにとって特別でいられるの?」事実関係として "Yes" なのはいいとして、 やや気になるのは、それへの珠季の依存だ ── というか、こういう構造をつくりだした脚本屋さんの精神構造のほうだが。 強気な奴が反転すると恐ろしいほど他人に依存する。この構造は自明なのか? なんの理由もなしに持ち出してきてるし、確かに他の物語でもよく見掛ける構造だが。
もちろん、強気な奴と無事くっついたとして、その後も強気な性格を維持してると くっついた意味がない。分子運動的メタファーで言えば「熱い」ままなので、 ふたたび離れる確率が高く、中間ゴールとしての「恋人関係」として安定しないから、 それを避けたいという思いは理解できる。 しかし、それじゃ脚本としては敗北だろ?
珠季、それに美凪や成瀬は自分自身の心との戦いを強いられてきた。 直弥がさほどの心理的な欠陥をもたないだけに、彼がそれを支えるはめになるという構図は分かるが、 美凪や成瀬がともかく自分で立とうとしたのに比べると珠季の弱さは際立つ。
グランマが消えたあとで、彼女はそこから立ち直った経験をもつはずなのだ。 その経験が生きなかったことについて、珠季には残念に思う。
珠季の行動(感情の発露)が直線的なのは本来の心理の直接的な反映ではないからだ、 と定義付けしてしまった以上、心理的なトリックが入る余地がないと思う。 美凪の精神構造もそうだが、心理分析と現実の不一致が著しい。
したがって、なんらかの手段で珠季にも心理的な ── おそらくは念動とは直接関係ない形での、 それを導入しなければならないだろう、というのは予測のうちにあった。
でまあ、えらいえげつない形で珠季を押し潰したわけだが、 あの透子の力ですら封じてみせたロケットがあれば珠季程度の力なら珠季は助かったんじゃないのか? つーか、透子に処理させろよ。 椎子シナリオや成瀬シナリオでの回避は透子にもできない(そもそも透子が知るチャンスがない)が、 こと珠季シナリオだけは研究所の連中は何が起きてるのか知ってるのだから。
「珠季のためになるかどうかは置いといて、珠季のためにしてあげたんでしょ?」
「そうなりますかね」
「その志向性をこそ、人は優しさって呼ぶのよ」
もしかすると哲学屋さんないしそちら方面の人達には それなりに知られる話なのかもしれないが。 track 11 の BGM と、寝てる珠季を顔を眺めながら、素直に感動してた。
それと、 「珠季のためになるかどうか」の評価がすむまで「珠季のためにしてあげた」 かどうかの評価を遅延させるのが当然だと思ってたし、またそうでないと論理が完結しない。 だから、ここで「その志向性」だけをとりあげて何事かを明言してしまうという態度自体が、 すこし盲点でもあった。
「今日は判りやすい仲良しさんやね」こうしてみると珠季シナリオの出来がトップなのかも ... どう思ったかはともかく、セリフの掛け合いの気合いの入り方が違うような。
ところで、セリフチェックするのに珠季シナリオ通したんだが、 ポケットに手ぇつっこんでふつーに立ってるだけでなんでこんなに萌える。 世界の変容がおきてしまうっつうのは不可逆だからなぁ ...
だが、どーせやるなら「ちゃんとコンテクストを追えるようになる」と何かが破綻する、 という構造が欲しかったな。 いちおう一般人として育ったので、 「文脈が維持できない」という状態がどうやって生まれたのかというあたりが弱い。
実際に直弥の能力では 直弥が語る言葉が(ブラウン運動でない)ちゃんとした筋道を持つようになると他人にあたえる影響が 大きくなりすぎるのは確かで、それを封じるために言葉の流れがノイズになるようになっているのは 分かるが、でもそれは他人のためとしての能力の封印であって、自己防衛にはなってないから、 そういう状態を無意識のうちに維持することはできない ... と思う。 透子の側がそれなりにしっかりしてただけに。
たとえ神の手によって A = A を否定することすらできたとしても、 ルールを存在せしめる空間の存在を疑うことはできない ── これによって現世界を透子の無意識によってすら破り得ない形に規定することが、 原理的にはできる。要するに数学的世界そのものだが。
現実との繋がりを相対的に規定してしまったゆえに 神様といえど守らなければならないルールとして数学は存在することができる。 物理屋さんがやるように、 現実との繋がりにおいてのみ数学を規定すれば、数式は力をもち輝きだす ── と同時に適用できない世界をも生み出す。
この話は数学は世界を征服する力として描かれている。これは物理屋よりの発想であり、 その視点にとらわれるかぎり透子を救い出す手段はないけれど。
「直弥が透子と話せるのって、きっと直弥が脈絡なく喋るからだよ」まあ、たぶんここのためだけに透子シナリオがあるんじゃないかと思うけど。 それだけの負荷を直弥側が背負うべきかってーと難しい問題かもしんないな。 美凪も透子と話すことがあるよーだが、たしかにこの負荷を背負えるのは直弥と美凪くらいだろう ...
...
「最初は直弥が一方的に喋ってても、段々ちゃんと会話になっていってると思うよ。 ── この頃、特にね。
透子みたいな子と喋るには、多分最初は直弥みたいな話し方しなきゃいけないんだよ」
「あなたの言葉は、あなたの視線は、誰にも向けられていない」ンなこともないと思う。 直弥の言葉、視線は誰にも向けられていないようにみえて たしかに透子に向けられているのだから。 こういう言葉は、そういう状態から脱した直後に語らざるをえないのは仕方がないのかもしれないが、 おかげでなんとなくすねたくなる言葉でもあった。
読み返すと「君には(自分の能力が予知だと)言ったそうね」とあるということは、 成瀬の能力はデフォルトでは秘密になってんのか? 美凪は知ってたし、事の最初のやりとりからして珠季も知ってると思われるのだが。
1 〜 2 年も一緒にいれば知る機会もある、それをわざわざ口止めするほどではないが、 わざわざ語るものでもない ── というのであれば、 直弥が来る前の生活はさぞかし「冷たい」ものだったのだろう ...
予知は予知してしまった瞬間に現在のものとなる。 その知識を利用してその未来を回避する/利用することができるのかあるいは禁止されているのか、 禁止するならばその根拠は何か、そういったことをすっとばして「重い」と語られても。 回避不能であれば、その予知は他人に語ることができる。孤独ではないのだから。 ま、事前に(予知を信じてもらうための)準備がいるけど。
むしろやっかいなのは回避可能な予知ではないか。 回避されることがありえるがゆえに他人に喋ってその予知が確かであることを保証できない。 その予知が「悪い」ものであればあるほど、当人は自力でその予知を覆さなければならないのだから。
直弥が成瀬を理解する機会はなかった。だから、このラストへの流れは誰にも止められない。 ここでの流れは必然によるもので、手持ちの札が無制限のプレイヤーが仕掛けた流れではないんだから、 全体の構図が完全に筋が通るはずがない ....
「人の心の中って、見たくないものや、見られたくないもので一杯やから」それはそうだろうけど、見えてしまうぶんにはそれに適応した精神になるのではないか ... と思っているのだが、そーでもないのだろーか。 道徳律としての「見ないふり」というやつだが。
それに、人と違うことができるっていうのは、基本的にいいことだと思うけどな。
「やあ、久しぶり」のはずだと思う。もーすこし非人間的な論理をかっちり描けばよかったのに、 上でちょっと書いたが、どーも人間的な論理に物語がひきずられすぎる。 描かれている登場人物が非人間的な一面を明らかにした後では、 人間性は相対的に扱うしかないもののはずなのにな。
『ソラリス』は極端にしても、『竜の卵』や『重力の使命』への批判は読んでおいたほうがいいぞ。
ガロアの英雄譚のエピソードにまつわる「その女の人がもしガロアのことが好きなら ...」 の下りは、事実としては確か「ほとんど無関係の女性」だったわけで、 本来よりいっそうガロアの悲劇性(つうかバカさ加減) が強調されるトコなんだろーが、 それ知ってると椎子の発言が微妙な色合いを帯びる。ちょっと面白かった。
ところで、
ラプラスとかラグランジュの話が上がってきたとこで、 「ほぉそれが出来るか」と感心したが、すっとばされてオイラーになった。 この部分で「ええぃ根性なし」と思ったのは秘密だ ... 仕方ないとはいえ。 ガロアやオイラーの話を埋め込んでもそれほど物語世界を妨害しないが、 さすがにラプラスとかラグランジュのエピソードを埋め込んだらすげー邪魔に思うと思う。── というのが椎子シナリオの段階での認識だったが、 オイラーの話はのちに慧子シナリオの下敷となる。 構成は悪くないと思うが、 オイラーの話のほうが面白いようでは下敷にする意味がさっぱりないのではなかろーか。
苦痛を拡散させる能力しかないとして。 どうやって主人公を助けた?というのが最初の周回での疑問点だった。 展開上、地面に激突してそれを椎子が「治療」したようだが、 痛み拡散だけでは激突した物理的な怪我は治るわけはないからだ。
実際には、直弥は「落ちてない」のだな。落ちた記憶はむしろ椎子の痛み拡散能力によるものらしい。 たしかに物語的な反則ではないようだが、文脈的なルール違反っぽい、というのは儚き抵抗か。 つまり、ベルトホルトとゲルトルードの時代から現代にいたるまで、 椎子の側が直弥に先じたことは一度もないのに、ここでいきなり 直前か余裕をもってかは知らず、直弥の行動を先読みして手を打った、ということになるから。
ベルトホルトと直弥が本質的に同一人物である、 つまり必要とあれば自分を犠牲にする精神の持ち主であることは、 直弥が椎子がそれと思っていると考えている以上に実際に椎子が知っていてもかまわない。 だが、未来予測とその回避の方法は直弥の中で考察された。これを椎子が知る方法はない。 何かがあることがわかれば、たしかに椎子にはそれを止めようとする動機が生まれるのに。
世界との対応を気にする神経質さはむしろ物理屋さんのものだと思うが、 ニュートンを気にしつつライプニッツをベースにおくあたりは数学屋さん。
というよりは単なる哲学屋の贔屓だな、たぶん。
出て来る数学や考え方がのきなみ物理屋さん向けのもんばっか。
ところで、さりげなく主人公は自分の書く 'x' も奇麗と言うている ... 良い度胸だ :-)
後者だと思って 「どんなに問題が単純でも結果の各項の係数は絶対に整数とか有理数とかになったりはしないぞ。 せめて電卓があればよかったのにねぇ (^^;;」 などと笑ったものだったが、ちょいまえにポアソン方程式 (ベッセル方程式よりは簡単な形の 2 次の常微分方程式だ) を解いてたから、前者なのかな。
前者ならまあやることがわかってればそんなに難しいことはない。 そらで解くはめに陥りたくはないが ...。
すこしかんがえてみて思ったけど、純技術論的には、そういうのもありかな。
概念 oriented で数学世界全体をとらえていれば「問題はどのように解かれるはずなのか」
ということは概念の class tree の search で容易に分かる、ということになっている。
この search で分からないのなら、そもそも問題がまだ特定されていない、
条件が十分でないということのはずだということになっている。
ま、それはいい。だけど、これだけでは「問題をどう解くのか」に答えられない。
「問題はどのように解かれるはずなのか」というあたりに興味をもつだけの余裕がないのなら、 「解法」の集合上のフラットな全数探索もやむをえないのかもしれない。 この「蛇の視点」ではいつまでたっても数学世界全体の美しさに手が届かないかもしれない という懸念を考えなければ。
ところで「加速度を微分したら速度になったり、とかね」 ってな、もちろん逆だな。椎子に間違い教えてたりしてないか?
つーかだな、ベルトホルトってばどんな言葉で符号理論を語ったんだ? 他人に読める言葉で書いたんだろうな?
あのライプニッツでさえ、微積分を語る時に、極限計算は本人のセンスだけに頼る語り方、 悪く言えば数学的裏付けのない語り方をせざるをえなかったんだぞ。 ライプニッツも自分の論文をさんざっぱら「詩的」だと言われてきたに違いない。 というか、ライプニッツが正当に評価されるようになったのはペアノ以後のことだ。 カントやショーペンハウアーですら彼を理解できなかった。
だから、 そういう「詩的だ」に耐えられればきっと一人前のアカデミー会員になれたんじゃないかな、たぶん。 詩として理解できるだけでもたいしたもんだと思うし。 オイラーの等式の美しさすら理解できない人達というのがいるわけだから。 それに、当時の数学なら「美しい」ことは「正しい」ことなんじゃないか?
バタフライ効果の根元的な恐ろしさは、そういうノイズの解析を許さないところにあるのであって、 影響の指数的拡大にあるのではない。 椎子シナリオでいえば、 自分の死による厄災の封じ込めをバタフライ効果の名のもとにおくなら、 それこそ南米でチョウが羽ばたくのを待ってから自分の態度をきめることができたんじゃねーのか?
論理的に禁止されるのは「ある人(脳)は自分の脳(の今現在の働き)について語ることはできない」だ。 他人の脳について語ることや、自分の脳(の過去の働き)について語ることは別に禁止されているわけではない。
演算器側の複雑さと対象世界の複雑さで必然的に後者が大きい(か等しい)ことを理由に 困難を説明する連中もいるが、 これも(数学的に言えば)微分形式と積分形式の違いを理解しないことによる誤りだ。 熱力学(積分形式)を語るのにいちいち分子運動(微分形式)まで還元して 語らなければならないという法があるわけではない。 すくなくとも気象庁のコンピューターは日本上空にある窒素分子の数より少ない分子で構成されている。
世界を記述するとき、椎子シナリオで直弥がそうしたように 世界と直弥の関わり具合を界面として明示して扱うかぎり、 論理上の禁忌にかかったりはしない。数学的には単なる変分法の一種である。
A = A (自分は自分自身に等しい)ということを主張するものだが、数学屋たる者この程度ならいくらでも疑う。 これが喪われたからといって数学世界が死滅するわけではない。 哲学屋さんの ── というかこのゲームの脚本屋さんの勉強不足なんだろう。 生粋の数学よりはどっちかってーと哲学よりの、意味論方面で議論される話だから。
計算機的意味論では反射律がなりたつととたんに問題のクラスが易しくなる。 もちろん数学世界から結論を借りてこられるからで、数学屋さんの興味の範疇からは外れるが、 そういうことばっかりやってる人達もいるということでもある。
バタフライ効果もそうだったが、どーも人間の知恵というものを過小評価する傾向にある。 バタフライ効果があるならあったで「それは困った、人知の限界だ」とはならないもんだ。 「だからどうした、そのくらい織り込みずみだ」となるのが普通だ。
微積分学が同時期に独立した場所で発明されたということは、微積分学が発明されるべき時期に きていたということだが、それにしたって極限計算すら満足にできない 掘建小屋のような道具をやっとこさ作ったというだけだ。
彼らにしてみれば「すべて一人でしてしまう」意識は無かったと思う。ガウスじゃあるまいし。
おおざっぱに言えば、ライプニッツとニュートンの記号法は、 微分について「t で微分すると ...」という発想をするか、 「速度を微分すると加速度になる ...」という発想をするかによって区別する。
近代数学はライプニッツの記号法を基礎におく。 ゆえに彼の文章は今の数学のテキストのように読める。 ただしその計算は限りなく「オレが正しいと言ってるんだ、正しいに決まってる!」で、 ライプニッツだからまだ許されるのであって、他の凡人には許されまい。
ニュートンの記号は古典物理的(あたりまえ)。トリッキーな数式変形は鮮やかだが その実その場しのぎの連続はこちらも現代の人間が同じことしたらきっとバカにされるだろう ...
ニュートンの適用範囲は時間で微分するに決まってるから彼の表記は正しいし、 流体を扱ったライプニッツ達にとっては何で微分するかは大事な問題だったから彼らの表記も正しい。 今の数学はライプニッツの血をひくといってもラグランジュ(1736-1813)以前の ライプニッツの記法にどんな意味があったかってーと繁雑なだけだったんじゃないかと思うし、 コーシー(1789-1857)登場まで彼らの記法や演算には正当性がまったくなかった訳だから、 ニュートン力学を支えたニュートンの微積分学のほうが当時としてはまだしもという気がする。