Comments on Progressive 5 and 6

(v1.0, Aug. 15, 2000)
Author: 神木一也

第一感として

編集〜レイアウト、製本品質が落ちた。 家に戻って Progressive 2 を引っ張りだして比較したところ、やはりきっちり落ちている。 以上、なんか雰囲気が並の同人誌になってしまってた。
でも Postscript 入稿させてくれるトコ少ねぇからなぁ ... そもそも Postscript や dvi に理解のある印刷所ってものが少ないし ...

全体の雑感

帰り道に駅を乗り過ごしたていどには読んでて面白かった。 数頁で座席に放り出した 3 よりは良くなってると思う。 ただまあ、組版が悪いせいもあって読み辛いのと、やっぱり読後感イマイチなんだよな ...

調査とゆーもの

もしかしなくても調べたその日のうちに書いてるか。 ぜんぜん消化できてない。内容決めてから調べ始めるのを悪いとは言わんけど、 小学生の自由研究じゃないんだから、もすこしなんとかして欲しいものがある。

酷かったのは『あの壁のむこう』と『Peace of Blue』。 とくに『あの壁のむこう』はフリークライミングをもってくる必然性が 弱かっただけに目立った。 A を話の中に置く理由が物語中には存在しない、 つまり他のもの B を同じ位置にもってきても同じ話が作れる場合、 (ほかでもない A を置いたんだから) A をそこに置いた理由が作者の内にあるはずである。 それが描けないなら、まだそもそも話を書ける段階にまで熟してないってことだ。 現状、『あの壁のむこう』で登っていくシーンはほとんど 1 行も読めなかった(すべてすっとばした)。

できることならば ── 何かを見て感動した、だからそれを書く、そのために調べる ... という方向性であってほしい。

冒頭の癖

Aug. 12 で読んだ創作文芸賞の話なんぞよりはるかに入りやすい冒頭だったが、 Progressive 5 の最後の話に入った時点で思った:
「4 人中 3 人がセリフで話をスタートさせてる ...」
半村良のどっかの話の後書きにもあったし、 そのへんの小説書き入門にもどーせ出てるんだろうが、 セリフから始まっているほうが概して物語に入りやすい。 が、まあ、あんまりそーゆーのに頼るのもどうかと思うが。

6 もセリフから始まってたらどうしよう(いやべつにどーすることもないと思うけど) と思ったけど、こちらは状況説明から入っていた。 本編が長いぶんだけ無理せずにすんだんだろうな。 しかしなんつーか、6 の『デッドマン・リヴィング』の最初のパラグラフ(プロローグ) が無ければもっと読みやすいのにぃ、と思ってしまうあたり、セリフスタートは偉大だ (物語が実質的に始まる第二パラグラフはきっちりセリフで始まっている)。

誤字と縦組

2 冊あわせて誤字は 10 箇所弱ってとこか。 ふつーなら「分量のわりには少ない」と言える数字だが、 互いに何遍となく読んで叩きあってるとするならこの誤字数は多い。

縦組特有の誤字(というかミス)も多かったあたり、 おそらく縦に組んだ版は校正に掛かってないとみた。 そもそも横組前提で本文が書かれているし。
「!」や「?」を TeX なのにわざわざ全角で組んでるのは横に寝るのを防ぐためだろうが、 縦組への変換はその程度で機械処理できるほど甘いもんではなく、 実際「!?」のような合字でコケてる。

個別な話

早坂千尋 『Piece of Blue』

一葉が自分の飛行機に乗せた鯨類研究部の若い研究者の名前はエリーといった。 クジラの唄が好きで鯨類の資源管理の仕事に関わっているという。 唄の収集用のプローブを壊しまわっている環境保護団体との口論を切りぬけた時、 クジラがプローブに応えている様子を二人は見た ──
どーにも前半と後半で話が分裂してる。 ジョナサンとの戦闘シーンが描きたいなら テープレコーダー的口論から険悪化したところでジョナサンが乱入してきて 「ふははは、これで 3 勝 4 敗だ」くらいはしないと後半のオチに繋げ辛いし、 後半の鯨論議が書きたいならジョナサンの話は余計。ページ数少ないんだから。 上の要約からはジョナサンとの戦闘シーンはすっぱり落した。

一葉は物語の最初と最後で変化しない(してはいけない?)人なので、 見た目主人公でも実際にはたんなる語り手で、焦点となるべきエリーさんの心の動きの 描写が決定的に不足。

機械的に仕事するトコと、テープレコーダー的口論と、鯨みっけての戯れ合いと、 その感動を語る 4 枚のシーンでエリーに関してちょうど起承転結が揃うが、 それぞれの行数について考えるだけでもバランスの悪さが見える。 つーか、書きたいとこ(だろうと思われるとこ)になるほど短くなるってどういうことやねん。

ラスト:

... 今日見た中では、いちばんいい顔をしているな、と思った。
の部分。初読では別人が書いたのかと思った。 いい顔になったことの描写に「いい顔をしている」って、 んなまんまに記号的&観念的にふつー書くか? と思ったからだが、このあたりに問題点が集約されてんのかもしれない。

作者が一葉という人物をどう扱うつもりでいるか、というあたりがすこしヘン。 エリーの変化に説得力を出し、読者を巻き込むためにここで素朴に考えるとすれば、 クジラさんとプローブの会話の様子を見た時点で一葉になんらかの感想が出て、 その上で、エリーにも同等以上の変化がでていたことを確認してシメに入る ── という形式になると思う。もっとも、ほんとにこんな展開にしたらそんな作家は見放すと思うが、 ま、このあたりが基本線。そこから比較するに 明らかに作者は、一葉がクジラさんとプローブの会話の様子を見ても何も思ってはならない (= それがプロの仕事とゆーものである)、に近い規制を置いている。 何かを思い、惑い、考えることのない人物は主人公になれない。 鑑賞中心は自動的に一葉から外れる。「シャーロックホームズ」でのワトソン博士のように。

にもかかわらず作者は一葉の描写に未練があるようにみえる。 一葉の描写密度は高くできず、 ゲストには作者の関心がない。読者からみて人物描写が不足に感じるゆえんである。

登場人物レベルとて
なにかをふっきって「いい顔」になって、で、次の一歩としてどういう行動をとったか、 があって初めてエリーに対して何か(反感なり同情なり同感なり)を抱くことができる。

エリーの現状(親のコネで自分の本意とは僅かにずれたトコで働いてる)に対して、 すくなくともかつてはエリーは抵抗できなかったのであり、 「いい顔」になったことがその真価を発揮するのは、この現状を少しでも動かそうとする時点にある。 (わりとしつこく書くことだけど)「何かを思うだけならタダである」ので、 この話の時点では(エリーの)妄想と対した違いはない。

とゆーわけで、エリーの評価は、これから次第だなあ。

一葉についてはどうか。クジラがプローブにジャレついたことに まったく好奇心を動かさんような人は私の知ったこっちゃないです :-)
面白がれ、とは別に言わんけど、視線を動かすくらいはしていただきたい。

朝草夕乃 『リョーリでショーブの名の下に』

ひょんなことからどっちの料理がうまいかで口論になったナオミとユウマ。 同居人のアコが横からあらかったかっさらっていった勝負用の食材の残りで 二人は「料理」に入る。 出来上がったシロモノは二人の腕前を素直に反映して到底くえるものではなかった ──
5 の中ではいちばん読んでて面白かったが、これがいちばん面白かったという時点で なんか問題ありなんじゃないかと思う。 表面的なスラップスティックに徹してインパクトより笑いをとった話が story 性に主眼を置いた話よりインパクトに優るって一体 ...?

ところで、でてくる料理は とうてい食べられそうにないものでなければならないはずだが、 おそらく食えるだろう(まずいにはまずかろうが)と思われる料理がけっこうある。 この描写ではアコが帰ってきた時点で全員空腹をかかえてる必要は、たぶんない。

納豆プリン
プリンに醤油なんてかけるもんではないには違いないが、 この手の甘いものに醤油かけても味の調和は崩れない (たぶん旨いと言える範疇に入ると思う)。 納豆も醤油と同系だから調和を邪魔せず、おそらく食える。 つーか、混ぜこねた時点でプリンの味は崩れて単なる砂糖汁になるから、 これって単に甘納豆に醤油かけただけに近いものになるんじゃないかなぁ。
トロピカルサラダパフェ
ショートケーキとスイカならスイカの味はない。邪魔にもならない。 同量ならともかく目につかない程度のぬか漬けで ショートケーキに勝てるわけもなく、 実質的にケーキの味がするだけだろう。「死ぬ」ほどか?
陸海空・三位一体
鶏が食えるのは当然として、のこりの二つが死ぬ程辛くなるまで煮込むのは 制限時間 30 分じゃ無理だと思う。
汁粉に山ほど塩いれたやつこそ、その苦さで「死にそう」がぴったりすると思うが ...
原形をとどめてるものが多いという点でも、 後半の描写はすこし変だな。 最悪の場合でも素材毎にバラバラにすればふつーに食べられる。
登場人物レベルとて
食える食材から食いようがないものを作るのは相当な才覚を必要とする。 どんなものだかしらないがこれだけマズいものを作る二人とゆーものは ある意味そんけーに値する ...

ノリヤスの敗因は、限度を遥かにこえてマズいだろう、 というトコで降参してしまったからだねぇ。 眼の前にでてきた「マズいもの」をなんとか食えるようにするためにこそ、 調味料とゆーものがある。 もすこし自分の身を守ることに一所懸命努力してれば助かったかもしんないのに :-)

まるやまなおゆき 『カイユースの剣』

兄の復讐のための剣を受け取りにハルワバードはカイユースを訪れる。 その彼をカイユースは「自分の心を守るために剣を振るってどうする」と指弾した ──
剣を打ってるトコが「窓」の外から見えるのか(陶器つくってんじゃないんだし ...) とか、やっぱり言いたくなることは多い。 読んでて気候風土を感じないんだから、ヨーロッパまで取材旅行(とは言わんのだろうが) に行ったカイというものが。もったいない。

話の構造に関して二つほど。
暑いのか寒いのか、乾燥してるのか、年間の降水量がどれくらいだが今月はどれくらいで、 地面の土質は堅いのか粘るのか、栄養的に豊かなのか痩せてるのか ... というあたり さっぱり国土のイメージが湧かないってのはともかくとして、 この話の中で比較的重要な点を占めるわりに欠けてることとして 貧富の差と階級人口構成のイメージがない。話全体の見通しがかなり悪くなってる。

もうひとつはハルワバードがダメすぎでカイユースとの対立軸が弱くて印象に残らない。 思い込みは思い込んでるから思い込みというのであって、 一撃で何の抵抗もなく崩れるようなシロモンは思い込みのうちに入らない。 えらく説明的な口喧嘩が続くわりに作者がカイユースの結論を自明のこととしすぎてるので 宣教師の説教をハタから見てるみたい。

「俺は剣が好きなんだ〜」という件について (... って書くと後書よりなおヤバ気な表現になってるのは何故?)
でもやっぱり飛行船のが好きなのねとは 2 の『終わりの、始まり』を読み返して思ったこと。 叩かれてる鉄の赤い棒が黒く光る剣に変わっていく様がいまいちゾクっとせん。... ってそーゆー感想もってる人もけっこーアレか?

それにしてもなんだかしらないけどこの話もカナメに入ると描写密度が下るのは何故 ...? カイユースの「彼らのために剣を打つ」にいたるくだりだけど。 この話、このシーンを流してしまうとすると一体どこのなにを鑑賞すればいいんだろう。

ところで、 「私が、カイユース」の挿絵が置かれた位置といい絵の表情といい、ぴったりはまって。 話そのものより印象に残ったりもする。

登場人物レベルとて
ハルワバードみたいに簡単に染まる奴がどーやって今まで生き延びてこられたか、 が少し知りたいかもしれん。とりあえず当代カイユースにお近付きになる資格は ... あと 10 年くらい修行すればどーにかなるんかねぇ。

カイユースの主義主張は穴だらけで周りの相手がこの程度で良かったなぁ。 気合い勝ちとゆーやつでしょうが、コンペが真向勝負だった時に スクィードに勝てたかどうかにちょっと興味あるな。 なんやあまり打ち気でなかった剣のようだから、 生真面目な職人さんスクィードには負けてたかも〜などと思ったりした。

成重鈴太郎 『あの壁のむこう』

「好きなようにやれば道は開ける」それが三月の占いの結果だった。 それでふんぎりをつけた慎也は転落事故以来ひさしぶりに壁に挑む。 しかし途中で慎也はルート選択に迷い止まる。 その背中はまるで縮んでいくように三月は思った ──
話書きがうまいってのと下調べがうまいってのは別もんなんだなぁと実感した話。 上にも少し書いたがフリークライミングとタロー占いについての下調べのまずさが 話の足をひっぱりまくっている。 没個性的なタローの連想はどっかの入門書からそのままもってきたかなんかかしらん? 三月の人間性みたいなもんの影をその連想に感じない。

それができるくらいならそもそも作者自身が占いで食っていけるだろーが、 という反論はあるかもしれんが、占いがネタの話を書いていた物書きが 話を書き終えて今は時々実際に占い(臨時副業)もやっている、 とゆー話を聞くとそれくらいのことは結局は要るんだろう。

フリークライミングの文章のほうは ... これって、作者って「フリークライミングをする人」なのかしらん。 登る場面になるといきなり視点が壁にぺたっと貼り着いてる。10m は離れていて欲しいなぁ ... 前後の三月と春さんの会話と通すと視点の移動で目眩を起こしそう。

ところで、高橋由佳利が似たような壁登り屋さんの話を大昔『りぼん』で描いてたなーと ダンボール箱ひっくりかえしたら出て来た。

高橋由佳利 「倫敦階段をおりて」 in 『過激なレディ (下)』 集英社, 1984.
である。変人だな〜という導入部から壁登りをバカにして、落っこちて、ラスト告白という 流れはほぼ同じ。いや、このていどの類似なら少女マンガ漁ればヤマほど出てきそうだ、 というのは置いといて。
デッド・フィッシュ・アイ
本名より長いあだなって一体 ... 誰がこんな長い言葉を会話ん時にいちいち発音するんだろう。
川残尿
「トラとタヌキの川残尿っていうのよ!」
「どういう意味だそりゃ!」
って、マジなんか誤字なんかちょっと悩んだ。 コンテクスト的にはこのままでも不思議なことはないのであってんだろうけど .... そーゆーギャグ飛ばすとこなんか?
登場人物レベルとて
三月に欠けるとこがないのが弱いなぁ ... 慎也が「壁」を乗り越えるあいだに三月がしておくことがない。 三月が主役たりえているのは、慎也が登っているのをみて何かを思う部分にあるが、 もともと三月に何かの問題があったわけではないから、ここで何かを思うことの意義があんまりない。
「得るべきものを得た」という形になってないので終りかたが難しい、はずなんだけど むちゃくちゃ綺麗に仕上ってんな ... この終り方。

真冬真 『デッドマン・リヴィング』

他人の命令には何故か動くのに自分の意志では自分の身体を動かせなくなった男、ノーバディ。 自分のきかなくなった右腕のかわりにその男を買ったスモーカーは、 彼に銃をもたせて訓練し、復讐の場に臨む。 中途半端に失敗した復讐の場に満ちる憎悪に ひきずられるようにしてノーバディの腕が動く ──
最初は手を伸ばさなかった Progressive 6 だが、 結果的に 6 のこれがいちばん良く出来てると思う。 ちなみに手を出さなかったのはドンパチやる話だったので、読まなくてもまあいいかと。 2 の『ANGEL-NO』や 3 の『銀の小径に雪の降る』も読み直してみたけど ほとんど別の人が書いてるみたいで、 たしかにそろそろ真冬さんの人が死なない話が読みたいかも。

パラグラフ境界での繋ぎ方のリズム、語尾の助詞の揃え方バラけ方による状況の雰囲気作り、 話を取りまとめてて面白かったんだろうなという全体の文章の雰囲気、などなど。

にもかかわらず、根本的なとこで読み辛いのは各人物のロジックが整理されてないからだろう。 それぞれの人物の思考がなんとなく吃ってる。キングの頭に霞がかぶってるのは 別にいいけど、他の人物の思考までそーゆー感がある。

登場人物レベルとて
出だしスモーカーが主役に見えるが、後半に移るにつれノーバディに何気にフォーカスが移ってる。 密なスモーカーの描写に浸ってると後半で置いてきぼりにされる訳で、 .... 冒頭でノーバディが出てるってことは作者もノーバディ主体なつもりでいるわけで、... ううん。ちょっと意図分裂してる。

蛇足

本の著者はもちろん原則敬称略である。 ... 顔合わせたことのある人のフルネームを敬称略で書くつうのも変な感じ。

本自体の入手難にあってこれを open にしてるっつうのもなんか変な感じ ... このページに置いたカウントは既に著者数を超えているが、 この本の読者ですら ここを読んでも何の意味もないんではなかろうか、 ええい、もすこし意味のある感想を、と思いつつ、うまいこと書けなかったかもしんない。


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