『よくやったな、シンジ』





 シンジ。
 碇 シンジ。
 僕の名前。





 ホント?
 ホントニソレガアナタノ名前?





 たぶん。
 たぶん、そうだと思う。
 だって、呼んでくれたんだもの。
 父さんが。
 僕のことを。
 あの父さんが僕のことを。





『よくやったな、シンジ』





 そのためなら僕は、僕でいられる。
 その言葉を聞くためなら、なんでもできる。





 ダカラアナタハえう゛ぁニ乗ルノネ。





 だから僕はエヴァに乗る。





 スベテヲ忘レテ?





 え?





 嫌ナコトハ忘レテ。
 アナタハスガルノネ?










 背中。
 大きな背中。
 忘れようと思っても、どうしても頭の中をよぎってく。
 とてつもなく厚くて、広い背中。
 それが、脳裏にこびりついて離れない。



『なに? これ』



 渡された小さなバッグ。
 ポケットに押し込まれた小さな紙切れ。



『ここへ? ・・・いくの?』



 見知らぬ場所。
 改札口。
 ただ無言で。
 終始無言で。



『とうさんは・・・? とうさんもくるんでしょ? あとでとうさんも・・・』



 ただ無言で。
 終始無言で。
 振り返らない。
 答えない父さん。
 こわくて。
 とてもこわくて。
 飛びついた。
 父さんの背中。
 大きな背中。
 微動だにしなくて。
 父さんは僕を見ない。
 決して見ない。
 襟。
 つかまれる。
 伸びる生地。
 ひとふり。
 引き剥がされる。
 振り飛ばされる。
 倒れる僕。
 振り返らない父さん。
 その時の砂の味は、今も覚えてる。
 振り返らない父さん。
 泣く僕。
 ただ泣く僕。
 答えない父さん。
 背中。
 大きな背中。
 黒い背中。
 広い背中。
 小さくなっていく。
 大きな背中。
 遠ざかっていく。
 僕は泣く。
 ただ泣く。
 泣く。
 泣く。
 ・・・ナク。



 ヤッパリ僕ハ、イラナイ人間ナンダ。






NEON GENESIS EVANGELION episode:16.5
いつか、世界が終わるまでに











 うっすらと目を開ける。
 ちょっと腕を動かしてみて、すぐにわかった。
 全身にすごい寝汗をかいていた。
 最悪だ。
 気分が悪い。
 最近、はっきりと夢に見る。
『嫌なこと』
 今まで、忘れようとしていたこと。
 あの日以来かな。こんな夢を見るようになったのは。
 ・・・眠ることが、つらいことだって初めて知ったあの日以来。  正直、どうしてここに戻ってこれたのかわからない。
 はっきり覚えてない。
 気づいたら、ミサトさんが胸の上で泣いてたんだ。
 ううん。違う。
 きっと違う。
 僕はまた忘れようとしてるんだ。きっと。
 一息、大きく深呼吸して、首を横に巡らせた。
 朝日。
 嫌になるほど元気な。
 できれば、今日という日が来ないことを願ってた。口には出さなかったけど。顔には出てたかもしれない。
 昨日のミサトさんは妙によそよそしかったし、アスカは・・・機嫌が悪かったから。
 今日は特別な日だ。
 おそらくは僕にとって。
 小さい頃・・・物心つくまでは、心待ちにしていたはずだ。今日、この日を。
 でも。
 今は正直、好きじゃない。
 あの日、あの時以来、今日がだいっ嫌いな日になった。
 思い出す。
 こびりついてる。
 背中。
 大きな背中。
 それが、忘れられない。
 だから。
 こんな日、なくなってしまえばいいのに。










「おはようございます」
「あらシンちゃんおはよう。今日はずいぶんゆっくりなのねえ」
「だって今日の朝食はミサトさんの・・・」
 そこまで言って、僕は無駄だと悟った。
 ダイニングのテーブルにはなにも用意されていなかったからだ。
 いつものレトルトさえ用意されていない。
 ミサトさんはテーブルに座ったままバツの悪い笑みを浮かべて缶ビールをすすっていた。
「いやあ、悪いわねえ、シンちゃん。昨日も夜遅くってぇ・・・」
「みなまで言わなくてもわかります」
 たははと笑うミサトさんに苦笑しつつ、僕はエプロンを付ける。
「朝食、とりあえず僕が作っときますから。そのかわり今日の夕飯の当番はミサトさんですからね」
「ごめんっ!」
 ばしんっと額の前で手を合わせるミサトさん。
「実は今日泊まりなの」
「え?」
「だから・・・ごめんっ」
「そう・・・ですか」
 あれ?
 なんだろ。
「・・・? どうしたの? シンジくん」
「あ。いえ、なんでもありません」
「そういえばアスカも今日遅くなるみたいね」
「え? アスカも?」
「なんか、朝も早くに出かけたみたいだし。めずらしいわよね」
 ビール片手に、ミサトさんが紙切れを放ってよこす。
 そこには間違いなくアスカの筆跡で



『遅くなるから』



 とだけ書かれていた。
「そ・・・っか。アスカも・・・ミサトさんもいないんですね。夕飯はひとり・・・か」
 なんだろ。
 この気持ち。
 しめつけられる。
 がっかりしてる・・・?
 僕が?
 どうして。
「あー、もしかしてシンちゃん、さみしーんだぁ」
 どきっとした。
 図星だったから。
「そんなことっ!」
 思わず叫んでしまってた。
 なんだか。
 なんだか・・・バカみたいだ。
「・・・そんなこと・・・ないですよ」
 うつむく。
 ミサトさん、不思議そうな顔でこっちを見てる。
 当然か。
 でも、すぐににこっと微笑むと、僕の肩にぽんっと手を置いた。
「まあまあ、照れない照れない。そうねぇ。そんなにさみしいなら、鈴原くんと相田くん、彼らでも夕飯に招待しなさいよ。ね?」
「だ、だからそんなことないんですってば・・・」
 無理矢理に大声をあげながら、僕は考えていた。
 そうだよ。
 こんな日は・・・みんないない日は、今日が初めてってわけじゃない。
 ひとりは・・・馴れてたはずじゃないか。
 なのに、さみしい?
 違う。
 これは・・・今日が、特別な日だから。










「・・・はぁ、あたしってばガッコサボってこんなとこで何やってんだろ」
 アスカは店の中に陳列するぬいぐるみ群を見やってため息をついた。
 その中の掌サイズの黄色いネズミもどきのぬいぐるみを手に取る。
「なんだかよね・・・なんか・・・なんだかなのよね・・・」
 意味不明なことを口走って、アスカは手にしたぬいぐるみを握りしめた。
 ぴきゅうっ
 と、小気味いい音をたててぬいぐるみが鳴く。
「・・・か、かぁいい・・・」
 思わず口許が緩む。
 が、すぐに我に返ったように、再びため息をつく。
「・・・でも、あいつのシュミじゃないかなあ。かぁいいんだけどなぁ・・・」
 アスカは呟きつつ、もう一度ぬいぐるみを握りしめた。
 ぴきゅうっ
 やはり小気味よく鳴く。
 もう一度。
 さらにもう一度。
 連続で握ったり放したり。アスカはついムキになって延々とその動作を繰り返していた。
 しまいにはぬいぐるみはただぴぴぴぴと鳴るだけの目覚ましもどきと化していた。
 店員や、周りの客が不思議そうな顔でこちらを見ている。
 が、そんなことには目もくれず。アスカは一心不乱にぬいぐるみを鳴かせ続けていた。
 ひとしきり鳴かせた後、アスカは肩で息をしながらぬいぐるみを半ば放り投げるように元の場所に戻した。
「・・・節操なく鳴いちゃって・・・好きじゃない」
 三度ため息をついて。
 アスカは再びぬいぐるみを手に取る。
「・・・でも、あんたとあいつ。たしてふたつに割ったら、ちょうどいいかもね」
 そっとぬいぐるみの頭を撫でつつ、アスカは苦笑していた。










「え? 晩飯を? お前んちで?」
「う、うん。今日、ミサトさんもアスカもいないんだ。それで、なんか、材料余っちゃって・・・よかったらどうかなって・・・」
「すまんなぁ、シンジ。今日はどうしてもはずせん用事があるんや」
「悪いね。俺もその付き添い」
 放課後。
 予想していたトウジとケンスケの言葉を聞いた。
 ミサトさんの言葉を間に受けたわけじゃない。でも。
「・・・いいんだ。ひとりは、なれてるから」
 僕は、できるだけ元気に言って、無理矢理笑顔をはりつけた。
 ケンスケの顔が少し曇った気がしたけど、気がつかないふりをした。
「じゃ、じゃあ、呼び止めちゃってごめん。また、明日」
 落胆。
 もしかして・・・って、思ってたんだ。
 もしかしたらみんな気づいてくれるんじゃないかって。
 特別な日。
 期待していたんだ。僕は。
 嫌いだとか思っておきながら、ホントは期待している自分がいる。
 そういう、ことだよね。
 でも、結局はその期待は裏切られるんだ。
 今朝みたいに。
 そして今みたいに。
 誰も今日のことは知らない。
 知るわけない。
 当たり前だよ。誰にも教えてないんだもの。
 みんな知ってるわけない。
 ・・・知ってるわけないんだ。



 ・・・ちくしょう。



 よぎるのは背中。
 大きな背中。
 あの日から。
 あの日から僕は、どんどん小さくなっていく。
 居場所もなくなってしまう。
 いつかは消えてしまうんじゃないかと思う。
 でも。
 でも見つけたんだ。
 確かなモノ。
 エヴァに乗れば、父さんがほめてくれる。
 あの、父さんが。
 そうさ。
 それさえあれば、大丈夫。
 僕はやっていけるさ。
 もうあの『背中』は、見たくないんだ。










「シンジ」
 呼び止められた。
 思わぬ声。
 そこには、少し息を荒げたケンスケの姿があった。
「・・・どうしたの?」
「・・・いや、なんか、気になっちゃってさ」
「え?」
「その・・・ごめんな、シンジ。これは口止めされてるんだけど、思い切って言っちまうよ」
 ケンスケはちょっと深刻な顔をして、声を潜めた。
「実はあいつ・・・トウジな、今日は妹の病院に行く日なんだ」
「・・・!」
「その・・・シンジには言いにくいらしくてさ」
「・・・そ、そう」
 手が震えてる。
 わかる。
 膝ががくがくいってる。
「わ、わかるよ。うん。気にしないで」
「・・・すまないな、シンジ」
「な、なんでケンスケがあやまるんだよ」
 目が合わせられない。
 寒い。
 とても寒い。
 歯の根が合わなくなる。
 声が震えてしまいそうでこわかった。
「大丈夫だから、ほんと、大丈夫だからさ・・・」
 ケンスケの瞳がじっと僕を見る。
 苦しい。
 とても耐えられそうになかった。
 今にも逃げ出してしまいそうになったその時、静かにケンスケは視線をそらした。
「ほんと、悪かったな。また今度、招待してくれよ」
「う、うん」
「じゃ、俺行くから」
「・・・うん」
 僕はただ。
 ただ黙って、頷くことしかできなかった。










「なんやケンスケ、えらい長い便所やったなあ。でっかいほうか?」
「・・・ばーか。ついでに忘れ物も取ってきたんだよ」
「ほうか、ほな行くか」
「・・・ああ」
 軽口をたたき合う。他愛のないこと。いつものこと。
 でも、いつもならそのままお互いが別れるまで続く会話もとぎれがちになる。決まってこの日・・・トウジの妹の病院へ見舞いに行く時は、いつもこうだった。
 時間が経つにつれ、病院に近づくにつれ、トウジは無口になる。
 最初は無理矢理バカ話を振ってきたトウジも、ついにただ黙って歩を進めるだけになる。
 ケンスケもそれに従う。
 従うしかない。
「・・・なあ、ケンスケ」
 ちょっとびっくりした。
 ケンスケはその驚きを悟られないように急に口を開いたトウジを見た。
「な、なんだよ、トウジ」
「・・・いや、なんでもないわ」
「なんだよ気になるな。話せよ」
 トウジはしばし躊躇していたけど、しばらくするとぽつりぽつりと話し出した。
「・・・わしな、妹んとこに見舞いに行く日はなあ・・・すっごく安心するんや」
 かすかに苦笑して、トウジはケンスケから視線をそらせる。
「・・・妹がケガした時は・・・ホンマ、この世の終わりみたいな気がしたさかい、その時のことを思うと、な」
「・・・・・・」
 ケンスケは、トウジがいったい何を言いたいのかわからず、しばし黙って話を聞いていた。
「けどな・・・けど、それと同時に、いちばん嫌いな日でもあるんや」
「・・・・・・?」
 苦笑して。
 トウジは苦笑して、うつむいた。
「・・・あいつに、嘘、つかなあかんやろ」
「・・・・・・」
「それがな・・・ムチャクチャつらいんや」
「・・・トウジ」
「あいつ・・・シンジ、なんか、今日様子おかしかったやろ?」
 正直ケンスケは驚いていた。
 シンジの様子・・・まさかトウジも気づいているとは思っていなかった。
 自分の、友人に対する認識の甘さを痛感してしまった。
「ケンスケ?」
 トウジの呼びかけ。
 思わずケンスケは我に返ったように、トウジを見る。
「・・・確かに、おかしかったよな」
 気を取り直して、ケンスケはトウジから視線を外した。
「なんか、あったんかな」
「わかんないよ。正直、シンジってなに考えてんだかわかんないとこ、多いし」
「・・・お前にもわからんのかいな」
「他人のこころがのぞければ・・・楽なのにな」
 苦笑して言うケンスケに、再びトウジは視線をそらしてしまう。
 深刻な表情。
 肩を落としているようにも見えるトウジに、元気づけるようにケンスケはその背中をひっぱたいた。
「痛っ! なにすんねんっ!」
「しゃきっとしろよトウジ! そんなド暗い顔して妹んとこに行く気か!? 見舞いに行く度、心配させてちゃ意味ないだろっ!」
 ケンスケの勢いに、一瞬押されたトウジはちょっと考えるような顔をして、苦笑する。
「・・・そやな。そうや」
 かすかな笑顔。
 ケンスケは少しほっとして、再びトウジの背中を今度は軽くぽん、とたたく。
「久しぶりなんだろ。見舞いに行くの」
「・・・ああ、こないだ行ったのが31日やから・・・ちょうど一週間ぶりやな。面会すんのに予約とらなあかんよってな。手間かかるんや」
「・・・なんだって・・・?」
「いや、だから予約を・・・」
「そうじゃなくてっ! その前だよっ!」
「31日から・・・一週間・・・」
「ってーことはまさか、今日は6日か? もしかして?!」
「そ、そやけど・・・どないしたんやいきなり」
「そうか・・・そういうことか・・・」
「ケンスケ?」
「わかったよ、トウジ、なんで今日、シンジの様子がおかしかったのか」
「ホンマか?!」
「ああ。今日は6月6日。つまり・・・」
 と、その時だった。
「・・・道の真ん中でなに騒いでんだか、この三バカトリオは」
 その声に、ケンスケもトウジもびっくりしたように顔を上げた。
「・・・惣流」
「惣流やないか」
 いつのまにそこにいたのか。
 ケンスケとトウジが行く道の塀にもたれかかって、アスカがそこに立っていた。
「どないしたんや惣流、今日は学校サボってしもて」
「綾波もシンジも学校来てたってことは、ネルフ絡みじゃないんだろ?」
「・・・うっさいわねえ。そんなことあんたたちに関係ないでしょ」
 言葉自体は普段通りだが、なんだかいつもと様子が違う。
 なんとなくケンスケはそう感じていた。
 いつもならまっすぐにこちらを見つめてくる蒼い瞳に元気がない。
 というよりかは、なんだか所在なげにしきりに視線が動いている。落ち着きがない。
「そんなことより」
 アスカはかすかに視線をそらして、ほんとに言いにくそうに言った。
「・・・シ、シンジ、知らない・・・?」
 ちょっとうつむいて。
 まったく視線を合わせようとしない。
 トウジはそんなアスカの様子に気づいているのかいないのか、あっけらかんと答えた。
「今日は一緒やないんや。もう自分ちに帰ってるんとちゃうか」
「そ、そう」
 やっぱり変だ。
 落ち着きがない。
「わかったわ。じゃ、じゃあねっ!」
 突然きびすを返すアスカ。
 そのまま脱兎のごとく駆け出して行ってしまう。
「・・・なんやあいつ。シンジといい、惣流といい、今日はけったいな日やなあ」
「なんだトウジ、わかんない?」
「なにがや?」
 マジでわからないトウジ。
 ケンスケはそんなトウジに軽くため息をついていた。
「・・・ま、トウジにそこまで期待する方が酷ってもんか。シンジの様子が違うことに気づいただけでもたいしたもんだもんな」
「あのなぁ、いったい何が言いたいんや?」
「・・・委員長に同情するってことだよ」
「なんでそこでいいんちょが出てくるねん」
「いいよもう」
「よかないわいっ」
「いいからいいから。早く病院行かないと、面会時間終わっちゃうぞ」
「ごまかすなっ! ええか、わしはなぁ・・・」
 いつの間にか陽が落ちようとしていた。
 赤い髪の少女が駆けて行ったほうへ。
 深く。
 静かに。










 空。
 それはいつもそこに在って。
 いつもそこにあるべくして在って。
 ・・・うらやましかった。



 そこにいられるってことが。
 誰にも認められるってことが。
 そこにいることが、当然であることが。



 僕は空をにらんだ。
 僕をにらんだ。
 他人をにらんだ。
 みんなをにらんだ。



 でも。



 なにも返ってこなかった。
 僕には、なにもなかったから。
 最初からなにもなかったから。



 モウイイノ?



 たりないんだ。
 僕にはきっと。
 欠けてるんだ。
 僕にはきっと。



 ・・・ヨクヤッタナ、しんじ。



 でも、見つけたんだ。
 見つけたんだよ。
 僕が、僕でいられる理由。
 僕でいるための・・・
 でも。



 スマンナァ、テンコウセイ。



 僕のせい?



 ワシハ、オマエヲナグラナイカン。



 僕がエヴァに乗ったせい?



 しんじニハイイニクイラシクテサ。



 そうなの?
 僕のせいなのっ?
 ねえっ!?



 ・・・誰か、答えてよ。










「・・・なにこんなとこでたそがれてんのよ」
 驚いて顔を上げた。
 逆光。
 眩しいくらいの夕陽。
 その中に、見知ったシルエットが映っていた。
「・・・アスカ」
 正面。
 夕陽を背にして、アスカが立っていた。
 僕は土手に座ったまま、その真っ赤に染まったアスカの姿を見上げていた。
 その表情は、逆光でよく見えなかった。
「・・・今日は、遅くなるんじゃなかったの?」
 なんとなく目を合わせづらくて、うつむいてしまった。
 アスカは答えない。
 黙って。
 ただ黙って。
 僕を見下ろしていた。
「・・・ねぇ、アスカ」
 だからか。
 つい、ぽろりと言葉が出てしまってた。
「アスカはなぜ、エヴァに乗るの?」
「あんたバカ? こないだも言ったじゃない」
「そうだったね」
「・・・もしかしてあんた、まだそんなことうじうじ悩んでんの?」
「・・・・・・」
「自分で言ってたじゃない。僕は父さんの・・・」
「やめてよっ!」
「・・・?!」
 ぎゅっ。
 膝を抱く手に力がこもる。
 アスカ。
 アスカは、驚いたように言葉を詰まらせてるようだった。
 僕は。言葉。止まらなかった。
 全部、吐き出してしまいたかった。
「父さんの言葉。それさえあれば、これからもやっていけると思ってた。それさえあれば・・・でも。よく、わかんなくなってきた。僕がエヴァに乗ると、傷つく人もいるんだ。僕なんかのわがままで、みんなを振り回すハメになっちゃうんだよ」
 うつむいて。
 ただうつむいて。
「・・・僕なんかのために」
「・・・・・・ッ!」
 瞬間、身体が引き寄せられた。アスカの手が、僕の首筋をひっつかんでいた。
「ひっ」
 短い悲鳴がのどの奥からもれた。
 僕の襟元を締め上げるようにアスカは、僕の身体を無理矢理引き起こしていた。
 アスカ。
 アスカの顔。
 逆光が陰り、歯を食いしばったアスカの怒りの表情が目の前にあった。
「なに言ってんのあんたは・・・ッ!」
「・・・ッ!」
「僕なんかってなによっ! 『なんか』なんて言葉使うなッ!」
 ものすごい力だった。
 ものすごい形相だった。
 アスカに怒られたことは数え切れないほどあったけど、こんなアスカを見たのは、初めてだった。
「・・・アスカ」
「死ぬ勇気もないくせにっ! ほんとは甘えたいだけのくせにっ! そんなこと言うなッ! 絶対言うなッ!」
 蒼い瞳が真っ赤に燃えていた。ううん。違う。潤んでる? 唇が震えてる。
「今度そんなこと言ってごらんなさい! その時は、あたしがあんたを殺してやるッ!」
 こわかった。
 どうしてアスカがそんなに怒るのかわからなかった。
 わからなかったから、止まらなかった。
 ううん、違う。僕はまた、甘えてるんだ。
 だから、止まらなかった。 
「・・・だって、僕にはなにもないもの。ひとが大事にしてくれる価値も、資格も、なにもないんだもの・・・僕は、ここにいていいって、誰かに言ってもらいたかったんだよ。じゃないと僕は・・・消えちゃう」
 うつむく。
 苦しい。
 喉元が熱いのは、アスカに締め上げられてるからだけじゃなかった。
 でも。
 ふっと、その力が緩む。
 アスカが僕の襟元から手をはなす。
 思わず僕は尻餅をついていた。
 一瞬、よぎったアスカの顔が泣いてるように見えた。
「アスカ?」
 見上げる。
 再びアスカの顔は逆光に隠れてしまう。
「んっ」
 手。
 そっと僕に手を差し出すアスカ。
 僕はほとんどパニックになりかけてしまっていた。
「な、なに?!」
「握りなさい」
「え、えっ?!」
「いいから早くっ!」
「う、うん」
 言われるまま、おずおずと手を差し出す。
 その時になって初めて、自分の手が震えていることに気づいた。
 そっとアスカの手を握る。
 震えが伝わってしまうのが恥ずかしくて。
 おもいっきり意識を集中してみるけれど。
 その努力は、やわらかいアスカの手のぬくもりに木っ端微塵にされてしまう。
 あたたかい。
 心地いい。
 ・・・これが、ひとのぬくもりなのかな。
「アス・・・」
 呼びかけようとしたその時だった。
「痛っ!」
 今までやさしく握りしめてくれていたアスカが、その手にいきなり力を込めてきた。
「い、イタイよアスカっ!」
「痛い?」
「すっごく痛い」
「それが、証よ」
「え?」
 見上げる。
 アスカの顔は、やっぱり逆光で見えない。
「あんたは、あたしをつかめる。あたしも、あんたをつかめる。あんたは確かに、ここにいるでしょ」
「・・・・・・」
「ここにいるってことは、ここにいてもいいってことでしょ」
 そっと、アスカは手を離した。
 痛かったけど。
 なんとなく、離れていくその手に未練があった。
 うつむいて僕は、まだじんじんする掌を見つめていた。
「・・・ほんとにバカなんだから。まだわかんない?」
「・・・なんとなく、わかった気がする」
 嘘じゃなかった。
「冴えない返事ねぇ。いいわ。とにかく家に帰んなさい。そしたらもう少しはわかるでしょうよ」
「ど、どうして?」
「いいからっ! 全力疾走!」
「わ、わかったよ・・・っ!」
 弾かれるようにして僕は立ち上がった。
 後ずさるようにして、駆け出す。
 最後にちらりと、アスカを振り返ったけど。
 けど。
 アスカの顔は、やっぱり見えなかった。










 夕陽が沈んでいく。
 川面にきらきらと赤い光が反射している。
 駆けていくシンジの背中を横目に見送って、アスカは小さくため息をついた。
 ごそごそとスカートのポケットをまさぐって、小さな箱を取り出す。
 黄色い包装紙と、赤いリボンに包まれた、小さな箱。
 アスカはきゅっとその小さなプレゼントを握りしめると、一気に振りかぶって、川めがけて放り投げていた。
 箱は、ゆっくりと放物線を描いて、そして。 
「・・・バカ」
 そのアスカの呟きは、箱が水面に落ちた音にかき消されていた。









 空を見た。
 いつかきっと、見つかるかもしれないと思った。










 ドアを開けた僕を待っていたのは、にぎやかなクラッカーの音と、少し調子の外れたバースデイソングだった。
 山のようにかぶせられたクラッカーの帯をゆっくりと手で払ったその向こうに、トウジがいた。ケンスケがいた。
 そして、ミサトさんがいた。
「おかえりなさい、シンジくん。でもって、誕生日おめでとう」
「・・・ミサトさん・・・・・・知ってたんですか」
「知らないわけないでしょ・・・って、言いたいとこだけど、実は忘れてたのよね、ついさっきまで」
 ぺろっと舌を出すミサトさん。
「さっき相田くんと鈴原くんから電話もらってね。仕事ほっぽって慌てて来ちゃったわよ」
「あ、そういえばミサトさん、今日は泊まりだって・・・」
「そんなの明日でもできるわよ。でも、シンジくんの誕生日は年に一回だもんね。それに・・・」
 僕の肩。
 そっと、ミサトさんは手を触れてくれた。
「・・・私たち、家族でしょ」
 息が詰まった。
 のどの奥が苦しかった。
 心地よい、苦しさだった。
「しかし・・・惣流はやっぱ来ぇへんか」
 トウジの声に振り返る。ぼやきつつ、トウジは手にした大量のクラッカーの束を隣のケンスケに押しつけていた。
「さっきそこで、会ったんだけどな」
 同じくぼやきつつ、ケンスケはクラッカーの束をゴミ箱に捨てる。
「知ってるようなそぶりだったんだけどな。今日のこと」
「え?」
「ほんまかケンスケ?」
 シンジの言葉を、トウジがさらってしまう。
「なんや、知っといて来ぇへんのかいな。ほんま、薄情なやっちゃで」
「・・・・・・ま、いろいろあるんだろ」
「それにしてもプレゼントくらい用意しといてもやなぁ・・・」
「いいんだ」
「・・・?」
 トウジとケンスケ。
 ふたりの顔を見て。
 僕は、自分の掌に視線を落とした。
「アスカにはさっき・・・もらったから」
 じっと手を見て。
 思い出す。
 それはとても痛烈だったけど。
 とても、あたたかかった。
「なんやシンジ、にやにやしよってからに」
「ああっ! まさかお前惣流と・・・っ!」
「ばっ、ちっ、違うよっ!」
「ほんとかあああ? あ・や・し・い・ぞおおおおお?!」
 思い出す。
 なんとなく、アスカの言ったことが、わかったような気がした。
 痛いけど、あたたかい。
 痛烈なやさしさ。
 だから、今だけは。



『よくやったな、シンジ』



 今だけは、その言葉を忘れられる気がした。






終劇

吉田@y:x です。
漣 たきをん さん、投稿ありがとうございます。

一人称三人称の交替、内的世界と外的世界の交替などいかにも漣さんらしい作風、 爆発する感情の表現の真にせまる迫力、上手いですね。 アスカの、怒った裏でのシンジへの声がものすごくよく聞こえてきました。
形容句語彙が乏しい身からすると、限りなく羨ましいものがあります。

彼の作品は 「Verse For EVANGELION」 にて、「EVANGELION SACRIFICE」、「あしゅかでしゅから」、「CARROT NEON GENESIS EVANGLION (... キャロのフルネームなんて言うんや ^_^;)」の三作品他を読むことができます。
ところで、毎日つけてらっしゃる日記の 11 月末あたりでは、... 「いつか、世界が終わるまでに」 の執筆や題決めの苦労やらなんやらが時々混じっていたりしまして、 なかなかやきもきさせていただきました ^_^;

「いつか、世界が終わるまでに」の感想は こちらへ: 漣 たきをん さん<takiwon@big.or.jp>


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