消化試合

「ちょっと暑いわね。」

彼女は記録係に文句を言う。 奨励会員の間では彼女はやたら注文が多いことで有名だった。 これで今日何度目だろう。 彼女より明らかに年上の記録係は、またかという顔で渋々立ち上がる。

目の前の盤面しか見ていない彼女は、そんな記録係の不満には全く気付かない。

『おかしい。どこで間違えたんだろう。』

対局中に過去の指し手をさかのぼるのは時間の無駄。 そんなことは分かりきっていた彼女だが、どうしても前の局面が頭から離れない。 悪いと気付いた瞬間から頭に血が上ってしまっているのが自分でも分かる。 今日の相手にはどうしても勝ちたかったのだ。

『あそこまでは私の方が良かったはずなのに、、、』

ここは特別対局室。広い部屋に2人の対局者と記録係がいるだけ。 彼女の扇子を弾く音だけがやたら響く。 彼女は、エアコンを調節して戻ってきた記録係を一瞥した。 記録係ははっとしてストップウォッチと記録用紙を確認する。

「惣流7段、残り27分です。」

彼女は記録用紙を手に取った。 4手前の、考慮時間わずか2分で指した手が怪しいと彼女は漠然と考える。 とはいっても他のはっきり良い手が浮かぶわけでもない。 ただ、あまりにも安易に選択した手だったから。

一番ミスしやすいのはほんのわずかの優位を自覚したとき。 そこで平常心でいられるかどうかで彼らの将来が決まる。 時間の使い方に今日の精神状態がはっきり見て取れて彼女はさらに不愉快になる。

『まだまだ未熟ね、、、』

記録用紙を返そうと手を伸ばす。ふと、対局者の欄に目が留まった。

先手 綾波レイ棋聖
後手 惣流・アスカ・ラングレー7段

対局相手の肩書きを見ながら幾分自虐的にアスカは思う。

『やっぱりこの部屋はいいわね。大部屋とは大違い。レイに感謝しなくちゃ。』

特別対局室は基本的にA級棋士、タイトル保持者が使う部屋。 もっともアスカも来期からはこの部屋の常連になるはずだった。 B級1組で10連勝のアスカは既にA級昇級を決めており、 今日はその11回戦である。 例年は昇級争いが激しくなる時期だが、 今期のB1はアスカとレイが10連勝し2つの昇級枠が既に決まってしまったため 、 まわりの興味は降級争いに絞られていた。

『まさに消化試合ね。』

ふとアスカは下の大部屋で対局しているはずの少年のことを思い出す。

『バカシンジはどうなってるのかな。』

C級1組で8連勝中のシンジは今日勝てばB級2組に昇級できる。 今日負けてももう一局チャンスがある。 客観的にはかなり有利な状況ではあった。 B級に上がれば一次予選を免除するタイトル戦は多い。 そうすれば、シンジの勝率ならタイトルだって手が届く。 目の前のレイのように。 アスカはそう思っていた。

『どうしてあんなにここ一番に弱いんだろ。 あの時も、あの時も、、、。 あれじゃ勝率がいくら高くても意味無いじゃない、、、』

シンジの勝負弱さを示すエピソードには枚挙にいとまが無かった。 シンジは4度目のチャンスでようやくプロになったのだ。 去年の昇級だってライバルがことごとく負けてくれたおかげの他力昇級だった。 シンジ自身は昇級のかかった一番をいいところなく負けていたのである。


「どうしてあそこで攻めないのよ!」

『いつも通りにやればいいのに。』

そのとき私はシンジを怒鳴りつけていた。 なぜか無性に腹が立って仕方が無かった。 負け方があまりにもひどい。 最初から引いちゃって、勝つ気があったのか疑いたくなった。 なぐさめるなんてとてもできなかった。

「ごめん、、、」
「あたしに謝ってもしょうがないでしょっ!」

うなだれるシンジを引きずるようにして家に帰った。 シンジは部屋に引きこもって出てこない。

『まだ可能性は無くはないのよね、、、』

時間がたつにつれて、多少は冷静さを取り戻す。

『どうしてあんなに怒鳴り散らしちゃったんだろう。』

連絡があったのは午前2時過ぎ。 候補者が次々と負け、最後のイスがシンジに転がり込んだのだ。

『良かった、ほんと良かった。他力昇級でもなんでもいい。おめでとうシンジ。』

シンジの部屋の前に駆けつける。でも、口から出たのはこんな台詞。

「良かったじゃない。悪運だけはほんと強いわね。」

ばつが悪くて、これでも精いっぱい祝福したつもりだった。 さっき怒鳴ったりしなければ一緒に喜べたのかな。 涙が出てきた。うれしいのか悲しいのか良くわからなかった。

「うん、、、」

部屋からシンジの声が聞こえた、ような気がした。


「惣流7段、残り20分です。秒読みは何分から、、、」

記録係の声に、アスカははっとし我にかえった。

「10分から、、、40秒だけ読んで。」

『集中力が無いわね。全く、、』

ふと視線をあげると、レイと目が合った。 こころを読まれたような気がして慌てて目をそらした。

『気合い負けまでしちゃってもう最低!バカシンジのせいだわ。』

アスカは気を取り直して、真剣に読みを入れる。 とはいえ、プロにとって終盤の入り口での一手の差は致命傷だ。 ましてやレイは機械のような終盤の正確さが特徴。 アスカは自分の不利を再認識せざるを得なかった。

『相手がレイでなけりゃ、ここから力任せに暴れて何とかするのに。』

前回のアスカとレイの対局は棋聖戦の挑戦者決定戦。 あの時も終盤入り口でレイがわずかにリードした。 形勢は今日よりずっと微差。 しかしアスカはこのままでは負けると判断し、猛攻を仕掛けた。 レイの受けは精緻を極めた。 アスカはほとんどの攻め駒を失った。 アスカの囲いは無傷のまま残ったが、 攻める手段が全く無くなり投了はやむをえなかった。 これ以上指し続けては全ての駒を取られかねない。 レイが受け切った後には草木も生えないと棋士の間ではいわれるが、 それを思い知らされた。

レイはそのままの勢いを持続し3−0であっさり棋聖を奪取した。

『あんな負け方はもういや。』


「ちょっと、攻守のバランスが悪いんじゃないの?」
「あんたなんか逃げてばっかじゃない。バカシンジのくせに。 あたしに意見するつもり?だいたい、あんたまだCクラスじゃないの!」

『あ、、、私、なんてこと、、、』

「ご、ごめんなさい。」

消え入るような声で私は謝った。 既にシンジは席を立っていたけれど。


アスカは気分転換に立ち上がる。

『ちょっとだけならいいかな。』

対局室を出て、控え室へ向かった。 そこでは今日の主要な対局の検討がされている。 シンジの対局は昇級にからんでいるから、必ず並べられているはずだった。

アスカが控え室に入っていくと、部屋の隅で盤面を慌てて崩しているのが目に入る 。

『私の対局か、、、あんな出来じゃ検討する価値も無いわ、、、』

特別対局室の盤面は控え室にモニターされているので、検討の対象にしやすい。 そうでない場合は、時々棋譜を仕入れて来なくてはいけない。 もっとも、ここにいる連中は一瞬で複数の盤面を覚えてくるから、 大きな差は無いといえば無いのだが。

「なんだ、アスカじゃないか。今大事なとこじゃないのか?」
「加持先生、、、」
「シンジ君の対局なら、ちょうど並べてるところだ。見るか。」
「べっ、別に」
「弟弟子の対局なんだ。見てもバチは当たらないだろう。」

加持もアスカの持ち時間がそれほど無いことを知っている。 これ以上からかうつもりはなかった。 アスカは盤面を覗き込んだ。

「どっちがシンジ?」

アスカは思わず聞いた。 夕食休憩時に見たときの原形を全くとどめていない。

『いったい、あれからどうすればこうなるわけ?』

「こっちさ。シンジ君の手番。」

加持が示したのは一方的に攻め込まれている方だった。 とはいえ、受ける手は幾つも有りそうだ。 必ずしも攻めている方が勝っているわけではないのだ。 意に反して攻めさせられることもある。

『少なくとも、私よりは良さそう。というより、この攻めは無理筋ね。 ややシンジ有利かな。本人が自覚してればだけど、、、』

アスカはちらりと時計を見た。5分経っている。

『そろそろ戻らなくちゃ。せめて次のシンジの指し手を知りたいけど、 仕方ないわね。』

「私、対局室に戻ります。」
「ああ、こっちは任せといてくれ。」

任せてどうなるのか、と思ったがおとなしく戻ることにした。


「惣流7段、残り10分です。」

アスカが特別対局室に戻ると、記録係から声が掛かる。 アスカはゆっくりと盤の前に座った。 そのとき、ちらっとレイをみたが、レイは盤面をじっと見つめているだけだ。 あらためてアスカは駒がぶつかっている場所を見、双方の持ち駒を確認する。

「、、、」

アスカは正面から声が聞こえたような気がして顔を上げた。 目の前には青い髪の少女が座っている。

「なに?珍しいわね。あんたから話し掛けてくるなんて。」
「碇くんは、、、」

アスカはむっとした。 まずレイがシンジの対局結果に興味を持つこと自体気に入らないし、 何といってもシンジの様子を見に行ったことを見透かされたことに我慢できなかっ た。

すぐには答えず、駒台に手を伸ばす。 なけなしの金を自陣に打ち付けながら言った。

「自分で見てくれば。」

『私は嫌な女だ。』

言った後アスカは自己嫌悪に陥った。 レイの残り時間は10分を切っていた。 見てくる時間など無い。 それを知っていたのだから。


「50秒、、、、、、碇5段、残り5分です。」

記録係の声が響く。

『今日決めないとちょっとまずいよな。今日はアスカもいるし、 またどやされるのかな。』

一瞬アスカの怒った顔が目に浮かんだ。

『しばらく受けるしかない、、、いや、攻める手も無くはない、、、 でも、読みきれない、、、入玉をちらつかせて粘れば、 とりあえずすぐに負けることはない、、、でも、たぶん最善じゃない、、 下手すると指し直しで夜が明けるかも。』

再び50秒の声が聞こえたとき、シンジは静かに8五に歩を突いた。 長期戦を覚悟した手だった。


レイの指し手に微妙な狂いが生じた。 それはほんの小さなほころびだったが、アスカがやる気を取り戻すには十分だった 。

『動揺したの?こんなこともあるのね。レイがミスをするなんて。』

アスカはそんな場面をほとんど見たことがなかった。 とはいえ逆転したわけではない。 読み切ることができない程度に差が詰まっただけだ。

『あんた、シンジのことが気になるの?そうかもね、 あんたが追い出したようなもんだし。』

シンジがなぜ、その父である碇ゲンドウではなく、 よりによって冬月一門の加持の弟子になったのか、詳細をアスカは知らない。 誰も教えてくれないから。 だが、 シンジと碇ゲンドウの間になんらかのわだかまりがあることは薄々気付いていた。 そのことと、 ゲンドウがレイを内弟子にしたこととは関係があるとアスカは思っている。

『だからシンジはレイが気になる、、、』

アスカはレイをにらみつけた。 レイはうつむいていた。 レイの目の下にアスカの手が伸びる。 アスカの駒がレイの陣地に殺到する。


「同一局面4回目です。千日手となります。」

『千日手か、、、』

シンジは記録係の声をぼんやり聞いていた。

『不利な状況から指し直しに持ち込んだんだ、これで良かったんだ。』

必死で自分に言い聞かせた。 本当は勝ち筋があったことに途中で気付いたのだが、後の祭りである。 助かったのは相手なのだ。 自分が不利だと勝手に思い込んでいた。

『アスカなら攻めまくっただろうな、、、いや、アスカならあのぐらいの局面で、 負けてるなんてこれっぽっちも思わないんだろうな。だから勝ち筋を探せるんだ。 』

シンジの対局は、一時間の休憩をはさんで指し直しとなった。 既に午前1時を過ぎていた。

『アスカはもう終わったのかな、、、綾波が相手、、、どんな試合だったんだろう 。』

シンジは控え室に向かった。小走りで。


あれだけ大差だった局面が、今は形勢不明といっていいほどになっている。 アスカは前傾姿勢となり、視線が盤と駒台の間を激しく行ったり来たりしている。 レイも顔を紅潮させていた。

『次で200手か、、、自己新記録ね。シンジはもう終わったのかしら。』

秒読みに追われながら、アスカはちらっとそんなことを思う。 夕食休憩時に準備したミネラルウォーターは既に空である。 次第に体力勝負の様相を呈してきた。


「まだ終わってないって、、、?」
「見ての通りさ、シンジ君。」

シンジは加持が指差したモニターを見た。 盤面だけが写っている。 すっと画面の下方から白い手が伸びてくるのが見えた。 彼女の竜が後手玉に迫った。

『綾波、、、』

「すごいだろう、シンジ君、駒柱が3度もできたんだ。」

笑いながら加持は言う。 駒が1列に9枚並ぶのが駒柱。 意地の張り合いでお互いが狭い領域に駒を投入しないと実現しない。 プロ同士の対局では極めて珍しいこと。 シンジは軽くうなずいて、モニターを見つめ続けた。 形勢不明の局面は、しばらく変わりそうも無かった。

『苦しいけど面白い、、、こんなふうにいつも指せれば、、、いいんだろうな。』

対局再開時間が近づいてきた。 シンジは対局室へ行こうと立ち上がった。 振り返ってちらっとモニターを見た後、軽くうなずいて控え室を出た。


「40秒、残りありません、、、、50秒、1、2、3、4、5、6、7、8、9 」

記録係の声が上ずる。 60秒まで読まれたら時間切れの負けである。 アスカもレイも時間を使いきっていた。 59秒まで読まれて、レイが5三銀と打ち込む。 アスカにはレイの手が震えていたように見えた。 駒が曲がって、桝目に正しく入っていない。

『レイはまだ読み切っていない。』

それでも、レイは自玉の安全をほぼ確保することでアスカを追い込んでいった。 アスカが勝つには指し直しに持ち込む必要がある。 可能性は五分五分。 入玉は果たせそうだった。 問題は駒の数。 規定の枚数を満たさなければ、負け。

それから20手ほどの応酬の後アスカの入玉が確実になったとき、 この対局は王を取るゲームから駒の数を競うゲームへと完全に切り替わった。

『ああ、もう気が狂いそう。』

アスカは両手で扇子を握り締めている。 無意識に捻ってしまうため、新品の扇子も既に骨組みが痛んでしまっていた。

『シンジは得意なのよね。こんな場面が。そしてレイも、、、』

アスカの駒数は規定枚数に1枚足りなかった。 入玉するために駒を犠牲にしすぎたから。

『レイはいつからこの形を想定してたのかしら、、、できすぎだわ!』

どこかで駒を確保しないといけないが、レイは頑強にそれを許さない。 いや、レイもアスカの駒を取ろうと攻めてくるのだ。 アスカはやや守勢にまわっていた。 レイは駒数が多いので、アスカより余裕をもって攻められる。

「ちっ。」

扇子の折れた骨が手に食い込んで、思わず声が出た。

『ったく、もう。しつこいわねっ。』

盤面全体で小競り合いが続く。 駒数で劣るアスカは、 レイと対照的に絶えずトリッキーな手を捻りださなくはならなかった そんな手順がいつでも存在するとは限らない。 次第に、アスカは自分の駒が取られないよう守ることで精いっぱいになってきた。

『!』

ついに、盤の隅の方でアスカの歩が詰められた。 この局面では歩1枚が王に匹敵する価値を持つ。

「30秒、、、残りありません。」

「40秒、、、残りありません。」

「50秒、1、2、3、4、5、6、7、8」

秒が読まれる。 アスカは、思い切り桂馬を打ちつけて、レイをにらんだ。 しかし、それは闘志にあふれた目ではなく、負けを覚悟した悲しい目だった。 桂はほとんど意味の無い場所に打ちつけられていた。

その桂を見た後、レイの視線は宙を泳いだ。 軽く眉をひそめ、首を少し傾け、そして静かに同角と桂を取った。

アスカ、投了。 午前3時をまわっていた。 指し直しを含まない一局としては異例の長さである。 二人ともしばらく呆然としていた。

「同歩ならどうだったのかしら。」

アスカがつぶやいた。 それだけで、レイはアスカがどの局面を言っているのか理解した。 レイは答える代わりに駒を並べはじめた。 アスカも自陣に手を入れ、問題の局面が再現された。

「そう、その手が嫌だったのよね。」

この二人の感想戦はいつもアスカが一方的に話す。 レイはアスカの問いに対して静かに駒を動かすだけ。

『さすがによく読んでいる、、、下手なことは言えないわ、、、』

幾つかの枝が検討されては消えていく。 結局アスカの明確な勝ちの手順は出てこなかった。

「良くて形勢不明か、、、」

感想戦はそこで切り上げられた。 レイのミスがなければ一方的な試合だったことは分かっていた。 ただ、その後切れてしまわずに踏ん張れたことにはある程度満足していた。 消化試合だったせいもあるのかもしれない。

『次は負けない。』

ようやくアスカは興奮状態から解放されてきた。 急にシンジの結果が気になった。

『すっかり遅くなっちゃったわ。』

アスカは控え室に走った。 誰か一人ぐらい残っているだろう。


予想に反して控え室ではまだ十人ほどで検討が続けられていた。 加持は隅の方で仮眠を取っている。

「ね、シンジはどうなったの?」

一人が検討中の盤面を指差した。

「まだ終わってないの?」

アスカは素っ頓狂な声を上げた。

「シンジ君も同じことを言ってたよ。」

大声に目を覚ました加持が、起き上がりながら答えた。

「指し直しさ。千日手でね。」
「千日手指し直し?どうして?打開できなかったの?」
「いや、最終的に千日手に持ち込もうとしたのはシンジ君だよ。」
「はぁ?」

そう、やや有利な局面で大事に行き過ぎるのがシンジの欠点といえば欠点。 シンジらしいとはいえるのだが、 それにしても何とかならないものかとアスカは思った。

指し直し局は今、終盤の入り口。

シンジ、2八飛打。

「なんだぁ、これじゃ終わりじゃないか。」
「諦めが早いなぁ。」

あちこちから失望の声が上がる。 彼らは別にシンジを応援しているわけではない。 わざわざ夜遅くまで検討したのだから、少しでも面白い対局を期待しているだけだ 。

『違う、私には分かる。これは罠、まだあきらめてなんかいない。』


はじめてシンジと対局したのは小学3年生のとき。 シンジが初めて加持さんに連れてこられた日だ。 シンジは泣きそうな顔をしていた。

『なにが悲しいんだろう。ここに来れば強くなれるのに。』

「じゃあ、アスカ、挨拶代わりに一局指してくれないか。手加減無しでやってくれ 。」

その対局の後、今度は私が泣きそうな顔をしていた。 私に勝てる小学生がいるなんて夢にも思わなかった。 つまらないミスが原因だった。 ただの事故だと自分に言い聞かせた。 ミスを誘発させるのがシンジの棋風だと気付いたのは、随分あとのことだった。


むしろ、 シンジの場合わずかに不利だった対局の方が勝率が高いのではないかとアスカは思 う。 そんな場面でのシンジの指し手はすごく怪しい。 これだけははっきりかなわないと、アスカは認めざるをえない。 シンジの精神はかなり屈折してるに違いない。 どうすればあんな局面を作ることができるのだろう。 異常に多い選択肢。 そのどれもがもっともらしい。 それなのに正解は一つだけ。 こんな局面で手を渡され続けると相手の疲労はかなりのもの。 どこかで必ずミスを犯す。 逆転勝ちのお手本。

『なんだかんだいって、親子そろっていやらしい局面が好きなのよね。 ただ、シンジの方がずっと上品。』

『レイと対局したらどうなるのかな。あの精密機械もミスをするのだろうか。 今日のように。』

単に棋士としてならば、アスカはシンジとレイの対局を見てみたかった。 それはレイがプロになってからは一度も実現していない。クラスが2段階違うから 。

『でも、、、』

二人の波長が合ったとき、その棋譜は最善手を紡いだ美しさを持つものだ。 それは棋士にしかわからない、しかし棋士ならば誰の目にも明らか。

『そんなの、見せつけられたくない。』

アスカはシンジ、レイの両方と対局したことのある数少ない棋士の一人。 特にシンジとは練習で数え切れないほど対局している。

『一見特徴は違うけど、、、あの二人の読み自体はすごく近い、、、 ような気がする。きっと、、、』

アスカはふいに現実にかえった。 指し手が伝わってきたのだ。 3三角成。 一見当然の一手に見える。 これでシンジの玉は適当な受けが無い。 部分的には必至ではないか。 なにしろ頭金が受からない。

『こんな簡単な手を想定しないはずが無い、、、なにを狙ってるの、、?』

「受かってる、、、」

小さな声がした。聞こえたのはアスカだけ。 いつのまにかレイが後ろに立っていたのだ。

次の瞬間、シンジの、そしてレイの読み筋がアスカにはわかった。

「受かってるわ!」

アスカは思わず声をあげた。
検討陣が怪訝な顔でアスカを見る。

「10手も進めばはっきりするわ。3二歩で受かってる。」

アスカは手順を省略して投げやりに答えた。 すぐに理解できたのはレイを除けば加持だけだった。 指し直し局は持ち時間が少ない。 既に秒読みに入っているから、手順はすぐに明らかになった。

「なるほど、こいつは盲点だな。さすがにシンジ君だよ。」

いつのまにか感嘆の声があがっていた。 アスカは自分が誉められたようにうれしかった。

この世界では、強さを見せつけることが必要なのだ。 そして、自分の評価を上げておかなくてはいけない。 そうしておけば、次に対局するとき相手は諦めが早くなる。 際どい場面で勝手に自滅してくれるかもしれない。

『これでシンジはもっと勝てるようになる、、、』

アスカがふと振り向くと、レイはもういなかった。


『勝った、、、』

これだけ重要な勝負に勝ったのは何年ぶりだろう。 今日のようにいつも指せたら。 シンジは思う。


『終わった、、、良かったね、シンジ。』

対局を終えたシンジが控え室を覗き込んだ。 シンジの髪は乱れており、ちょっと朦朧としているように見える。 もう午前5時近かった。

『今日は学校サボっちゃおう。ごめんねヒカリ。』

「帰るわよ、バカシンジ。」

『なんだ、これじゃ勝っても負けても同じじゃないか。』

シンジは思う。

「アスカはどうだったの?」
「あんたばか?今日は消化試合だったの。結果なんかどうでもいいのよ。」

シンジはそれ以上聞くのをやめた。

『大体アスカが勝ってたら自慢しないはずが無いよな。 でも、そのわりには機嫌は悪くないみたいだ。』

「帰ろうか。あれ、加持さんは?」
「このまま泊まるみたい。朝から指導対局があるんだって。」
「それじゃあ、ミサトさんまた荒れるね。」
「いつものことでしょ。」

周りを見渡すと、いつのまにか控え室は二人だけになっていた。

『今言わなくちゃ、、、去年の分も、、、』

アスカはシンジのすぐ目の前で言った。少しだけうつむいて。

「昇級、、、おめでとう、、、」
「え、あ、ありがとう、、、」

あらたまって言われて、シンジは何か言わなくてはとあせった。 盤と駒が既に片づけられていることも、シンジを少し不安にした。 盤を挟まずにアスカと二人きりになるのは、めったにないことだったから。

「ねえ、アスカ。」
「なに?」

アスカはちょっとだけどきどきした。

「あの、その、、、目隠し将棋・・・しようか?」
「・・・・・・バカ・・・」

ここまで

吉田@y:x です。
佐藤さん、投稿ありがとうございます。

佐藤さんは物書きではなくROMとのことで、 なんとなくできてしまったとおっしゃられていましたが、 ラストの落しどころまできちんと目が行き届いていると思いました。
試合中もアスカの影におびえる、 あるいは間が持たなくなって将棋やろうと言い出すシンジが良いです。
レイに完全に頭を押えられた格好のアスカのこれからの奮起に期待します > 佐藤さん

ところで、この話、将棋界のことを知ってないと底の深さが読み取れないんではないか と多少、心配なんですが大丈夫かな? たとえば、

「4 度目のチャンスにようやくプロになれた...」
というのは、本人の粘り強さもさることながら、周囲に相当な胃潰瘍患者を生んだことでしょう。 プロへの登竜門に挑む機会は 1,2 度がせいぜいです。
# というあたり、確かそうだったよな、と思って佐藤さんに確認とってしまいました(Thanks)。

もともとのストーリーは「冬月VSゲンドウの名人戦」とのことで、 また書いてみたいとのこと(ものすごく意訳:-)、 ちゃんと背中を押してあげましょう。

「消化試合」の感想は こちらへ: 佐藤さん "Satox" <satoxk@xa2.so-net.or.jp>


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