「紗南ちゃん ...」
「え?」
「行こうよ、ニューヨーク」
「え ...」
「僕、前に CM の撮影でニューヨーク行ったことがあるんだけど、
  すっごくおもしろかったよ?
  何もかも新鮮で、斬新で。
  なんか、体の中の乾電池を入れ換えちゃった感じでさあ ...
  ぼくたちさあ、あんなにたいへんだった『水の舘』、やりとげたよね?
  できるんじゃない?
  もっともっと何か ...。やろうよ、紗南ちゃん、二人で!」
「は、...」

電話を通して聞こえる直澄の、心の底からの声に、
紗南は目を閉じて軽く微笑みを浮かべた。

「... ん、直澄君てすごいね、前向きだね ...」
「紗南ちゃんの影響だよ」
「え?」
「ずっと紗南ちゃんに影響されてきたんだ。
  .... だから、なんだか沈んだ紗南ちゃんは、見たくない」
「....」
「逃げちゃおうよ」
「え」
「逃げちゃおうよ、ふたりで」
「逃げる ... ?」
「逃げちゃおう? 二人で ...」


........ 逃げちゃおうよ ... 紗南ちゃん .... 逃げちゃおう? ............
「紗南ちゃーん!」 「紗南ちゃーん!」 「紗南!」 「紗南ちゃーん!」 空港、搭乗口へむかうムービングロード、紗南と直澄が取材を受けているその背後に、 紗南の聞き馴染んだ声。 後ろから風花の、剛の、亜矢の、そしてひさえの声。 「紗南、なんでや、なんで誰にもゆえへんかったんや?!」 ムービングロードの紗南に合わせて小走りになりながら、風花が問うた。 「風花 ... みんな ...」 「待ってたんだよ? 紗南ちゃんが学校に来るの ...」 「待ってたんだよ ... 紗南ちゃん」 「ごめん ... みんな ... ごめん」 彼らに、ニューヨーク行きのことは知らせていなかった。 ただひたすら逃げていたから、.... そして今も逃げようとしていたから。 約束していた学校には、行かなかった ... 行けなかった。 特に風花を顔を合わせることはできなかった。 それでも会いに来てくれたのだという思いはあったから、紗南はしっかりと四人を見つめた。 「いつごろ、いつごろ帰れるんや!? 紗南!」 風花の叫びもまた、親友のそれだった。 「わからないの ... 今回は」 公演日程は聞いていた。けれど、 たったそれだけしか空けずに、また、羽山と、 そして風花と顔をあわせるつもりは無かったから .... 紗南にもどれくらいで帰れるようになるか、分からなかった。 「分からないの ....」 搭乗口ムービングロード脇の、見送り人用歩道の末端。 風花や剛たち四人は、もうそれ以上、前には進めなかった。 「はよ帰ってきいや? 紗南、はよ帰ってこいや!」 「ん」 風花の言葉に紗南はしっかりと頷いた。 確かに自分はまた、ここに戻って来ると言えそうな気がした。 今もまだ風花にとって自分は親友だと、言ってもらえそうな気がしたから ..... あんなことがあったのに。 「まっとるで? 紗南!」 「うん」 風花の言葉に紗南が再び頷いたその時、剛を押し退けるようにして、 割り込んで来た人物がいた。 羽山! 紗南はそのまま、羽山から目が離せなくなった。 羽山もまた、紗南のことを見つめていた。隣に風花が居るのにも気がつかずに。 紗南の視線が風花の右に少しずれている。風花は隣を見上げて、 何時の間にかそこには羽山が来ていたことを知った。 本人達はそうは言わないだろうけれども ... 風花が居るのを忘れたように見つめ合う羽山と紗南。 遠ざかる紗南に、手摺に身をのりだす羽山。 そんな羽山の左手にそっと自分の手を重ねる風花。 重ねられても、その手は動かない。羽山の視線も動かない。 風花もまた、それ以上のことを羽山に求めなかった。 ただ、手を重ねたまま唇を一文字に閉じて紗南を静かに凝視していた。 さっきまでの風花では無いのだと、.... 紗南は思う。 自分はやはりここに居てはいけないのだと ... だから、羽山が紗南から眼を離さずに風花の手を握り返した時。 紗南はそれを当然のことだと自分に言い聞かせつつ、 正面に向き直るように羽山から眼をそらした。 これは紗南自らが招いたことであり、そして自分から羽山の手を振りほどいたにせよ。 それでもやはり悲しかった。顔を上げることはできなかった。 羽山が風花の手をとった瞬間に驚いて眼を見開いた自分、 どこかになお羽山に期待していた自分がいたのを知った苦みさえ、どうでもよかった。 直澄は、そんな無言のやりとりを紗南の背後から無表情に眺めていた。 羽山が紗南でない娘の手を握り返すのも見ていた。 羽山の隣に紗南が居ないというこの成行きを、直澄は紗南自身より良く理解していた - 多分、羽山と同じくらい。 だからといって、もう羽山に問い直すつもりはなく、 直澄は俯いたままの紗南の手をそっと握った。 もうこれで羽山と逢うことは無いのだと ... 思い詰める紗南の手を包んだものがあった。 直澄の手だった。顔を上げる紗南に、僕が居るよと、眼で答える直澄。 そして直澄は羽山を正面から見つめる。それにつられるように紗南もまた、 しっかりと顔を上げて、手をとりあったままの羽山と風花に向き直った。 「羽山は風花を ... 選んだんだ」 そして紗南は、もう後ろを振り返ることはなかった。 見送る二人は手をとりあったままそんな二人の行く末を見つめていた。 振り返ってくれることを期待していたわけではなかったが ....
紗南を乗せたニューヨーク行きの飛行機が離陸する。 羽山は独り、その離陸を眺めていた。 考えるのは苦手だった。 紗南は好きだった。今でも好きなんだと思う。 それでも、風花の手をとったことが間違いだとは思わない。 割り切ったつもりでいる自分が、しかし今どういう顔をしているか、 羽山は知らなかった。 置いてきぼりの仔犬のような表情をしていたことを、 紗南も、そして風花も知らなかった。 66 話 完