Genesis y:1.1 決意
"My children"


「アスカ ‥‥」

ミサトは久しぶりに訪れた病院で、アスカに変化が無い事に安堵した。
すっかりこけた頬。色褪せた感じまでする髪。眼は開いているのに、 すっかり光の抜け落ちた目。そして右腕の点滴チューブ。 その右腕は、ほとんどレイの腕かと思う程に青ざめている。 ‥‥ まだレイの方が健康な肌にみえるかもしれない。

「違うか ‥‥ あたしは、 治りかけてないことに、落胆しなきゃいけないのよね ‥‥」

アスカは無言。

「でも、あと一週間よ。あと一週間で、あなたはまた、 あたし達に話しかけてくれるようになるわ」

無言。

「‥‥ 向こうでは、あたしは先生やんのよ。あんたたちの学校での態度は、 報告を受けてるわ。他人事だと思って笑ってたけど ‥‥
まさか、自分にまわってくるとはね。おてやわらかにね ‥‥ アスカ」

無言。

「向こう」のことをミサトは反芻した。とくに記憶の扱い。
ミサトがこの計画のこの部分を読んだ時は驚いた。洗脳ではないのか? ということ。
アスカをここまでボロボロにしておいて、 洗脳してまでまだセカンドチルドレンとして使いたいのか!? ということ。
いまだに顔を会わせていないので、 彼女が何を思ってこんな計画を立てたのか、ミサトには分からない。
せめて、‥‥ この計画がアスカによかれと思ってしていることだ、 とただ、その一点のみを祈るばかりだった。

「でも、アスカ ‥‥ あたしも、嫌なのよ。ほんとは ‥‥ こんなの。だから、 今、目覚ましてよ ‥‥」

今、目を覚ましてくれるのなら。計画は大幅な変更をよぎなくされる、かもしれない。

「あたしじゃ、やっぱり、だめか ‥‥ 保護者失格ね ‥‥ ほんとに。 ごめんね。アスカ。今、シンジ君をここに連れて来ることは、出来ないの」

同じく記憶調整の量を最少限にするため、 碇シンジへの、現在の惣流アスカの知識はできるだけ抑えられていた。
一瞬、震える腕。アスカの視線がミサトを向いた。

「アスカ? あたしが ‥‥ 分かる?」

無言。

「だから! みんな! アスカのこと! 待ってるんだからね!」

無言。

「‥‥ それじゃ、来週、向こうで」

ミサトは振り返ることはなかった。
明日、初めて彼女と話す機会を得る。その時にアスカのことをぶつければいい‥‥


初の打ち合せが実験開始一週間前。
おそろしくあわただしい準備のさなかの電話による打ち合せ。

『‥‥ と、いうところかしら?』
「そうですね。分かりました」

これで公式の打ち合せは全部すんだ。ミサトは息を吸った。
さあ、ここからだ。

「‥‥ ところで、あの、碇博士?」
『はい?』

向こうで首を傾げて微笑むユイを見て、 半ばこの質問が予期されていたことをミサトも知った。
ならば存分に!

「なぜ、‥‥ アスカなんです? なぜ、シンジ君なんです?
あんなになった彼らを ‥‥ なんでそっとしといてあげられないんですか?」
『葛城さん。その責任は、あなたにあるのであって、私にあるんじゃないわ』
「それは、‥‥ 分かっています。だから、せめてあたしは、 二人にこれ以上、干渉して欲しくないんです。もし、二人の利用、 みたいなことを考えておられるのでしたら」
『二人の利用、ね。もちろん、そういう話で上の方を説得したのは確かよ』
「上? 碇司令ですか?」
『もっと上。
もし、葛城さんがそう思うんだったら、 がんばって守ってあげればいいんじゃない?
私が、何を考えてこの計画に惣流アスカを使うことにしたか、 あなたが知る必要があるの?』
「はい。あたしは、この半年の、彼らの保護者です。どんなに出来の悪い、 保護者だったとしても。シンジ君はともかく、アスカについては、 ユイさんではなく、あたしが今でも保護者ですから。
そのアスカを洗脳しようという計画、その意味。 あたしは説明を受ける権利があります」
『そうなの? 出来の悪い保護者だと自覚していて、
しかも今の二人の状態に責任があって、それでなお、そういうことを言う?』

ミサトは顔を歪めた。次の一言は、勇気が要った。

「‥‥ はい。あたしが、保護者としてやるべきことをやった、とは言いません。
でも、だからといって ‥‥」

一瞬、目を閉じて。

「ここで ‥‥ 黙って二人への洗脳を受け入れる訳にはいかないじゃないですか ‥‥
‥‥ そんな、それこそ、保護者失格じゃないですか!
あたしが ‥‥ 二人の心配しちゃ、いけないんですか!」
『「心配」‥‥ ね。心配するだけなら誰でも出来るわよ。葛城さん。
たとえば、惣流アスカが入院する前。
あなたやシンジには惣流アスカの症状悪化を食い止めることができなかった ‥‥
二人して心配してたかどうかまでは記録に残ってないけど、 今の話だと、一応、心配位はしてたようね。
で、「保護者として」なんで何にもしなかったの?』
「‥‥ それは ‥‥」

ユイの言葉は静かなまま。
鞭のような微笑みにミサトの言葉がつまる。

『それは?』
「あたしにはどうしていいか分からなかったから ‥‥」
『そうよ。ここまで悪化したら、私にも、どうしていいか分からないわ。
だから私は私に出来ることをするだけよ。
‥‥ 葛城さん』
「はい」
『記憶の入れ換え自体はたいした副作用もなく出来る事が分かってるわ。
でもね、記憶を元に戻したとしても、 記憶をいじられている間に生まれた考えや、感情は ‥‥
事実の記憶と違って選り分けることが難しいから、 もとに戻すときに全部まっさらになんか到底できないわ。
一口に記憶を入れ換えるって言うけど、やり直しはきかないの。
そういう計画に、私は自分の子供を巻き込んだ。
葛城さん、信じられる? 私は大きくなったシンジの顔、まだ見てないのよ?
それなのに、ひとつ間違えばシンジを ‥‥ 廃人にする、 そういうリスクを私は背負った。
だから ‥‥ でもね、葛城さん。
私は、シンジを廃人にさせるつもりなんか全然ないわよ』

ユイの表情が変わる。ミサトは、このユイの決意の顔は信じられる、 そう思った。だから、続く言葉の意味することはよく頭に入らなかった。
この人は信じられる、だから、この計画も信じていい、 アスカを救うために、あたしに出来なかったことをしてくれる、そう思ったから。

『だから、葛城さん。お願いします。今度は ‥‥ 間違えないで。
二人を救うこと ‥‥ それだけを、考えて。
うちの人や、 上の人達にはこの計画に関してなんらかの下心がありそうなのは、 もちろん想像してるわよね?
そして、私も真っ白という訳では ‥‥ ありません。残念ながら。
あなたが怒り出すようなことも一杯しているの。
でも惣流アスカの治療に関しては、私は全力を尽くす。
それだけは信じていて欲しい』
「あたしが怒り出すこと ‥‥ ですか?
あたしには何してもいいですから ‥‥ あの二人には、 あまり酷いことしないでいて欲しい ‥‥ のですが ‥‥」
『私は、あの二人 ‥‥
綾波レイも含めて三人が不幸になるようなことをするつもりは無いわ。
今も ‥‥ そして将来も。それは確かよ』
「そうですか。分かりました。あたしも ‥‥ その言葉を信じます」

電話が切れる。途中から立って喋っていたことにミサトは気がついた。
あの人に訴えかけたところからだろうか?
椅子に崩れ落ちるように座る。

「あなたを ‥‥ あたしは信じていいんですね? 本当に ‥‥」

親友さえ信じることができなかったし、その親友も自分に隠し事が多かった。
他人を信じることに、もうミサトは疲れ切っていた。


実験開始初日。

「はあい、ミサト!」

教師を呼び捨てにするな ‥‥ と思う前に、 ミサトは久しぶりの声に目元が熱くなった。

「なーに? アスカ」

表情も変えずに、いつもの自分らしく返事を返すのに作戦部長時代より神経を消耗した、 そういう気分だったけれど、それは心地よい疲労感だった。


作者コメント。 y:1 と y:2 の間の話。
[目次] [日誌]