志保の提案で勉強会をすることになった 4 人だったが、 雅史は急用、志保は風邪。結局、浩之とあかりの二人だけで勉強する半日となった ──
以下になす感想はほぼ「xxx と描いていない」からダメだ式の論理である。 これは批判としては反則(それを観る話じゃなかろ、と言われれば一言もない)であり説得力は まるでない。それを百も承知の上で書くのは、 この話を機会に書いておきたいことがあるからで ── 題して「フラクタクル構造」。
「分かりきっている」ことはいちいち見ない。
"To Heart" 8 話のあまりに単調な話の流れは「分かりきって」いたことが多く、
鑑賞点がより細かいレベルに潜った。
現実世界にあるものは人が関知できるレベルなら細かい側から大きい側まで
すべてのレイヤで同じていどに複雑なものだが、アニメのような人工物は
そうなっているとは限らない。
一種、自然な反応としての鑑賞点の移動だったが、この話ではそこに何も感じなかった。
そう、ちょうど手書きの絵の海岸線のように。 手書きの海岸線には本物にはあるフラクタクル構造を持たない。 したがっておおざっぱにながめれば本物の抽象にはなっていても、 細かいところに視点をうつせば異常にのっぺりとしていると感じるだろう。
したがってこれは「分かりきっている」ということで視野の外に置かれる。 外挿による差分を鑑賞するってとこだが、.... ちなみにこれはいわゆる「速読」 のベーステクニックだけど、それはおいとくとして。
一般に、主旋律が強く出て来る曲でも主旋律の繰り返しは繰り返しごとに微妙に異なる:
A B A' A B' A' A"といった具合に。だから鑑賞点を時間の流れに移し、 同じコトをくりかえすにしてもその差は鑑賞に耐えるものだと期待するのは自然だろうと思う。
で、何がおこったか。何もおこらなかった。あかりは最初から最後まであきることなく、
その表情をかえることなく勉強を続け、浩之も同じ。志保の風邪は悪くもならず良くもならず、
鳩時計かなにかのように定期的にまったく同じ言葉を入れる。
その電話に対する反応も苛立ちが増すでもなく減るでもなく、
毎回毎回、初めて電話をとるがごとくの反応で、日が暮れるにつれ疲労が増す様子もなく
集中力も上がるでもなく落ちるでもなく、
あれだけしつこくなにかしていて手首がくたびれる様子もなく、
陽が傾いて姿勢が変わったということもなく、そして夜になって気温が下ることもない。
3 時と 7 時に一休みする時に浩之の伸びを入れる時も、まったく同じ。
「もうこんな時間?!」バカいえ、設定上だけで時間が過ぎてもそこに時間が経過した空気が一切ない。 呆れるほどすべてが正確に繰り返されている。
人間関係もそうだ。5 時間だか 6 時間だか二人っきりにしておいて 志保の言動、思惑が一切変化しない。 最初の 1 回目と何時間も一緒にさせておいたあとに語る言葉もそこに含まれる感情も同じってのはどういうことだろう?
浩之とあかりの距離を変えたくないならこれを変化させる必要は特にないと思うが、 辻褄は最初と最後で合ってればいいのであって、今回のようにラストですこし動かすつもりなら 中盤でゆさぶっておいていいくらいだし、双方から見て変わっていなくても鑑賞者から見て メリハリがつく描き方はいくらでもあるのであって、そうなっていないのでは もはや演出は怠慢のレベルだと思う。
単に白いなにもうつってない画面を見続けているようだった。
いっとくけどアニメとは「本来こういうもの」というほど酷くはない。 たとえば何気なしに朝の建物を描いたとしても 朝日はちゃんとベランダの左から光があたっている描写になるし、 夕方の陽はベランダの右から当たる。 別に描き手の観察眼が優れているとかどうとかでなく、日常の雰囲気は意識しなくても 身についているものだと思う。 対照的に列車が線路のどっち側を走っていたかなんてあたりは興味がなければ ボロボロに間違うのは仕方がないとはいえる (いや、この程度はちゃんとして欲しい... 毎日使ってる人は多いんだから)。
で、この "To Heart" 8 話の時間描写がなくてよいものであるか? ということになれば、
ない場合はやっぱり評価は極めて低くなるだろうと思う。
まさに日常を日常として描いた一話なのだから。