つらつらと『CC さくら』について考えてみた。
喜怒哀楽をはっきりと表情に示し、しかもその方向、構造、論理性が単純で明確。
心理障壁が比較的低く、わりと誰にでもなつく傾向をもつ。
さくらは「かわいい」と思われる条件をひととおりそなえ、
しかもカメラは彼女をフォーカスし続ける。
この構造はかなりあざとい。したがって当然、それに対する拒絶反応が起きるべきである。
... まったく起きなかったとしたら
鑑賞法が粗雑すぎるか心理的にかなり問題があるか
のどちらかだからさっさと心を入れ替えるように
:-)
閑話休題。この拒否反応、
思い返してみれば上述した論理から予想されるよりもかなり小さかった。
それは何故か?
このリアリティのなさ、作為、妙な意図などに
対抗するのはやはり理由とリアリティしかない。
周囲の人達は実はさくらがかわいくありつづけるための境界条件になっている。
人を疑うことを知らないさくらに、
疑わせるようなことをほとんど見せない周囲の人達の組合せである。
さくらをとりまく環境は
さくらの精神の有り方にそのまま反映させたとしてもさくら本人が出来上がると
いっていいほど、さくらの内的状況と外的条件は対応する。
つまり、周囲の構図そのものが、さくらが妙に可愛い過ぎるという「嫌味」
を打ち消す役を果たしている。
この影響で登場人物のすべてにリアリティが無くなり、ファンタジィ色が強くなった。
そのかわりにそれを物語上での(カードのかかわらない)事件のリアリティが補う。
言い替えると、カードが関わらない条件では「奇跡」や「偶然の幸運」は絶対に起きない。
これが
もっとも危うかったのは
いまのところ溺れかけるさくらが幽霊(天使?)の母親に助けられる回だが、
何気にしっかり母親本人に「今回はちょっと危なかったから見に来た」などの理由を
語らせることによって「偶然」を排除した。
(幽霊が口がきけるという保証はないのだから)
もし何も語らずに無言で消えていったという演出は考えられるけども
それを想像してみれば物語的にかなり変だと思う。
周囲の人物も、物語の造りも、基本的には さくらにたいする鑑賞者の反感を取り除くように設定されている。 驚嘆すべき完成度だが、 逆にこれだけの精度がなければとうてい耐えられるような構図ではない。つまり、
「いたずら好きのカードが起こす事件を辿って、そのカードを封じる子供の物語」という主たる構造の中で、主人公さくらはカードとも、事件の被害者ともほとんど コミュニケーションを持たない(設定上、持てない)。 推理小説で探偵が犯人や被害者に何の対話も持たなかったり、アニメでいえば 『ジャンヌ』でジャンヌが被害者に対して何も思うところがなかったとしたら、 ということを想定してみれば、この条件がいかに物語をつまらなくするか分かると思う。 ついでに確かに card capturing が episode の中心になればなるほど episode としてくだらなくなっていく傾向がある。
この物語、鑑賞点はさくらの周囲の人達のあり方だ .... それを表現するのに
その結果物(さくら) をフォーカスしつづけることで間接的に行なっている。
したがって
さくらの感情は(周囲の人達等の行動の)結果であって、
(なにか未来の事件の)原因ではない。
これはさくらの感情が未分化のままで良いということでもある。
喜怒哀楽が明確なわりにはその意味するところがはっきりしないのも、
それが物語の焦点とならないからだろう。
木之本藤隆や李小狼などの感情表現には意味があり、次の事件に導く道標になっているのとは
えらい違いである。