この話でも さくらが事件を起こしたことに対して 藤隆が優しさで包み込んでしまったところまでは良いとして、 で、 この事件によって藤隆に予定外の負荷がかかったのは(さくらから見て看過しがたい)事実であり、 recovery できなかった次善の策として手伝っても 藤隆の負荷は(さくらから見て)減ってはいるものの なおゼロになった訳ではない。そして、そのことに対するさくらの感情は何も描かれていない。
にもかかわらず、 これが話として耐えられるのは、前半の描写 ──
「これ終わったらやるからね」によって、事件を起こす「前」の時点で(事件との引き替えでなしに) 藤隆の負荷が減っているからだろう。
「そんなの良いって!」
この話は論理構造を素直にして、
事件発生 → さくらの手伝い、学会無事終了 → なお残った負荷分の引き替えに藤隆の家事をさくらが(自発的に)代わる、という順に並べることもできる。このストーリーは倒置がかかっているのだ。
そして、倒置したことによって さくらの家事が(事件との引き替えでない)自発的、無償のものになった。 事件を起こした時にその責任として何かする、というだけでなく (この部分においても、さくらは自分の責任から目を背けなかった。後述)、 そういう縛りなしで何かをする(今回はさくらがした訳だけど、もちろん藤隆も 自分の過失がないのに自分の負荷を高めるようにしてさくらの負荷を取り除いている、後述)、 という二重の筋が埋め込まれた。
作業は大学で学生を使ったほうがまず能率は良かろうから、 ここでさくらの手伝いを受け入れて家で作業するのは大部分は さくらの自己満足のためである。 これを優しさというか、あるいは教育的方針といえるものかどうかは私には分からないし、 正解かどうかも知るすべはない。
ま、断ったらその場の学生に人でなし扱いされることは間違いなかろうけども。
「いろいろ試したんだよっ、でも直らないの ...」シャドウでサイレントを封じた時など、やや御都合主義のあったカード使いに もっとも必要なテーゼがやっと上がって来たという感。
それでもやはりこの一言だろうと思う。
子供らしい安易さでカードを使って(カードを使わなければならない理由は無い) 直そうとしながらも、さくらの思考は負(eg. 逃げよう)に向かわないし、 また、怒られることを心配している訳でもない。
怒られることを心配する必要はないからこそ、さくらの思考は 次のステップの recovery することに向けられた。