前へ戻る(2001年4月10日掲載)
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新渡戸稲造とその生涯


1862年南部藩の盛岡で生まれ昭和8年(1933)カナダで没(72歳)〈思想家 教育者 国際人〉

この期間 戊辰戦争 明治維新 日清戦争 日露戦争 大逆事件 第一次世界大戦 満州事変 国際連盟脱退

等の事件があった。

〔生い立ち〕

曽祖父 惟民 花巻の藩士で南部藩随一の儒学者で兵法家。藩主に直言し

追放の刑を受けた。(恐山の麓・川内村)

惟民子息 伝(つたう)父惟民の意思を受け、住民のため木材を伐採し

十和田湖の水を利用し、百石港より江戸に運ぶ事業を成功させた。

その功により、謹慎が解かれ、稲造の祖父 伝に家督が移り

伝は勘定奉行までになった。

さらに、伝は藩の窮乏を救うため十和田三本木原の開拓事業を

成功させた。そのとき生まれた子供に、この工事で完成させた

稲生川や造成した水田にちなんで「稲造」の名前をつけた。

稲造6歳の時に父十次郎が48歳で亡くなり、更に戊辰戦争で敗れた

南部藩が瓦解し家は窮乏する。東京へ出奔した父十次郎の弟時敏の

養子となり上京することになった。(数え10歳)

〔勉学の頃〕

養父の援助により、明治8年東京英語学校に入る。(後の旧制一校)

明治10年札幌農学校二期生として入学。(授業料、寄宿料、生活費が官費・・経済的理由による)

二期生には内村鑑三、宮部金吾がいた。クラーク博士が来日。全て英語の授業であった。

東京大学に入学・「太平洋の橋になりたい」と1年で退学、アメリカ留学を決心した(23歳)

アレゲニー大学・・ジョンス・ホプキンス大学で経済学、農政学、歴史学、英文学、ドイツ語を学ぶ。

生活のため原稿を書いたり、講演をした。講演会が縁で後の妻ミス・エルキントンに合う。

26歳の時札幌農学校の助教授に推薦され、官費でドイツ留学をする。

ドイツに滞在中実家に残っていた次兄が亡くなり、養子先の太田姓から、新渡戸姓に戻る。

〔社会的な活躍〕

稲造30歳で妻ミス・エルキントンと結婚する。(右上の写真は稲造とエルキントン)

明治24年(1891)母校札幌農学校の教壇に立つ。

(1)私立北鳴中学(人格教育)(2)遠友夜学校(夫人の遺産により、貧しい人の教育を行う)等

北海道の庶民のための教育機関を設立した。

病気のため札幌を離れ伊香保で療養、執筆活動(「農業本論」)を行う。その後カリフオルニヤに渡り療養する。

英文の「武士道」を書く。(38歳))「BUSHIDO,The Soul of Japan」)

フランス語、ロシア語、ドイツ語、ポーランド語、ノルウエー語、ハンガリー語、中国語、アラビヤ語等に

翻訳される。内容は武士道に基づくわが国の道徳が、わが国の固有のものであると同時に、西洋の

道徳思想の根本をなしているキリスト教の思想といかに共通しているか、聖書のみならず西洋の思想家、

哲学者、文学者などの説を引用して広く論述している。(「武士道」ページをご覧下さい)

後藤新平、児玉源太郎の招聘により、台湾の精糖事業をたちあげる。(台湾の重要産業となる)

一校の校長(45歳)となる。更に東京大学の教授を兼任するが、文部省と意見が合わず、1913年一校退任する。

その後、国際連盟の事務次長となるが、アメリカの日本人移民排斥運動などにより、1927年次長を退任する。

71歳の時アメリカを説得するため渡米。しかし日本は昭和8年国際連盟を脱退することになる。

同年カナダでの太平洋問題調査会に出席、72歳でカナダで死亡する。

(多摩墓地に埋葬:キリスト教クエカーフレンド派の式)

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