日就寮 かわや太平記

 油谷次郎 ’08・09・02

 風も無いのにサヤサヤと衣ずれのような音。
股間を覗くとススキの穂がゆらめいているのは野鼠の運動会だ。
昭和15年に仙台高等工業学校の敷地(その後の二教)から
移転してきて、 戦災で焼けてから昭和23年に再建した日就寮は
、 便所は別棟で板敷の下は野っ原のまま、
言うなれば野○○と変わりない。臭い、汚い、気持ち悪い
の3K完備。
 と、「早くせんか!」と激しく戸を叩かれて我に返り慌てて新聞紙をちぎる。そんな便所だが4面の扉の前には、
 毎朝何人もの寮生が並ぶのだ。
 日就寮の風土病「便秘症」になるのに時間はかからなかった。症状は1週間ぐらいが普通、
 ベテランともなれば10日から2週間が<相場だった。
 学校の昼休み頃になると藤崎デパートで会う日就寮生の目的は同じだった。「もう終わったか。俺はこれからだ」が挨拶。
 ついに重大事件が起きた。ある夜先輩のAさんが押入れの板戸に担がれて山を下ったが帰らぬ人となった。
 疫痢という話だった。更にB君が赤痢らしいということで隔離された。
 近く禁足になるという噂が出て、蜘蛛の子を散らすように寮生は故郷へ帰った。禁足という言葉をそのとき初めて知った。

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 翌年春、ようやく学校当局も重い尻をあげて新しいトイレが完成した。明るい衛生的な素敵なトイレだと思ったのだが…。
 それが我々新委員の受難の始まりだった。ウジ虫の大群が湧き出したのである。
 トイレの床一面ウジ虫がウジャウジャと這い回っている。文字通り足の踏み場も無い。木のサンダルだった。
 一歩足を踏み出すとプチプチッ!また一歩プチプチッ!とはじける音。どうもウジというのは上昇志向が強いらしい。
 壁から天井まで登っていく。時には天井から落下する。
しゃがんでいる足元からサンダルを上ってきて足に、脛にまとわりつくウジ虫の大群。払えども払えども止まるところを知らない。
 遂に志半ばにして逃げ帰ってくるのみ。ススキの穂の感触を楽しんだ時代がなつかしい。
 藤崎デパートに「日就寮生お断わり」の貼り紙 が出なかっただけが救いだった。
 学校に交渉して消毒薬を1斗缶で貰ってきた。それをザザーッと撒いて箒で掃き集めバケツに入れる。
 そのさまは丁度麦飯に味噌汁をぶっ掛けたそのもの。食事はのどを通らなくなった。
 目を瞑れば瞼に浮かぶのはバケツいっぱいのウジどもが悶え苦しみ、助けを求めるあの姿。
 何とかならんのか、厚生委員はなにしとる!という声が高まる。
   ワケ識りが居た。「ウジの餌の原材料たる寮の二八めしがウジ好みなのである」という。
 二八めしとは28年入寮生用の特別食ではない。米2麦8の毎日の主食である。早速炊幹に食事の改善を要求した。
 しかしテキはウジ虫の回し者か、頑として応じない。
 モノ識りが居た。喫茶養生記に曰く「ウジを天日にて乾燥して粉末となし、それを煎じて飲用に供すれば
 香り高く万病に効果あり。此れうじ茶の元祖なり。」また本朝食鑑に曰く「うじ素性を正せばハエの子即ちハチの子の同類なり。
 よって食すれば美味にして滋養豊富なり。」と。これだ!発想の転換、災いを転じて福となす。
 食料不足の時代にぴったりと膝をたたき「煮てよし、焼いてよし、油で揚げれば更によし、どぶろくのつまみにも最適。
 しかもなんと捕獲自由!」と勇躍PRにこれ努めた。だが皆尻込みするばかりで「我こそは」と名乗り出る起業家は居ない。
 最後は神頼みしかない。揃って近くの神社に詣でて夜通し祈った。
 しかし効果がないどころか一層ウジの勢力が高まるばかりではないか。なんでだろう。
 よーく考えて気が付いた。シマッタそこはウジ神様だった。ウジ退治の願いを聞き届けてくれるワケが無い。
 そこでお賽銭の返還を求めたが駄目だった。何故ならどれが誰のお賽銭か区別がつかないという。
 お賽銭には名前を付けておくべきだったと悔やんだが後のまつり。
 日就寮に入ったのがウンの尽きだったのだ。卒業するまでこの地獄から抜け出せないのだろうか。
 くらーいイメージで頭の中はいっぱいだった。「ウジに捧げた青春」か「ウジに奪われた青春」か。。

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 しかしさすがは不撓不屈の工学部学生、ついに構造上の欠陥を発見したのであった。
 すなわち「むし返し」という先端を刃のように薄く尖らせた板を便器の下部に取り付けておくとウジがよじ登ってくる途中で
 180度方向転換できずにポロリポロリと落ちてしまう仕掛けだ。その手抜き工事が判明したのだ。
 落ちたウジ虫はどうなるかって?そんなことはウジに聞いてくれ!
 これでようやく平和の訪れと思ったのだが…、悲劇はまだ終わってなかった。
 衛生実務に励みすぎた厚生委員が二人とも瀬木教授の体育理論(公衆衛生予防医学)の試験にドッペったのである。
 げに怖ろしきはウジの祟りである。医学部教授室を訪ねて追試を懇願し、ようやく許可されたのだが教授の尊顔を拝したのは
 そのときが初めてであった。  それから半世紀以上、今以って夜はトイレと試験の夢から開放されないのである。
                               

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