卒 論 に つ い て |
平成20年9月16日 佐藤良樹 |
卒業してからもう50年も経ってしまいました。同級会の報せがきました。この機会に論文らしきものを書いて発表した日の ことを思い出してみました。昭和33年の三月のことです。 私は電気工学科に進学したのは、二つ上の兄が同じ工学部で機械工学科にいたので、同じ科ではと違う科を選んだのでした。 とは云っても化学も土木もあまり気乗りしませんでした。後年になって兄は電気をやりたかったと云いましたが、今更なにを云うかです。 地方公務員の父は二人の大学生を持ってさぞかし大変だったと思いますが、私も大変でした。 兄が同じ第二教養部にいたので数学の教科書はお下がりでした。教科は同じでも例題が違っていて、 誰かから教えて貰わなければなりませんでした。大学に入学したものの、将来、どんなことをして行くのかの将来像など ありませんでした。とにかく何らかの仕事について食べていくことしか考えられませんでした。 第二教養部の時、多分一年の時、数学の試験が前期は100点、後期は80点でした。 でも後期の試験では問題の見間違いがあって、それがなければ当然満点だったと思いました。 それが自惚れになったと思います。二年の後期から電気の授業が始まり、いよいよ電気科の勉強です。 そして配属される研究室は当時なりに人気がある研究室もあって、その選択には悩まされました。そして私が選んだのは、 本多研究室でした。ここは先生(本多波雄助教授)が情報理論を専攻していて、当時学生が誰もいなったところでした。 私は少し変ったところがあるのかもしれません。 物性は駄目だし強電も気に入らないし、放電もなあなど悩んだ後でした。それには数学が得意だったという自惚れが 作用したと思います。机は系統が同じ通信の大泉研究室におかしてもらいました。 はっきりは分かりませんが本多研究室はまだ予算処置もないところだったようで、後から多分昭和35年かに予算がついたと いうことをうかがったことがあります。先生から与えられたのはアメリカのあるラヴォラトリィが発表する論文です。 なにしろ英語は不得意なのでこれには参りました。当時、情報理論といっても馴染みが薄く邦文では書物が殆んどありませんでした。 従って外国の論文を読むしかないのです。その中に、後から出版された先生の本の中にその項目があったのを見て、 多分これは重要な命題なのかと思ったものです。 一年経って卒論を書かねばならなくなりました。与えられたのは予測理論の発展です。 あるフィルターがあって、そこを相関関数が与えられた信号を通すと時間遅れで、出力の信号を予測できるという命題があって、 そのとき、与えられる信号が微分波形だったらどうなるかという問題です。 先ず始めにそのことを書いた英文を訳し、理解して、その後に式を作って発展させなければなりません。したのでしょうね。 定年なってから十一年も経ってからここに引越しをしました。そして押入れの奥から見つけましたのは、当時の薄いリポート用紙に 万年筆で書いたその草稿らしきものです。小さい字で細かい数式がぎっしり並んでいます。 シグマとか積分の記号とか何やら記号が一杯です。今は全くなんのことか分かりません。 そのまとまったのを発表したのでしょう。また清書して提出したのでしょう。 研究室の構成は、トップに渡辺寧さんという教授がいて渡辺研究室と云いました。 そしてその下に、西沢潤一助教授、八田助教授、そして本多波雄助教授がいてそれぞれ研究室を持っているという具合でした。 西沢研はトランジツタの研究で大人数を誇っていたように思います。 八田研は放電関係、本多先生は情報理論ということでした。本多研はわたし一人で初めての学生でした。 卒論の発表は渡辺研究室全体で渡辺先生出席の元で行われました。私は数式の主な内容をケント紙に大書して発表しました。 応援団は、本多先生と同じ系列での確か当時博士課程の野口正一さん、そして大泉研の小野寺大さん(亡くなられた)だったと 思います。研究室所属の一人一人がそれぞれの研究発表をするのです。 渡辺先生はそれら一つ一つについて質問したり講評したりしました。 私も順番が来て発表をしました。質問はありませんでした。私の項目はみなさんと違って電子関係ではないので、 誰も馴染みがないのです。応援団からの援助もありませんでした。 渡辺先生は「先生には難しくてわからんよ。」と一言云ったように思います。 これで私の卒論発表は終わりで、無事通過ということにして貰いました。 渡辺寧先生は当時でも、なんでも毎朝4時には起きて勉強する程のお人で、とにかく大先生なのです。 先生はその後工学部の部長になられたし、静岡大学の学長にもなられました。ですからご自分のこと「先生」というのでした。 論文は14枚か15枚程度ではなかっでしょうか、他の人と比べれば圧倒的に短かったと思われますが、こちらは実験の報告が無いので 従ってデータもグラフもありません。これでいいのだと自分に言い聞かせました。 そして正しかったどうかも自信がありませんでしたが、本多先生が認めてくれたのだから多分正しかったのでしょう。 しかし、この論文の効力はどんなものかは知ることは出来ません。ただ難しい理念で実現可能であろう器械を想定したものでした。 ここ工学部の仕事ですから。後年、符号化と併せて確固たる理論はディバイスの発達と相まって世の中に 大いに役に立ったことは違いありません。 私は大学を卒業してから地元の放送局に入り、停年まで38年間技術職員として働きました。 入社の面接の折、未だ研究室の気分が抜けきらないので、音楽が好きなので勉強してきたことが放送の仕事に役に立つ ことがあればなどと発言しました。 しかし、民間会社の仕事は儲けのためにあるので、論文の勉強はなんの役にも立たなかったと思います。 一生懸命会社の利益増進のために働きました。入社した頃はこんなことをするのかと、信じられない業務もあったことでしょう。 そして何時しかどこかに潜んでいた義侠心とやらがもたげて、働くもののために行動をするようになったこともありました。 そのうちに、もっとしたいことがあったと市内の弦楽合奏の団体に飛び込んで、楽しんだのか苦しんだのかの15年間もありました。 そして時は経ちました。劣等生ではあったでしょうが、入学当時の角帽が象徴するように、東北大学を卒業したという誇りだけは どこかに持ち続けてきたと思っています。 2008.6 前へ戻る |