あのころのことで心に残っていること2つ3つ
平成20年10月3日 
山上 晃弘
 昭和28年1月高校3年3学期が始まった頃、突然胸部の異常と食欲減退に襲われた。
 まもなく近所の医者から肋膜炎の診断が宣告され急遽入院、安静の身となってしまった。
 このときの心境は私の人生の中で落胆の大きなショックとして忘れられない。
 退院したのが5月ごろ、さえない浪人生活に入ったが秋ごろまでは家でぶらぶらしていたように思う。
 心配して卒業した高校から補習科へのお誘いが何度もあり秋ごろから人ごとのように通い始めた。
 学力は3年に比べ落ちていた。在校3年生との合同実力試験でそのことがよくわかった。
 昭和33年の電気工学科卒業生で誰が浪人経験者かは興味はあるがよく知らない。

 昭和29年3月東北大学入学試験合格発表の後、2期校であった横浜国立大学工学部の入学試験を受験にやってきた。
 そのとき試験場で浪人で一緒だった高校同級生のM君に出会った。
 「山上なぜくるんだよう」ときついまなざしで言葉をぶつけてきた。そのまなざしの様子が焼きついて今も忘れられない。
 そのとき自分勝手ないやな自分を見たようだった。

 それから会っていないM君はさらに1年浪人して宇都宮大学工学部に入ったようだったが
 3年前になくなったことを同窓会誌で知った

 大学2年後半電気工学科に進学が決まってから建築工学科に変えたいとある教授(永野教授?)に相談にいったら
 留年するなら建築とも関係の深い電気工学科を卒業してから学士入学したほうがいいと言われ留年を思いとどまった。
 しかし電気工学科卒業のころには周りの友人の就職ラッシュに流されてかあっさり就職してしまった。
 このとき俺も建築科に行くと約束した高校も大学も同級だったS君にその約束を果たさなかったことが
 そのあとだいぶ心に残っていた。S君は約束どおり建築工学科を卒業し大手ジェネコンに入社した。
 その彼とは仙台に来ると、ときには呼び出しては近況を話し合うが、なぜかいつもご馳走になっている。

 以上取り繕いであのころのことで心に残っていることを2,3書いてみました。



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