青年老い易く学成り難し

加藤 和明

 

  本年(平成20=西暦2008=皇紀2668年)3月で、大学卒業後丁度半世紀経過したことになる。

先頃(26日)東京近辺に住む級友が集まってフグの鰭酒で新年を寿いたとき、全国に散る、クラスの

“生き残り組”、(燦々会と称する)全員で、母校(東北大学)の所在地である、仙台(およびその周辺)で、

記念の“reunion”を持つこと、および記念の文集を作成することが決められた。

最近、吾らが母校も、欧米の大学に倣って、 Home Coming Day を設けるようになったので、

reunion”は、それに合わせて、1010-11日の2日間と決まった。

このような経緯があったので、これを機会に半世紀前の自分と向き合ってみることにした。

私は、昭和293月に青森県立青森高校を卒業してこの大学に入り、昭和333月に工学部電気工学科を

卒業した。卒業したのは55名であったが、残念ながら、今日では1割程目減りしている。

卒業後直ちに特殊法人日本原子力研究所の職員となったのであるが、その経緯を含め、

4年間の仙台での生活に繋がる思い出を綴ってみようと思い立ったのである。

 

1.入学の前後

下級官吏の家庭に生まれ、当時のこととて兄弟の数も多かった(弟4人と妹1人)ものだから、

早くから父に「大学進学は認めるが浪人は絶対に不可」とキツク言い渡されていた。

その所為もあってか、高校の3年間は、いわゆる受験勉強はそっちのけにして、

「大学に入るということは自分の人生にどのような意味を持つのだろうか」という“哲学”に

ノメリ込んでいたように思う。

当時は、青森の地方紙「東奥日報」が、お隣である秋田県と岩手県のそれぞれの有力地方紙と共同で、

年に1度、大学受験の実力判定試験を行っていたのであるが、2年生のときタメシに受けてみたところ、

3年生を含め3県全体で確か30番の順位であった。3年生のときに順位がsingle numberにならなかったら

仙台行というのが親父との約束だったので、素直に(と言いたいところだが実際のところはシブシブ)

東北大学を受験したのであった。昭和2812月に実施され翌月発表になった試験の結果は

2番か3番の違いで1桁とならなかったのである。

当時、自分のlife workとして強く望んでいたのは「電気(というもの)の本質解明」であった。

20世紀は「電気の文明(をつくりその成果を享受した)世紀」であるが、その本質は半世紀前と変わらず

今もって解明されていない。電気の工学は、電気を帯びている素粒子(である電子や陽子)を

如何に使いこなすかの学問に過ぎないかも知れないと思った(実際そうであった)りしたので、

物理へ行くのがよいか電気へ行くのが良いか、迷いに迷った。願書も理学部と工学部の両方に出したように思う。

ここでまたオヤジが登場するのであるが、「ともかく早く自分で飯を食べられるようになって欲しい。

そのような“勉強”は趣味でやって欲しい」と懇望された。10歳の時に敗戦を迎え、

何を頼りに生きていったらよいか分らなくなったとき、取り敢えず、“自分に忠実に生きる”ことに

したものの、“自分に忠実に生きる”ことと“人間らしく生きる”ことは必ずしも両立しないものだと

何度か実感したが、このときもその一つであった。

当時父は林野庁職員で、青森・岩手・宮城の3県をカバーする青森営林局に勤務していた。

仙台には子弟のための“学生寮”があって経済的にも助かるし、自身も仕事で仙台にはしばしば出かけて

いたので“監督”も出来ると考えていたようである。4年間お世話になった“ネグラ”は東照宮の傍に在り

「深山(ミヤマ)寮」といった。寮費は3食込みで月2,400円(6畳間の和室に最初の2年間は2人の相部屋、

後の2年間は1人で個室)。仕送り3,000円に奨学金と家庭教師のアルバイト料を加えると

まぁまぁの懐具合であったが、後(昭和3466日)に結婚することになった高校同期生(中泉雅子)を

京都に訪ねることが出来たのは、昭和32年の春休み1回だけであった。アルバイトでは破格の待遇(?)を

受けたが、それは母親が娘の結婚相手に望んだからであった。レッスンの後、

夕食と当時はとても珍しかったテレビ(勿論シロクロ)を“ご馳走”になるのが楽しみであった。

話は戻るが、入学試験は33日から5日までの3日間、当時は国立大学一期校として全国一斉で、行われた。

最後の日は雪であったようにも思われるのだが記憶は定かでない。

青森へ帰る“汽車”を待つ間、駅前のパチンコ屋で時間を潰した。50円分買ったパチンコ玉が30分で

なくなってしまったこと、高校2年の夏休みに北海道に一人旅をした折、北見から札幌に向かう列車で

乗り合わせた「クギ師」から教わった折角の“レッスン”が結果的に役立たなかったこと、

だけは今も明確に記憶している。もう一つ、試験の後、「出来た、できた」と騒いでいたのが殆ど全滅で、

「あそこ間違えた、ここ間違えた」などといってしょげていたのが結構合格していたことも、良い教訓となった。

この年の東北大学学力試験合格者全員の氏名が出身高校名付きで、3月21日の河北新報に載っている。

定員1445名に7821名が受験し1295名が合格したとある。

このあと(43日?)身体検査があり、これに合格してやっと入学できるのであったが、

この身体検査というのが、今の若者には想像もできないであろう“M検”なのであった。

このimpactは強烈であった。

 

2.教養部時代

教養課程は旧仙台工専の校舎を使った、工学部専用の第2教養部であったが、片平丁の一角という立地の

お蔭で、大学の看板教授といえる錚々たる先生方に講義を通してお目にかかることができた。

私の場合、講義で強く印象に残っているのは(順不同である)、民法の中川善之助、刑法の木村亀二、

ドイツ語の奥津彦重、代数学の岡田良知、のような方々である。法学慨論では入れ替わり立ち替わり

いろんな先生が現れるのだが、新進気鋭の若手は概してハナシが難しく聞き手とのimpedance matching

悪いのであるが、大家である老教授の講義は分かり易い上感銘を覚えるところが多かった。

民法の試験は「ABに貸したカメラをCが持っているのを見てACに返還を求めたが返さなければ

ならないか」といった実用的(?)なものを幾つか出されたが、刑法では「死刑制度に賛成か反対かを

述べるとともにその理由を書け」という現在でも通用する大問題が1題であったように思う。

岩波・独和辞典の執筆者に名を連ねる奥津教授はドイツ人のような顔つきをされていて、

その先生に「君は発音が大変に良いけれどもドイツに行ったことがあるのか」と聞かれたことがある。

岡田先生の試験では第1問にテコズリ、残り3題を満足に解けないまま答案を出したのに高い点を戴いたので、

お伺いに行ったら解法がユニークで感心したからだと言われた。教育のコツは褒めることだと

悟ったのは大学の教養時代である。

教養課程では兎に角ユニークな先生方が多かった。生物の永野為武先生は俳句の世界でも有名で、

講義は楽しかった。蚯蚓の生殖にからめて「69」のことを話されたのだけが記に残っている。

無機化学の森教授(下のお名前は申し訳ないことに出てこない。

数字の一か三が付いていたような気もするのだが)は「次の元素(たち)の名前を英語で書け」、

有機化学の立田晴雄教授は「ヤマをかけてきた問題を書いて解け」とか「バターを水に入れると浮くか沈むか」

などという試験を出された。

因みに原研に入って最初に学会誌に載った論文の共著者(立田初巳さん)は、驚いたことに、

この立田教授の甥ごさんであった。有機化学の実験ではアスピリンを合成したのが忘れがたい。

丸底フラスコに無水酢酸を入れてサルチル酸を溶かし、濃硫酸を少し垂らし、空気冷却管をつけて湯浴。

数十度の温度に数時間保って反応させ、それから1時間程90度に熱してから冷やすと結晶が析出する。

これを濾過して水、トルエンで洗い、熱湯で再度結晶化させると融点135度のアセチルサリチル酸、

すなわち「アスピリン」ができる。化学は嫌いでなかったが不器用だったのと色々の名前を覚えるには

記憶力が悪すぎることから専攻する気にならなかったが、アスピリンの学名を例外的に覚えられたのは、

このとき「汗散る去り散るサン」と覚えたからである。

不器用を自覚していたので、難しい実験を長時間かけて成し遂げた時は感激した。

けれども、自分でつくったこのアスピリンを、熱が出た時に、薬として飲む気にはなれなかった。

哲学の試験に「マルクス主義と実存主義は両立するか」という問題を出され、参ってしまった。

悪戦苦闘するにもなにも考えるための素材がなさ過ぎたのである。お情けで合格の最低点を戴いたが、

そのあと数年間にわたり夢に見る羽目に陥った。また、1年時の前期試験の最中(昭和29926日)、

英語名をMarieという大型台風が仙台を襲った。翌日は英語の試験で、「一夜漬け」で備えようとしていた矢先、

停電となってしまった。あわててローソクを買いに行ったが「一人一本限り」であった。

試験には落ちないで済んだが「一夜漬け」は大変にriskyなものであるとこのとき思い知った。

因みに、この大型台風(昭和29年第15号)で青函連絡船「洞爺丸」が沈没し、青函トンネルを掘る

ことが決められたのであった。

英語の授業はtextの選択がよく(John Galsworthy: The Apple TreeとかWashington Irving: The Student of Salamanca)、

どれも楽しく夢中で読んだ。ノーベル文学賞受賞者の書いた「林檎の樹」の主題は、当時“わが身”にも

覚えのある痛みだったので、実際は“楽しさ”よりは“辛さ”が身に沁みたのであった。

後者は、スペインに在る世界最古の大学の一つが舞台で、化学(当時は錬金術の学問)の教授と娘と弟子の

3人を巡る、時間的にも空間的にも遠く離れた世界での、“異国情緒”たっぷりな物語である。

後年(今から20年ほど前)サラマンカで、それもこの大学で、専門とする分野の国際会議が開かれ、

この大学をこの目で見てみたいという気持ちに抗し難く参加したものである。

当時は学生服が全盛で、学友は皆同じような格好をしていた上、殆ど全員が“超真面目人間”で、

よく勉強する野郎ばかりだった(我々のクラスには女子学生はいなかった)ので、

1印象は「なんと個性のない人間の集まりか」であった。

電気科に進学し互いに言葉を交わすくらい慣れ親しんだ頃、「貴公は何故にそんなに勉強するのか」と

何人かに尋ねてみたことがある。大方の答えは「良い成績を収めてよい会社に就職しよい配偶者を得るため」で

ありそこから先がなかった。後になって、結構個性的な人物が集まっていたことを知るのであるが、

当時は残念ながらそれを見抜くだけの力量を持ち合わせて居なかったのである。

そんなこともあり、電気の授業はサボれるだけサボり、理学部へ出かけて物理の授業を“盗聴”

しまくった。もっともいくつかの授業は担当教師から事前にお許しを得ていたことをお断りしておく。

「点取り虫」にはなりたくないと思ってのことであるが、周りにいる工学部の学生より理学部の学生

との会話の方が楽しかったのは事実である。

第2教養部の敷地に隣接して東北学院大学の短期大学部の校舎があった。夜学であったので、

そちらの学校にも籍を置いて英語の勉強をしようかと考えたこともあった。

今はそういう学生も少なくないようであるが、一人の人間が同時に二つの学校に籍を置いて両方を卒業する

など許されないことだと自分で決め付け、諦めてしまったのであるが、今にして思えば残念なことであった。

19544月から4年間を過した仙台での学生生活は3つの時間帯に振り分けられて居た。一つ目は寮での生活、

二つ目は大学での生活、そして三つ目は大学で教鞭をとっていた米人宣教師や駐留米軍の将兵たちとの付き合い

である。当時の仙台の人口は、確か40万一寸で(当時の札幌のそれより大きく)、

海外からのオーケストラなども必ずといってよいほどやって来てくれたし、学生の身で泳ぎ回るのには、

小さ過ぎず大き過ぎずで、丁度手頃であった。ミッション系の学校が多い上、米軍のキャンプが青葉山と

苦竹にあったのである。日曜日は日本の教会と米軍の教会を交代に訪れ、前者では(宗教)音楽の勉強を、

後者では(英語やドイツ語のバイブルを持って行って)語学の勉強を、と心がけたのであったが、

本当のところは、宣教師達の社会での女子大生などを交えた“交遊”と、米軍キャンプでのボーリング遊び

や図書館利用、それに将校クラブでご馳走になる“食事”が大変な魅力であった。

教会の聖歌隊に入れさせられてモーツアルトの戴冠ミサやビバルディのグロリアなどを歌ったのが

今となってはとても懐かしい。Ave Verum Corpusのパートは今でも楽譜ナシで歌える。

映画も宮城(女学院)の先生方とよく観に行った。

このような次第で、学生時代の私を知る人の印象・評価は、人によって大きく異なるところとなった。

寮の仲間には「勉強ばかりしている」、大学のclass mateには「サボってばかり」、そしてそれ以外の

ところでは「アソビ人?」と思われていたようである。

1年生の夏休みまでは中央図書館で「女性心理学」と「恋愛心理学」の勉強に励み、夏休みに

(某官庁での)アルバイト先で学んだ理論を実験的に確かめたところ教科書通りの結果が得られるので

すっかり嬉しくなり、秋から一層“ザツガク”の勉強に嵌まって行った。

長い人生においては、過去に経験したことで後に役立たないというものは殆どないといわれるが全くその通りと

思う。趣味のザツガクはその後も磨きがかかり(?)IsotopeNewsという月刊の業界誌に「王様の学校」

というコーナーを受け持つに至り、20083月号で237回を数えている。

 

3.学部時代

3年生になった4月、これではイカンと反省し、マトモな勉強をしようと西澤潤一先生の研究室のドアを叩いた。

この新進助教授が、後年、学士院の恩賜賞や文化勲章を授けられ、東北大学の総長に上り詰めて

勲一等に輝く大先生になろうとは全く予想も出来ないことであり、どうしてこの研究室を選んだかというと、

研究室の公的看板「(通信用)電子物理研究部門」に惹かれたからである。

風貌が、その頃観たフランス映画「赤と黒」でダニエル・ダリューと競演したジェラール・フィリップに

似ていたことも若干影響したかもしれない。一人でドアを叩く勇気がなくて、佐々木市右衛門君を誘って

お願いに行ったのである。

西澤研究室に入れて戴いた私の最初の仕事は、朝一番にドライアイスをつくることであった。

炭酸ガスのボンベからガスを勢い良く噴出させ、気化熱で冷却し固化させるのである。

当時出たばかりのナイロンの靴下を2足使い片方を裏返しにして重ねて使うと効率よく出来るのだと、

西澤先生が手を取って教えて下さった。当然ながら1年先輩の卒研生が数名居ったが、

中でも卒業後すぐに渡米した岩佐重達さんと研究室の公的主(あるじ)である渡辺寧教授が親代わり

となっていた伊藤治昌さんには特別に可愛がって頂いた。

岩佐さんからお別れに際して頂いたDodenの立派な独英辞典は今も大事に使わせて戴いている。

伊藤さんは渡辺先生の東大電気の同級生で海軍技術研究所の長であった伊藤庸二大佐(?)のご長男で、

卒業後原研で親しくさせて戴いた和達良樹さん(深発地震の発見で有名だった当時の気象庁長官の子息)

と日比谷高校で一緒の親友でもあった。伊藤さんには良く鮨屋に連れていって戴いたこと、岩佐さんには

フルートの伴奏でジョスランの子守唄をフランス語で教えて戴いたことが良き思い出として残っている。

伊藤さんは後年留学中のコロラドで自動車事故に遭われて重傷を負われた。

お母様の必死の看護で一命を取り止められたのを大変に嬉しくお聞きしたが、

つい昨日のことのように思い出される。

卒業研究のテーマとして戴いたのは「ビスマスの磁気抵抗」の測定であった。

今日ハードディスクの信号取り出しにこの現象(磁気抵抗)が使われ、2007年度の

ノーベル物理学の賞が「巨大磁気抵抗の発見」に与えられたことを思えば、西澤先生の着眼の素晴らしさ

には脱帽するしかない。

当時は(面白いことは他にも無数にあるのに)何でこんなものに興味があるのだろうと

思ったりしていたものだから。東大理工研の教授だった熊谷寛夫先生(旧姓の青木寛夫だったかも知れない。

後に東大原子核研の「素粒子研究所創設準備室」でお世話になった)の書かれた電磁石製作の論文を渡され、

それを見ながら電磁石をつくったが、完成まで行かず、まともな論文には仕上げられなかった。

それで「電子の自己エネルギー」という題で理論的なものをもう一つ書いて提出したのであったが、

後に湯川秀樹先生の京都大学物理学科の卒業論文が同じ題(「電子の自己勢力」)であったと知り腰を抜かした。

湯川先生の卒論の実物をできることなら一度拝見したいものだと長年願ってきたが、

この願いは残念ながら今もって果たされていない。

 怠け者の学生の目から見た西澤先生は「努力の人」以外の何者でもなかった。

18時食事のためにお宅に帰られるが、2時間もしないうちに戻ってこられ、日付が変わる頃まで研究室に

居られるのである。我々が4年生のときだったかと思うが結婚され(お相手は、後に中央の経済界から

「再建王」の称号を授けられる、仙台の代表的経済人、早川種三氏の長女で、慶応大学文学部卒の才媛)、

新婚旅行に小原温泉へ行かれたのであるが、二三日で帰って来られたら

またそれまでの生活パターンなのであった。

先生には随分と可愛がって戴いたが、学問の進め方については意見が合わないところがあった。

先生が帰納法的手法の重要性をあまりにも強調されるものだから演繹的手法も大事だと思うと申し上げたら

、それはアインシュタインとか湯川秀樹先生のような天才のおやりになることであって、

お前のような鈍才が考えることではないと諭されたのが忘れられない。

卒業後物理に転向したいという気持ちを打ち明けたところ、猛反対された。

そのとき青森の父宛に長文のお手紙を出されていたことを、ずっと後になって知った。

原研から就職試験合格の知らせが青森の自宅に届いたとき、父から「スグニテツヅキセヨ」との電報が来た。

昭和31年の5月から机を戴いた西澤研究室は片平丁に在り、寮からは片道30分自転車で通った。

帰りは当然のように毎日遅くなったが、short cutで色街(我々が大学を卒業する月の最終日まで

赤線が存続していた)を通ると必ずや声が掛り、その都度「学生で~す!」「学割あるわよ~!」の

応答を楽しんだ。

私は好奇心の強い人間であり、“ものをつくることの喜び”よりは“知ることの喜び”が勝るタイプの

人間である。2年間に亘る「半導体」の勉強は、魅力溢れる先輩達の“指導・鞭撻”も含め、楽しい限りであった。

しかし、大学に残るという選択をしなかった。その理由・背景を記してみようと思う。

理由は複合的であり単純でない。先ず第1に、“点取り虫”を軽蔑し自分はそうなるまいと決心

していたこともあって授業をサボりまくり、物理教室への“盗聴”に励んだりしていたので、

成績が良い筈がない。

2は、師(西澤先生)の生き様を目の当たりにしてのことである。

私から見た先生は、不遜ながら、大変な“努力の人”である。とても真似が出来ないと悟った。

私は本質的に怠け者なのである。助教授に成りたてだった先生の給料は2万円丁度くらいであったが、

毎月丸善が持ってくる本代の請求書は10万円くらいの金額が書かれていて、(能力のことは別としても)

金持ちでなければガクシャはムリだと悟ったことも含めてである。

以下幾つかの“要因”・“契機”を順不同で列記する。(先に述べた通り)「大学院で理論物理に転向したい」

と相談したところ猛烈に(しかし愛情こめて)反対されたこと。

アメリカ(カリフォルニア大学バークレイ研究所)から里帰りされた嵯峨根遼吉先生が仙台に来られて

「これからは原子力の時代だ」と熱っぽく説かれたのに感銘を覚えたこと。

「資源に恵まれない日本の民には、資源を輸入し、技術で味付けをして(=付加価値)外国に買って貰う

以外に生きる道はない」と西澤先生に徹底的に教え込まれたこと。不器用でものをつくるのが得手でないこと。

「学問したかったら(早期に?)結婚してはいけない」とも教えられたが、同意する気持ちになれなかったこと。

一方で、一旦婚約した相手(現在の妻)に婚約を破棄され、落ち込んでどこか遠くへ行ってしまいたい心境に

なっていたこと(これが案外一番の理由だったかもしれない)。

しかし、民間会社に就職するのは“資本家に命を売り渡す”様な気持ちがあり、出来るだけ“公共的な”

機関で“禄を食みたい”と希ったこと(この考えが浅薄なものであることは社会人となって直ぐに出会った

松下幸之助さんの講演や著書で知るところとなった)。

こんな訳で、新設の特殊法人「日本原子力研究所」の研究員公募に応じ、

幸いにして採用してもらうことが出来た。

しかし、当時は、指導教授の紹介状を持っていけば大抵の会社に希望通り入れてもらえた時代に

競争率の低くない試験(実際の競争率は47倍であった)を受けて社会に出るというのを不思議がった

学友も居たのである。ともあれ、原研ではいろいろの年齢の人が各界から集められていて、start lineを同じくして

来る日も来る日も“勉強(セミナー)付け”だったので、まるで“官費で大学院に入れて貰った”様な感じであった。

オマケに政府からアメリカへ留学を命じられアメリカの大学院で物理を勉強する機会も与えられたので、

自分の人生設計はまぁまぁのものであったし、運にも恵まれたと天には感謝している。

半導体のヘテロ接合(hybrid juction)のアイデアを3年生のときに西澤先生にお話したが認めてもらえなかった

ことがあり(7年後にアメリカの研究者Herbert Kramerが同じ考えを出し、それで2000年にノーベル物理賞を

授けられた)、それが大学に残らなかった一番の理由だろうと、後年いって来た人が居たが、

正直に言って、そのような考えはまったく持たなかった。

このことだけはハッキリ申し上げておきたい。大体考えることと実行することとの間には大きなギャップが

あるもので、仮に私が取り組んだとしても、非粘着質で怠け者の私がノーベル賞に値する成果を出せたとは、

到底思えないことである。

趣味で続けてきた「エレキの本質究明」は難問で、おぼろげながら漸く影を捕まえた感じのところまで来たが、

本業とした放射線の仕事もそれなりに面白く、またそれでオマンマを戴いてきたものだからそう簡単に縁を切る

ことも出来ずにいるところである。「三つ子の魂百まで」で、その“魅力”には今もって取り付かれているが、

将に「青年老い易く、学成り難し」である。しかし、学問の楽しみは「結果を得ること」にだけ在るのではない。

日本人は兎角目的にのみ価値を置き勝ちであるが、プロセスを楽しむことこそ本道であろう。

生き甲斐とは感動することであり、感動の種はプロセスに無数といってよいほど在るからである。

この趣味はこれからも続けて行きたいと願っている。

 

                         (20080211日起草;同年0602日加筆訂正)