八田研のすてきな仲間たち |
松沢喜久雄 ’08.06.07 ((おことわり)文中では学生時代に戻った雰囲気を出すため失礼ながら同級生は呼び捨てにした) |
1.あこがれの研究室配属
あれは昭和32年(1957)年の4年生になる直前だっ たかな、研究室への配属があった。 温厚な八田吉典先生をしたって八田研究室への志 望者が多く、教授会も選別に苦労したらしい。成績 順なのか抽選なのか忘れたが、外れた志望者は他 の研究室への転属を示唆されたが先生に直訴し強 引に割り込んだという噂もあった。 結局、配属者は市川敦雄・市川博昭・漆畑隆夫・ 永見喜次郎・平田良一・真瀬寛・松沢喜久雄の7人 となった。 |
![]() 工学部本館の向かい側に、福島研・菊池研と共に 八田研が入った“長屋”があった |
同じ研究室に市川姓が二人いたのであだ名がつ いた。市川敦雄は髭を剃らないと鐘馗さまのように なるので「ヒゲ」だ。当時写真部に属しており本稿に 使った写真も大部分彼の作品である。 市川博昭は「オシ」だ。高校時代相撲をやっていた ためという説と研究室配属時に押しの一手で割り込 んだという説(後述の追悼文集に本人の告白あり) があるが、いずれが正しいかは50年経ったのでは っきりしない。もちろん、差別用語の意味ではない。 また、これも昔のことでよく判らないのだが、「八 田研」は文部省に届けた公式名では「渡辺研」だっ たのかも知れない。というのは“長屋”に「渡辺研」と 「八田研」両方の名札があり、かつ“白い巨塔”風に いうと八田先生は当時助教授だったから文部省的 には研究室を持てなかったのだろう。 |
![]() 後方に球(タマ)って入るのは研究室の誇り(ホコリ) なぜか菊池研の勝又が紛れ込んでいる 真瀬は宿命の眼疾手術で傷痍軍人状態だった |
八田先生は我々が卒業した翌年に晴れて教授に 昇格したので公式に八田研になり、“長屋”に掲げ られていた「渡辺研」の札も外されたことだろう。 忘れないうちに就職先に触れておこう。ヒゲの市 川と松沢は東芝、オシの市川は日立製作所、漆畑 と真瀬は富士電機、永見はホンダ、平田は東北電 力、である。ただし、真瀬は宿命の眼疾で2年後富 士電機を退職して大学院に入りなおし、茨城大学 教授を務めることになった。
| ![]() 同級生の他に菅原/佐藤/伊藤さんが見える |
2.研究室の人々と卒業研究
当時、博士課程にいたのが柴田昭太郎(S28学部 卒)と菅原実(S28学部卒)で卒業研究では八田先生 を補佐してわれわれを指導いただいた。修士課程 には佐藤益美(S32学部卒)もいた。 後に、菅原さんは群馬大学教授(定年後は八戸工 業大学)、佐藤さんは山形大学教授として教職の道 を進まれた。 柴田さんは道が異なり、日立製作所の半導体関連 工場長、技師長、理事を歴任後、国際電気社長を 務められた。 また、研究室には放電管を作る職員としてガラス 管、電極加工の千葉一裕、庄司睦男、研究補助者 の伊藤善一がいた。同級生の中にはガラス細工が 面白く作業場に入り浸った者もいたようだ。 |
![]() 「ステップ管のリモートコントロールへの応用の一例 としまして・・・」この高校生は電気科を志望してくれ たかなー |
S32は奇しくも東北大学の創立50周年だった。 ほかの行事は記憶にないが、研究室の開放行事 があり我々も参画した。東北大学入学を目指す高 校生も多数来場したので先輩ぶって張り切って説 明した。 4年生も後半(S33年初)になると卒業研究の実験 が追い込みに入り“今日も夜業ぞ、腹が減っては実 験(イクサ)はできぬ”とて研究室に丼物を配達しても らってがんばったものだ。 同級生には卒業論文を就職後提出した猛者がい たらしいが、八田研には卒業式の翌日が最も遅い 人だったらしい。 |
![]() 八田研はやっぱり公式には渡辺研だったのかな 卒業研究テーマは別表のとおり |
就職後まで大学供与の卒業論文用の青い線入り のレポート用紙が目に浮かぶ人もいたわけだ。 ![]() |
![]() なにかの発表会か輪講会だろうか 左端に柴田さんが見える |
3.八田研同窓の会
八田先生は在学中も随時ピクニックや自宅での パーテイ等学生との交流をこまめに進められてい たが、卒業後も東京近傍や仙台近傍で催された 「八田研同窓の会」でお会いした。 八田研同窓の会はS51の第1回からH12の第12 回(兼偲ぶ会)まで隔年ペースで挙行された。 旧制S21卒の金門製作所の小野田元社長が最長老 で、電子工学科になってからのS51学部卒まで がいた。 さらに、八田先生が定年後勤められた関 東学院大学のS56-S61「八田研同窓の会」の人々 も参加することがあった。 |
![]() 先生ご家族と研究室の学生・職員が参加した |
松沢が八田研先輩で特に印象の強いのは山川 昭さん(旧制S28卒)である。 あれは卒業10年目くらいだったかな。H火力発電 所で試運転中に工事不備で発電機を止めるという 重大事故を起こした。早速、工場から製造課長と設 計主任の私がすっ飛んで行った。 そこに相原が居たのだが、その上司に鬼の山川副 長が居て「お前の会社は事故対応が悪い、片づく 迄人質を残せ!」といわれ八戸に数週間残された。 その後の経験で判ったのだが、電力会社には発 電部門や変電部門ごとにそれぞれ「鬼の副長」とい われる実力者がいてメーカー側から恐れられてい た。山川さんはそういう人だったのである。 。 |
![]() 先生ご夫婦は必ず出席していた 緑水亭/秋保国際ホテルにて、S60.6.22 |
その時、相原が八田研の後輩だと耳打ちしてくれ たのかそれとも「八田研同窓の会」で再会して判っ たのかはっきりしないが、山川さんが常磐共同火力 副社長になられてからも私のいた工場を訪ねた時 は私の業務に関係がなくとも必ず声を掛けてくださ った。“ありがたきかな八田研先輩!”である。 さて最後に、燦々会に先生をご招待した時の写真 をご覧いただき締めとしよう。 (本稿の起草にあたり、スキャナ画像化や八田研事 情の発掘等について真瀬寛兄に多大のご支援をい ただいた。ここに記して感謝のしるしとします) <参考資料> ・追悼文集;八田吉典先生の想い出 73p、嶋村吉紘(S39)編集、H12発行 両市川、漆畑、真瀬の追悼文あり ・CD-ROM;追悼文集にH12.10.9「八田先生を偲ぶ 会」の写真、墓所のある鎌倉霊園案内を付加 |
![]() 横浜中華街/李華飯店にて、S58.11.19 今は故人の菅谷、山口、柳沢、吉田修も元気に参 加していた(本写真には前2者が見える/遠藤撮影) なお、八田先生はH12.2.5ご逝去、享年85才、鎌倉 霊園に眠る 前へ戻る |