どうなる これからの未体験ゾーン

                                       相 原 孝 志

◆ 見守っていこう これからの未体験ゾーン

 私の人生は、既に第四コーナーを回ってホームストレッチに入っており、そろそろ人生の決着をつけるべきゴールも

間近となっているのかも知れない。世間ではこの歳になると「人生の黄昏」であるとか「神様がくれたオマケの人生」

であるとかということを聞くようになるものだが、私はまだそれを実感できないでいる。

それは今こそ「これは面白そうだ」と思うことを、自由にそして存分に実行できる「至福の時」ではないかと確かめつつあるから

なのである。しかし今こそ一番輝ける時かもしれぬと思えることと、わが人生が今後どのような展開をみせていくことと

なるのかとは、現在と未来における全く別次元のことである。

 そこでこれからの未来を自分なりの将来とするために、わが人生を心して見守っていこうではないかと考えたのである。

思わぬ発見があるかもしれぬし、またとんでもない事態の発生によってその先を見届けるどころではない状況に

なるやも知れぬものの、やれるところまででも見守っていこうかと思い立ったのである。

晩年を心穏やかに時の流れに身を任せるのも一法だが、老い先という未体験ゾーンがどのような展開となるものか

注意深く見守っていくことにも好奇の心を唆されるのである。

 このような心境に至ったことには幾つかのきっかけがあった。最近のゴルフプレーにパワー不足を感じていたこと、

去年の人間ドックでは例年になく追加検査が多くなり、古希人の身体老化が顕著になっているらしいことを実感したことにある。

◆ 見守っていくべきこと それは老化と老齢化か

 これからのわが人生を見守るためには、そのポイントは何かを考えなければならないのだが、取敢えずそれは老化と

老齢化とが基本的なものだと思う。高齢化に伴ない身体は老化していくのだが、老化と老齢化とは同じことではなく、

老化は他の動物にもあるが老齢化は人間にしかない。

老齢化とは、年齢とか身体の衰えだけで規定できるものではなく、脳からの意志・指令に対する行動との間の隔たりが増大

していくことをいうのであって、その背離の間にこそ人間特有の思索があり思想が生れるという。

老齢化とは、この間の空想や想像など思考の幅を大きく広げていくことを意味しているというのである。

人間以外の動物の行動は反射的で背離はなく、意思することと同時に行動を起こすことで獲物をとることにつながる。

 さて老化と老齢化を管理していくには、それぞれを具体項目に展開し時系列的に定点観測できることとしなければならない。

老化の推移については、毎年の人間ドック成績とホームドクターによる定期診察結果から自己管理できようが、

老齢化についてはいささか難しい。取敢えず意志や精神力に関わる項目として、好奇心、思考と思索力、意欲と根気、

筆力などを時系列的にフォローしていくこととし、場合によっては死生観の変化を追跡することもあるかもしれない。

これらの項目の管理は、自己管理ができる内はともかくとして、家族などの協力を受けなければならないことも出てこようが、

翳みがちとなるかもしれぬ監視眼であっても自分で管理しようとする気持が大切なのであろう。

とにかく晩年の自分を見詰ていこうと志した今、老化と老齢化そして脳の機能劣化が何時頃どのような

状況となって表れるのか見守っていこう。

              

◆ 人は死と太陽を直視できない

 死は長い生の後にやってくる結末でもなければ終点でもなく、死と生は何時も一緒で表裏の関係にあって、

ただ人はそのことを忘れているのか、気が付かないでいるのだという。

歌人吉田兼好は「本当にこの生を楽しまないのは、死を恐れないからだ。いやそうではなく死の近いことを忘れているのだ」

と言い、俳人正岡子規は「悟りということは、如何なる場合でも平気で死ねることかと思っていたのは間違いで、

悟りということは、如何なる場合でも平気で生きていることであった」と述べたという。

多くの人々は死の恐怖を否定するのでもなく、忘却しているのでもないということだろう。

そこに信仰を持つことによって、永遠不滅の霊魂がもたらされ安寧が得られることを信ずる所以があるのであろう。

しかし霊魂不滅を唱える見方とともに、人間の生は消滅である死に相対する存在であるとの見方もあって、

そこには無信心という痛みは感ずるが死に対する怖れは持たないという見方の存在もありうるのである。

とは言っても、人は死と太陽を直視できないということがある。健康人が死を恐れないでいられるということが

あるのだろうか。

 ところで近代以前においては、死生観とは人間にとって大きな研究テーマの一つとなっていたのだが、

現代日本社会では死に対する関心が以前ほどではなく希薄化し、死生観も変化してきているように思われる。

それは現代では、核家族化が進み平均寿命が長くなっていることで、身近なところでの死との接触機会が少なくなり

死を考えることも減少していることによるといわれている。

しかも社会も国家も長期に継続することで考えられており、どちらかといえば不死の存在が前提ということもあって、

死についての思索の減退を呼んでいるように思われてならない。今の社会は死との接触機会減少と予測が不可能で

あることから、迂闊にも死の必然性を忘却しがちなのか、もしくは必然性に気付かぬ振りをしているのかもしれないと

感ずるのである。

死への関心低下といえば、新興住宅地に墓地がないのもおかしなことだし、死んだカブトムシを見て電池切れ

だという子供の将来も思いやられる。

 

◆ 穏やかなるべきか 晩年への願い 

 現役を引退して、これから先何をして生きていこうか、何を目標とすべきかを真剣に考えたことを思い出す。

古希人となり永きに亘って生きてきた私、これまでを振り返り考えたのである。私は何のために生き、

何を成遂げてきたのだろうか、そして十分努力しその結果は満足できるものなのかと。

半世紀にも近い会社務めを終え、いよいよ悠々自適の時を迎え自由な時間を持てるようになった。

これから先の残り少ないかもしれぬ人生、如何にあるべきかを考えたのであるがその時、

いささか心の揺らぎを覚えたのであった。

それは死を怖れたのでもなく生活の先行きを懸念したのでもなかったのだが、何か心許ない精神的動揺を

感じたのであった。そして暫らくそのことを考え続けて、はたと思い当たったのである。

それはこの先の「生きていく意義」は何なのかを明確にできていないからだということのようであった。

それまでは、会社勤めの仕事そのものを生きる意義としてなんとなく納得していたのかもしれない。

それは仕事を通して社会に貢献してきたともいえるわけで一理はあると思うのだが、その仕事も無くなってしまった。

ならばこれからの「生きる意義」は何か、確たる目標もなかりせば精神不安定にもなろうというものかもしれない。

しばし考えたのである、そしてかなり真剣にである。その結論は「これは面白そうだと思うことを実行しよう」

「やりたいと思うことをやろう」という平凡なものであった。ここまで考え心は落着き、改めて自分の生甲斐を求め

人生を堪能しようとの余裕を取戻した気分となったのである。

 これから先もまだまだ多くの「これは面白そうだ」に出会うことだろうが、同時に人生の締め括りについての自分なりの

心構えも求められていくこととなる。

「これまでは人のことだと思いしに、俺が死ぬなぞとんでもない」(詠み人知らず)ということになるのは

間違いないのだが、今のところはその予定がはっきりしないことを良いことに、何処吹く風の気楽を押し通している。

皆さんもそうだろう、それで良いのだご同輩。

 

◆ 人間にとっての最後の未知

 死生観には「死を通して生を考える」ことの他に、人生の終末としての死についての考え方と、晩年近くで

直接対面することとなる死に対する受け止め方とがある。

今の自分の関心事は、晩年における死に対する認識の推移がどのようなものとなるのか、死に対する恐怖心の変化が

如何なるものなのかが気になるのである。

 身近な人々から、今はの際に「早く楽になりたい」「生きていくのも楽でない」と言われたことを忘れてはいない。

このことは、痛みや苦痛から解放されたいとの願いは大きいものの、死そのものへの恐怖を意味していたとは思えなかった。

多くの人々は安らかに亡くなっていくと言われるのは、新潟で長く高齢者医療に携わってこられた斉藤芳雄医師の言葉で

あり、また村尾勉医学博士は「木が次第に枯れていくように、あるいは朽木がいっきに倒れるように、極めてあっけなく

安楽な死を遂げるものである」とも言っているのである。そういえば、両親も穏やかな死出の旅立ちであった。

 これらから考えるに、痛みや苦痛のことではなく死に対する恐怖については、健康時にこそ強く意識されるのだが、

重い病を得るとか老衰のように心身の衰弱に伴なって希薄緩和されていくのではないのだろうか。

そして自然死の今はの際には、特別な「臨終の心得」を求められるようなことはなく、心穏やかな終末を迎える

ことができる天与の摂理が準備されているのではないか。そうあってほしいと勝手に楽観的に考えてしまうのである。

 それにしても充実した人生を送ることができるのには、支えてくれる家族の思い遣りがあり、

地域社会からの支援と究極の守りをしてくれる筈の国家の存在とがあるからである。

「死は人間にとって最後の未来であり、最後の未知である」(ジャン・ケレビッチ)

そのことを思いそしてその時のことを思って、とりあえず今、燦々会のご同輩達に対し深甚なるお礼を申し上げておきたい。

 

                                    平成2063日投稿