青葉城址かいわい 今昔
相 原 孝 志
終戦後間もない中学生時代、雪中ウサギ狩りに出かけたのである。かなりの登り坂に汗をかき続け何時間かが過ぎたようだ。
そこには南斜面に続く広い松林があり丘の上には野球場があって、その八木山球場は以前アメリカのベーブルースがホームランを
打ったという歴史的なものであるという。しかし、何故ここに野球場が出来たのかと、不思議に思うほどの山奥であった。
そこまでの道の両側にもアカマツ林が広がっていた。松林の木漏れ日が雪道にこぼれ、林を吹き渡る風の音が仲間の声を打消し
、反って静寂さを感じさせる。途中には東北大学の地震研究所があって、こちらの方は研究環境に恵まれているなと
野球場とは違って納得したのを思い出す。いずれこの広大な森林地帯が、経済成長に伴なう都市ドーナツ化現象で開発され
団地化していくのである。
またこの丘陵の北側には深い峡谷があって、そこには伊達政宗公が地形を巧みに利用した青葉城址があり、その渓谷に吊橋が
架かっていたのだ。
引率の先生が言うには、この界隈では旧陸軍第二師団の行軍も良く行われ吊橋を通ったというのだが、橋まで来ると
どうゆうわけか隊長が「歩調取れ」と号令をかけるのだそうだ。今では立派な永久橋となっているが、大揺れするだろう
当時の吊橋の上で鉄砲担いだ兵隊さんたちがどんな顔をして通っていったのか思うと可笑しくなってしまう。
今では「吊橋上での歩調取れ」はまずいのかもしれない。
1940年アメリカで完成後間もないタコマ吊橋が風と共振して落下したこと、そのかなり前にはフランスで歩兵部隊の行進で
バス・シェーヌ吊橋が落下し、それ以降「吊橋の上で歩調をとるべからず」となったのだが、そんな話は当時伝わっていなかった
のであろう。この二つの吊橋落下の原因はいずれも共振なのだが、この共振と精神的な共鳴とは、われわれ人間社会で
多く見られる大切な現象であることを改めて思わせるのである。
ところでこのウサギ狩りは単なる雪中行軍であった由、体育授業の一貫であるのだと先生が最後にのたまうのであった。
当然のこと、ウサギ一匹とも出会うことはなかった。先生といい隊長といい、人を担いだり肝試ししたりで
自分が楽しんでいるのかと、こちらの方も愉快になったのを思い出す。
今やあの丘陵地南側は多くの団地が広がり、野球場は動物公園になりまた近くに遊園地も出来て休日には多くの家族連れで
賑わっている。
そしてこの森林跡地に、当時中学生の自分が将来住むことになろうなどとは、当然ながら当時思いもよらなかった。
ウサギに代わって自分が住むこととなってしまったのである。
そして数年先には、この丘の地下にダウンタウンから川内教養部、東北大青葉山キャンパスを径由する地下鉄東西線の
終着駅が出来るとのことで、今工事用車輌がひっきりなしに行き交っている。
あの半世紀余り前の静寂さは何処かへ行ってしまい、様変わりしてしまった。地震研究所は無論のこと何処かに移転して
しまったのだろう、今ここにはない。それとも逃げ出したのであろうか、環境が大きく変わってしまえばもっともなことではある。
改めて、60余年前の中学生はあの雪中行軍以降を振り返り、「時間」が持つ可能性の大きさを追想し、
そしてこれからの「時」が何を為してくれるのかを思う年頃となったのである。
H20年6月3日投稿