〈燦々会卒業50周年記念特集号に寄せて〉(「受験と大学時代のこと」2008年4月吉日 鈴木敬)
●50数年前(昭和29年)、残雪の仙台に大学受験で“上仙”しました。(山形の田舎からは"お上りさん”でした)
●数日の試験も終わりほっとして、その時に評判のアランラッド主演映画「シェーン」の「遥かなる山の呼び声」を楽しんで
 帰郷したことが思い出されます。
●3月に入り、「桜咲く」の電報を受け、4月から仙台での生まれて初めての下宿生活(米配給券持参)が始まりました。
●山家育ちの田舎弁丸出しの田舎者にとって、仙台は目を見張るほどの都会で最初はおろおろしながらの毎日でした。
●仙台の中心街 「東一番丁」の近くの「片平丁校舎」で大学での講義が始まりました。2年間の教養部のでした。
●高校時代と違った雰囲気の中で、基礎教育授業が始まった。右も左も馴染みのない同朋達(小生は出身校から1名の入学者)と
 机を並べ熱心に?勉学に励んだことが思いだされます。
●その頃友人となった数名と(今も付き合いがある)時間が空いたら、「バンチョウ」(東一番丁のこと)に繰り出て、散策をしたり
“音楽喫茶”にはいり、コーヒーを飲みながらクラッシック音楽を聴いたこともありました。
 また、休日には、近くの「広瀬川」でボート遊びをしたことが大変に懐かしい思い出です。
●その頃は、路面電車が東西南北にわたり走っており無料「乗換券」を利用した、ささやかな遊びの時でした。
●2年後には、専門課程選択となり、希望の「電気工学科」(総勢55名)を選び、あまり判らないまま、研究室を選択配置されました。
(同期7名配属。現在うち2名亡くなった)研究室は銀髪の素晴らしい風貌の鳥山教授や長尾助教授・助手等と2名の大学院生を加え
 10数名でした。憧れの白衣を着て、かなり雑然とした実験室でテーマに取り組み実験に励み2年間を過ごしました。
 研究室は和気藹藹としており、酒の好きなトリンケン(鳥山研)の愛称にふさわしい楽しいところでした。
●段々生活にも慣れ、余暇には市民の合唱団にも籍をおき、週1回の練習にも励みました。また寮主催のダンス講習会に参加し、
 ドキドキしながら女性(学生中心)の手を握りダンスを行い、パーティにも出ました。
 冬には研究室で蔵王でスキーを楽しんだりしていました。スキー靴がないので隣の研究室の教授から拝借したこともあります。
 工学部の教授たちは気さくに学生と付き合う素晴らしい方々が多かった様に思います。
 また他の学科の同輩と一緒に野球の好きな教授とチームを作り楽しんだこともありました。
●音楽の好きなグループを作り、他の学生を集めレコードコンサートを開いたこともありました。
 研究室の同僚と、夏休みを利用し、テントを担いで岩手・秋田方面や男鹿半島にけちけち旅行も思い出の一つです。
●最後の年には、奥只見発電所へ科の実地見学旅行をしたのも思い出されます。(「大学時代の思い出写真集」掲載)
更に、卒業記念の全員での「コンペ」で大騒ぎ、当時の学部長も出席されて「学帽・学生服」でやんやの喝采でした。
●卒業の年、昭和33年は色んなことがありました。
「東京タワー」の完成、「関門トンネル」の21年にわたる工事の完了、仙台で有名なX橋にまつわる「赤線・青線」の廃止には、
 ドキドキしながら怖いもの見たさにそろそろ通った記憶もあります。
●めでたく卒業し、55名の同僚は各界で活躍をして功成り名を遂げ現在は、悠々自適で暮らしています。
●卒業後は、その後何人かのリーダーに恵まれ、卒業年次にならって「燦々会」として毎年複数回集まり、旧交を温めながら、
 楽しい語らいを続けて50年となりました。卒業後のその経過は「燦々会記念写真集」としてまとめております。
                               2008年4月吉日  鈴木 敬 記


前へ戻る